3.保留
「ところでさ、ハルくんはどうしてんの?」
書き付けたメモ用紙を眺め渡して、一行足りなくね? とマリエは尋ねた。
律儀な珠美のことだから、少なからず世話になった佐藤晴彦にも仁義を通さないはずがない。
「へらへら調子いいコだけど、結構本気で前園のことを心配してくれてんでしょ? 同じ会社だからあんま詳しいことは話せないかもしれないけどさ」
「………」
珠美は黙然と、空になったマグカップを手の中でもてあそぶ。
実は、目下の困りごとは佐藤晴彦なのである。
「話をさせてくれないんだよね……」
つくづくと困り果てて、珠美は吐き出した。
佐藤がピュア善意で接してくれていることは珠美もわかっている。好意を持ってくれていることも。
その本気の度合いがいかほどのものかは容易に察しがつかないけれど、好意を示されたからには応答せねば、と、珠美は思う。
かくして「聞いてほしいことがある」と、佐藤を呼び出すと、
「うん、じゃあインドカレー食いに行こうよ」
いつもの気楽な調子で言った。そこまではいいのだけれど。
「話は注文してからね」
「とりあえずビールで、はい乾杯乾杯」
「熱いうちに食おうぜ」
「ん! これうまいよ、食ってみ食ってみ」
「追加オーダーする?」
「デザートは?」
話を切り出そうとするタイミングを、それはもう丹念にぷちぷちとつぶしてくる。あまりの見事さに呆気にとられてその日は切り出せず、日を改めて言い出そうとするも、同じパターンでタイ料理に連れていかれた。
「サービス券の期限が迫っててさ。ちょうどよかった」
なんにする? トムヤムクンはマストだけど、このソムタムっていうのもうまいよ。青パパイヤのサラダみたいなやつ。
メニューを指さしながら、淀みなく話し続ける。
さすがに二度も同じ手で煙に巻かれる訳もなく、珠美は
「佐藤さん」
と遮った。困ったような、怒っているような顔。
「…ごめん」
彼は叱られた子どもみたいに、しょんぼりと謝る。
「ごまかすつもりはないんだけど……。いや違うな。ごまかしました、わざとです。……あのさ、俺、その話聞かなきゃだめかな?」
さっきまでの明朗な調子とうってかわって、気まずそうに俯いた。
「…だってさ、前園さんが何を言うつもりか、もうわかってるもん。俺に、あきらめてくれ、って言うんだろ?」
「………」
珠美が返答に詰まると、やっぱり、と苦笑した。
とりあえず間に合わせに頼んだビールをちびちび口に運びながら、「まあ聞いてよ」と佐藤は口火を切る。
珠美が話すつもりだったのが、話を聞く立場になった。
俺、こんな感じじゃん。へらへら調子よくて、わりと誰とでもうまく合わせられる。
女の子とつきあうのもそんな感じでさ、「ハルくんって話しやすいね」「いっしょにいると楽しい」「つきあおうよ」とか向こうから言われて、それほどこだわりなく「うん、いいよ」って、成り行きでつきあうパターンが多かったんだ。
成り行きとはいっても、ちゃんとそのコのこと好きになったし、大事につきあったよ。少なくとも自分ではそのつもりだったんだけどね。
でも、たいていの場合、「私のこと、本気で好きなのかわからない」とか言われて、振られるんだ。
それとか、もとから“本命”の恋人をつかまえるまでのつなぎにされちゃったりとかね。
「……そんな」
珠美が眉をひそめると、佐藤は笑って肩をすくめ、自虐的におどけた調子で重ねた。
「とにかく俺、軽いしチャラいからね。あんま本気にされなくても仕方ないのかもな」
で、今までずっとそんな感じで。
成り行き任せで、自分から人を好きになるってあんまりなかったんだ。
前園さんのことは、自分から好きになった。
俺はあなたが好きだよ。
俺のちょっかいなんかテキトーに流して知らん振りすることだってできるのに、ちゃんと律儀に返事しようとしてくれる前園さんが好きだ。
それに、前園さんのことが好きな自分も気に入ってる。
自分からあなたを好きになれた、ってことが、すごく嬉しいんだ。
「…わかってもらえるかな」
佐藤は少し照れくさそうに頭をかいた。間を持たせるようにグラスを干して、自分で継ぎ足す。
珠美は何とも言えずに、ただ黙っていた。なにか応えなくては、という気持ちと、申し訳ないような気持ちで、なんだか居たたまれない。
それを見て取って、佐藤は宥めるように重ねる。
「困らせてごめん。
でもさ、無理に応えようとしてくれなくていいんだ。前園さんが俺のことなんとも思ってなくても、それでもいい。全然かまわない」
俺を好きになってくれたら、そりゃ嬉しいけど。
俺は、あなたを好きでいるだけで結構シアワセなんだよ。
だから、お願いだ。
もう少しだけ、このまま保留にしといてくれないかな。
あなたのことを、好きでいさせてほしい。
言ったろ。俺のことは犬とか猫が懐いてると思ってくれ、って。
「わーお! 熱烈じゃん」
マリエは楽しそうに手を打ってはしゃいだ。
「すごいすごい。ハルくん、頑張ってるー!」
「それどころじゃないってば…」
珠美は頭を抱えた。
そこまで言われてしまっては、何も言い出せない。
結局その日はトムヤムクンとグリーンカレー、空芯菜炒めにソムタムに締めのカオマンガイ、デザートのココナツアイス・タピオカ添えまでがっつり食事につきあわされた。奢りを断って割り勘に持ち込むのが大変だった。
こんなふうに臆面もなく好意を傾けられるのは初めてで、どうしたらいいかわからない。
しかも、曖昧に態度を保留して応答しないでいることがひどく不誠実な仕打ちに思える。
なのに、彼は断らせてくれない。
途方に暮れたような珠美に、マリエは笑ってしまった。ホントに四角四面で意固地なやつ。
呆れた心情を隠そうともせず、珠美の頭をぽんぽん、と撫でながら説教口調で言った。
「あのねえ。そんなに急いで白黒つけようとしなくってもいいじゃない。ハルくんのことがイヤで迷惑してる訳でもないんでしょ?」
「…うん、まあ。迷惑、っていうのとはちょっと違うけど。でも私、今は恋愛とか考えられないし、悪いじゃない? 応える気もないのにずるずる引き延ばすみたいで」
「本人が“保留でいい”っつってんだからいいじゃん」
前園はさ。何事にも意志的で、態度を白黒はっきりつけて責任負おうとして、それはあんたのいいとこかもしれないけど。
でもそれ、単にあんたが単細胞で、どうにかして白黒つけたいだけじゃね? はっきりしない曖昧さに耐えられないんだよ。
う。と、珠美は痛いところを衝かれて呻く。
よしよし、と優しげに頭や肩を撫でて宥めるくせに、マリエの言うことはさくさく容赦ない。
世の中の大抵のことは白か黒かなんて割り切れなくて、白っぽいグレーだったり、黒に近いグレーだったりするじゃん。
グレーはグレーのまま受け止めておきなよ。
気持ちの行方なんて、いくら考えたってどうにもなんないでしょ。成り行きに任せたほうがいい場合だってあるんだからさ。
ほれ、チカラ抜いて。もっと気楽にやんなよ。
頭を撫でる手がだんだんと雑に、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜて乱すだけになって、珠美は「ちょっと」と抗議の声を上げた。
「…ていうか今野、あんたまた論文に行き詰まってんでしょ」
がち。とマリエは固まる。彼女は、某大学の研究室に籍を置く数学研究者だ。
「さては図星! 成り行きに任せたいのは今野じゃないの?」
「ちっ、うっさいなー。ヒラメキを待ってんだよ、ヒラメキを」
「何その言い訳。コドモか」
うるさいうるさい、とマリエはさらに珠美の髪をボサボサにかき乱し、応戦した珠美に脇を狙われ、ぎゃあ、とか雄叫びをあげたり、ひとしきり騒いで、しまいにはふたりしてげらげら笑ってしまった。
「あー、笑いすぎてお腹痛い。何やってんだろ、もう」
「今野が最初に仕掛けてきたんでしょ」
「前園も少しは手加減しろっての」
「何でよ、やだよ」