5.契約成立
珠美が呆気にとられ、八重樫がおもしろそうに笑ったところで、タイミングよく食事が給仕された。
八重樫は煮魚定食、珠美は天丼セット(小盛)。
「冷めないうちに食べましょうか。お腹減りましたよね」
「あ。は、はい」
いろいろと聞きただしたい気持ちに肩すかしを食ったようで、珠美はまごつきながら箸をとった。
相変わらず八重樫はよく食べる。大盛りの米飯をがばりと頬張って、気持ちのよい速度で平らげていく。健康な食欲が見ていて快い。きれいな箸使いで煮魚をほぐす、骨を外す仕草は細やかだけれど、せせこましい印象はない。
…なんで私、この人とごはん食べてんだろ。
などと、珠美は今さらなことを思う。
あまりにもフッツーに「飯食いに行きますけど、どうですか」と問われ「あ、はい」と、まるで構えずに答えていた。
この人の佇まいはいつも穏やかで落ち着いている。
生真面目そうな面差しは、がっちりした広い肩幅や頑健な体格とも相まって、バリバリに威圧感を発してもおかしくないのだけれど、不思議な静かさを湛える。
悠揚と大きな生き物が、まったく敵意なく警戒もせず、ゆったりと佇んでいる、そんな印象。
だからか、自分も自然と楽にしていられるのかも。
などと思いふけっていたら、八重樫は先に食事を終えてしまった。
あ。と、ぼんやりしていた自分に気づいて微かにうろたえると、八重樫は逆に申し訳なさそうに苦笑した。
「僕、早飯なんですよ。悪い癖ですよね。前園さんはどうぞゆっくり召し上がってください」
それから八重樫は、もの問いたげな珠美の視線に応えて、彼の仕事について話しはじめた。
彼は“著作権管理課”という肩書きの通り、新聞の記事やコラム、出版物など各種コンテンツの著作権を管理する担当をしている、という。
他のメディアから引用や転載などの利用申請を受けて、許諾や使用条件を交渉をするのが仕事。
大抵の場合は使用条件が定型で決まっていて、マニュアル対応で事足りる。写真1点につき幾らいくら、キャプション表記すること、とか。
「ただ、さっき前園さんが言われたとおりに、ケースバイケースで条件が違ってくることが当然あります。引用や転載の範囲とか、媒体の種類や規模とか。
そういった個々の例では、著作権法に照らしあわせながら、過去の契約条件などを鑑みつつ、交渉して契約をつくっていくことになりますね」
揉めごとになるケースは滅多にないけれど、もし問題が起きて訴訟にまで至るとさすがに弁護士に依頼する。
その際は、弁護士との窓口担当になる。
「一度だけ、訴訟になりかけたときがあって、あのときは大変だったな。でも、個人的にはいい経験でした。
…実は僕、弁護士志望だったんですよ。司法試験に失敗して、諦めたんです」
知的財産取扱技能検定は比較的最近できた制度である。知財検定と略されて3級から1級まであり、検定に合格すると、知財技能士と名乗ることができる。
八重樫は新聞社に入社してから1級(コンテンツ専門業務)を取得したのだった。
「そういう訳なので、お手伝いできると思いますよ」
司法試験対策のときの資料や教材も使えるものがあると思うし。
頷いてみせる八重樫に、
「でもそれは、申し訳ないです」
珠美は反射的に両手を目の前にかざして、遠慮する身振りをする。
正直言うと、ものすごく助かる。しかも八重樫は実際に仕事で具体的な案件を扱っている。
検定の支援だけではなく、珠美の仕事での不明な点についても精確に指摘できるだろう。
単純に、ありがたい話だけれど。
僕は別にかまいませんが。と、怪訝に首を傾げる八重樫に、珠美はしばし考え込んだ後、居ずまいを正して、言った。
「では、教えていただく際に、きちんと授業料を請求してください」
「……授業料、ですか?」
何を言われるかと思えば。
呆気にとられて八重樫は問い返す。
珠美は大真面目に頷いた。
「これは研修です。仕事でやってることなので、そのためのコストは正確に計上しなくてはなりません。
それに、八重樫さんはこの件に関して、実務経験の豊富なプロフェッショナルですよね。
プロは、タダで仕事しちゃダメです」
珠美は明快に言い切った。
八重樫の資格やスキルはプロとしての水準を保つため、日々コストや時間をかけて培われてきたものだ。正当な対価が支払われるべきだし、仕事としての責任を裏付ける意味でも、対価を受け取るべきである。
というのが珠美の主張だった。
「………」
八重樫はいささか気圧されたように黙り込み、まじまじと珠美を見つめた。
軽く眉を寄せた表情は、呆れたようにも、何かを堪えているようにも見える。
やっちゃった。と、珠美は内心で頭を抱えた。
まただ。私はいつもこうだ。
ありがたく親切を受ければいいのに。
“素直になれよ”“硬すぎる”“かわいくないな”
今までに言われた台詞が頭をよぎる。
意地を張ってるつもりもないし、かわいいと思われたい訳じゃない。けれど、相手の善意や親切心までも否定するつもりはないのに。
どうしてこんな言い方しかできないんだろう。
まずったなぁ、と珠美が俯いていると、八重樫が軽く身じろいだ気配がして、それから
「…それは承服できません」
穏やかな声音で言われた。
え。と、顔を上げると、八重樫は特に気を悪くしたようでもない。それどころか、おもしろそうに笑ってさえいる。
それから、うん、と勿体をつけるように頷いて、生真面目に表情を改めた。
どうやら、次は彼のターン。いつも以上にかしこまって、仕事のモードに切り替わったらしかった。
確かに僕はプロですが、今回の場合は対価が発生するほどの成果は約束できかねる、と判断します。
知的財産と一言で言っても、公共性の高い新聞メディアと商用デザインでは畑が違う。まして、海外展開への運用となると、僕のスキルがそのまま適用できる案件ではありません。
ただし、知的財産を扱う根本的な考え方は同じなので、概要を理解するためのサポートはできる。
また、多少の伝があるので、場合に応じてどの方面から調べたらいいか、みたいな情報の集め方、たぐり寄せるコツみたいなものはわかります。
それから、知財技能検定について。こちらも、たぶん支援できると思いますが、なにぶん僕が受験したのは数年前のことで、いくぶんか錆び付いている。資料や書籍も内容が古くなっているものもあるかもしれません。
それでも、多少は使えるだろうし、前園さんの学習の状況に応じて必要なことをアドバイスできるかと思います。
ですが、せいぜいがその程度です。先輩のノートを貸し借りする、くらいの感覚が近い。
「よって、対価が発生するには至らない。これは、プロとしての判断です」
……真面目か!
って、言い出した発端の自分がツッコめる立場じゃないけど。
珠美は八重樫を呆れ気味に見返した。
この人はいつも、真正面から応えてくる。
思えば、最初に出会ったときからそうだった。「名前で呼ばれるのは嫌だ」と言う珠美を、「まあまあ」とか宥めたりするのではなく、「彼女の意志を尊重すべき」と受け止めてくれた。
ごく自然に、当たり前のように。
淡々とした説明の後、八重樫は肩をすくめるようにして、小気味よさそうに笑った。
「それにしても、“プロはタダで仕事しちゃダメ”ですか。そんなこと初めて言われたな」
大抵は無料の相談相手にされちゃうんです。僕なんか全然マシなほうで、知り合いの弁護士や行政書士の間ではあるあるネタなんですよ。彼らに聞かせてやりたいな。
堪えきれなくなったらしく、くくっ、と笑い声を洩らした。
「かっこいいですね、前園さんは」
愉快そうに肩を揺らし続ける。
バカにしたり、困ったように苦笑するでもなく、本当に楽しそうだった。
…なんかチカラ抜ける、この感じ。
珠美は軽く笑い、思いがけず、それは安堵のため息のようになった。
それから、八重樫はいつものように生真面目な様子で言い添えた。
「もちろん、余計なお節介になってしまうようなら遠慮なく断ってください。もしくは、“タダ”が気が引けるということであれば、缶コーヒー1本くらいでどうですか」
冗談のつもりらしい。彼が言うと冗談に聞こえない。
「…コーヒーショップのトールサイズくらいは請求してください」
よろしくお願いします。
そう返すと、彼は心得顔で頷き、契約成立ですね、と言った。