4.お久しぶりです。
一方で、八重樫望とは、先日来、接点はなかった。
互いに避けている訳でもなく、単にスクールに通っている曜日が違うだけだ。それでも、なんとなくばつの悪い思いもあったから、珠美には都合がよかった。
ところが、ある日のこと、珠美と八重樫は教室の出入り口でばったり出くわした。隣りあう教室の右と左、それぞれのクラスで授業が終わったところだった。
「あれ。こんばんは、前園さん」
「…こんばんは」
何はなくともきちんとご挨拶、のふたりである。それから、八重樫は微かに相好を崩して、お久しぶりです、と言った。
「珍しいですね。今日はいつもの翻訳クラスとは違うんですか?」
曜日がイレギュラーだったのは珠美のほうだった。
「…ええ、まあ」
苦笑しながら曖昧に答える。困り顔なのは八重樫のせいではなく、受講していた授業のせいだ。
珠美が出てきた教室のクラス名表記を見上げて、八重樫は怪訝に首を傾げた。
「……“貿易実務検定?”」
「会社の研修扱いなんですよ」
珠美は照れくさそうに答えた。
別に隠していた訳ではないのだけれど、今さら改めて名刺交換となると、なんだかヘンな感じがする。
「亀ヶ丘パッケージシステムさん、ですか」
失礼ながら社名は存じ上げないんですが、この商品の箱は見たことあります。
そういう八重樫が差し出した名刺は。
「…毎朝新聞・法務部。八重樫さん、新聞社にお勤めだったんですね」
新聞社ってすっごい忙しい、ってイメージです。大変そう。
「部署によりますよ。政治部とか社会部なんかはいつもバタバタしてますけど、僕は事務方だし、そんなに残業したりとかはないんです」
教室の前、そのまま廊下で立ち話をしていたら、「もう教室閉めますから」と事務局スタッフに追い出された。
いつもの習慣で夕食をとってから帰る、という八重樫につきあって地下鉄の駅近くの和食系ファミレスへ。
「あれ。牛丼屋さんじゃないんですか」
「さすがにちょっと飽きてきたもので。最近はこっちが多いです」
注文をすませたところで名刺交換と相成った次第。
八重樫は興味深げに珠美の名刺を眺めていたが、ふと気づいて彼女に話しかけた。
「…なんだかお疲れみたいですね。研修?って言ってましたっけ」
お誘いしちゃって悪かったかな。
「あ、いえいえ。何か買って帰るか、どこかで夕食済まして帰ろうと思ってたんで、むしろちょうどよかったです。しばらく研修が続くんで、食事の支度とか億劫になっちゃって」
気遣わしげな気配をなだめるように、珠美は笑って答えた。
「その研修って言うのも、半分自分で背負い込んだようなものなんですよ」
ほとんど社長の趣味なんですけど、弊社の研修制度は中小企業の割には異様に充実してるんです。
しかも、上から「この研修受けてきなさい」っていうんじゃないんです。従業員それぞれが「これ勉強したいです」って申し出て、その内容に対して手当が出たり勤務時間扱いになったりする仕組みなんです。
研修先も基本的には自分で探してきます。実績のない新規の研修先は審査されますけど、カルト宗教紛いの自己啓発とか、よほどヘンなところでなければ申請許可おりますよ。
「…へえ、研修先まで。それは徹底してますね。従業員の自主性を重んじる、ってことですか」
「そうですね。本人にやる気がなかったらちっとも身につかない、って社長はよく言ってます」
審査も兼ねて、社長も授業を受けに行っちゃったりするんですよ。もともと、自分がいろいろ勉強してみたい、っていう人なので。
「なるほど、勉強好きの社長ですか。いいですね」
「ですから、本当に社長の趣味なんですよ。経理部長なんかは苦い顔してます」
「あ。それじゃあ、ひょっとして翻訳クラスも研修だったりするんですか?」
「いえ。あれは、完全に趣味です」
今の業務とも関連はないですし。というよりも、仕事を離れて楽しみたくてやってることなので。
それに、研修扱いにすると、費用を出してもらえたりするのはいいんですけど、学んだことをレポートしたりレクチャーしなくちゃならないんですよ。業務扱いなんだから当たり前ですけどね。
そんな感じなんで、変わった資格持ってる人とか結構いますよ。バブルの頃なんか、ゴルフのプロ資格とっちゃった猛者もいたんだそうです。今なら、まず申請許可おりないですけどね。
「それで、さっき受けてらしたのは“貿易実務検定対策”でしたか?」
「はい。弊社からある食品会社に出向してる社員がいて、その補佐を担当することになったんです。その食品会社がインドに生産ラインを構築するプロジェクトに参加していて、なので、当然ながら書類が英語なんですよ」
もちろん、間に商社も入ってて、正式な契約書やレポートはちゃんと訳出されますけど、ある程度私も専門用語とか知っている方がスムーズかな、と思ったんです。
そっちはまだいいんですよ。目標設定としては、とりあえずの概要把握で十分なので、実際の受験は考えてないんです。
「それよりも、もうひとつ“知的財産管理技能検定”という検定試験があって、そっちのほうが難題なんですよ…」
「……知的財産」
反復しながら、八重樫は片眉をあげて、おや、という表情を見せた。
商品のパッケージデザインやCIの管理は弊社が請け負ってるんです。それで、現地の管理会社や印刷を任せる工場とも折衝するんですが、ちょっと難航してるみたいで、今のところ商標・意匠権関連の書類やレポートが多いんですよね。
で、英語はともかく、商標デザインなどの知的財産の知識が必要になってきて。
もちろん、社内の企画部とかデザイン課は全員、必須で検定を通ってるんですけど、いちいち聞きにいってられない場合も多いんですよね。
「それで、前園さんが検定を受けることにしたんですか?」
「そうなんです。上司とも相談して、将来的にも営業部でわかる人間がいたほうがいい、ってことになって」
とりあえず通信制の教材を見つけて申し込んでるんですけど、知財管理ってホント、ケースバイケースってことが多いらしくて、一筋縄じゃいかないんですよ。結構手こずってます。
「あ、ごめんなさい、仕事の話ばっかりで。研修受けさせてもらってる手前、会社ではあまり愚痴も言えないもんだから」
珠美が肩をすくめて謝ると、八重樫はなんともいえない含んだような笑みを浮かべて、おもむろに言った。
「お手伝いしましょうか?」
「え? 八重樫さんが? でも…」
「名刺、よく見てください。肩書きのところ」
珠美が怪訝に八重樫の名刺に目を凝らすと、そこには“法務部・著作権管理課・使用許諾申請担当”と書かれている。
「僕の専門は、知的財産管理なんですよ。もちろん持ってます、知財技能士1級、コンテンツ専門業務」
なんだかすごい偶然ですね。
珠美の驚いた顔に、ははは、と愉快そうに笑った。