2.バニラシュガー(シュガーポット)
・発端。前園珠美は、同じ会社に勤めている交際相手・水野孝之に突然別れを告げられる。まったく前フリなく、転職&知らん女(転職先の重役の娘)との婚約をキめる荒技を食らった。
・語学スクールで八重樫望 (いいヤツ)と知り合う。
・交際の破綻から2ヶ月後、水野は退職。退職間際に彼の婚約者からエグい嫌がらせアリ。
・ダメージ甚大な前園は同僚の佐藤晴彦(調子いいヤツ)に慰められ、その後、やたら懐かれる。
・さらにその後半年くらい。八重樫に恋情を告白される。タイミングの悪さ故に、前園はブチギレて拒否る。
・その直後くらいに、水野の弁護士から連絡を受け、水野との破綻の真実と、彼の婚姻事情を明かされる。なんと水野の妻はコントロールフリークなDV妻だった。水野は、前園が浮気していると信じ込まされていた。
・水野の事情に納得し謝罪を受け容れたものの、復縁には至らず。
・八重樫にブチギレた事情を説明し謝罪。改めてお断りする。
・その後数ヶ月ほど。←今ココ。
「“←今ココ”、…っと」
今野マリエは、ローテーブルに胡座で陣取り、何やらこりこりと書きつけていた。
週末の午後、マリエは珠美の部屋に遊びに来ている。
最近どうよ、と、いつもの台詞で珠美の近況を尋ね、何を思い立ったか、おもむろに事の顛末を書き留め始めた。
「……なに書いてんのかと思えば、まったく今野は」
珠美は、熱いよ、とマグカップを渡しながら、呆れてマリエの手元を覗き込む。
「ちょっと時系列の整理をね。お、ありがと。あれ? 珍しいね、ホットミルク? バニラの香りがする」
「最近凝ってるの。知り合いにバニラビーンズを貰ったんで使ってみたら、思ってたよりクドくないんだね。これは、バニラシュガーを入れたホットミルク。今野、好きだと思うよ」
シュガーポットの中に黒くて細長いバニラビーンズが埋めてある。バニラの香りをグラニュー糖にうつしたものがバニラシュガーだ。
「プリンもつくってみたから、お土産に持ってって」
「ホント? 嬉しいなー、バニラ大好き」
甘味好きのマリエは、あちちち、と嬉しそうにホットミルクを啜る。
「甘くていい香り。うっとりするね」
「そうなの。あんまりいい香りだから、つい、莢のところ齧ってみたんだけど、味はエグいっていうか、苦いんだね。悶絶した」
バニラビーンズは細い莢の中から中身をしごき出して使う。その後の莢をつい噛んでしまったらしい。
珠美の苦い顔に、マリエはつい噴き出した。
「わかる! あれね、つい食べてみたくなるよね。私もやったことある、ひっどい味なんだよね!!」
「あんな甘い香りなのに。詐欺だ」
味を思い出したのか、珠美は本気で渋い顔をした。
拗ねたような表情が妙にかわいくて、マリエはけらけらと笑う。
「しかしまあ、短期間にいろいろあったんだねー」
マリエは笑いを収めると、時系列を整理したメモを眺め、やけにしみじみとした声音で言った。
「まさか、水野氏がそんなトラブルに巻き込まれてたとか、思いもよらないよね」
「うん。聞いたとき、びっくりしたよ。……なんだか、その行だけ浮いてるね。現実離れしてる」
「確かに」
そこでマリエは心配そうに珠美を窺った。気遣わしげな声音で尋ねる。
「……っていうかさ。今さらだけど、前園、水野氏のことはもう本当にいいわけ? 誤解っつーか、陥れられたようなものなんでしょ?」
「うーん」
珠美は曖昧に唸った。困ったように苦笑して、それから、うん、と頷く。
「ホント、今さらだね。孝之さんのことは、もういいんだよ。一応、納得したから」
さらりと流すように言ったけれど、マリエは“一応”という言辞を聞き逃してはいなかった。どういうこと?と目で問うと、珠美はもう一度苦笑した。
「…確かに、私も孝之さんもあの人にむちゃくちゃされたけど。でも、あの人のせいだけかな、とも思うんだよね」
長谷川由紀、という彼女の固有名詞を使いたくなくて、“あの人”と曖昧に言い換える。
「ひと言、確かめればいいだけだったかもしれないのに。ふたりとも、そのひと言を言い出せなかった。たったひと言を怠ったせいで、ここまで壊れたんだよ。全部が全部、あの人のせいじゃない」
「…怠った、とかそんな大げさな」
相変わらず前園は自分に厳し過ぎる。と、呆れたようなマリエに、珠美はかぶりを振った。
「それだけじゃないよ。孝之さんに対して、どうして、って気持ちもあるし」
私の浮気を信じこんだとして、別れる、ってとこまではまだわかる。
けど、どうして結婚? どうして転職?
それはあの人のせいではなく、私のせいでもなく、彼自身が決めたことなんじゃないの?
企業重役の娘であるあの人と結婚して、その企業に就く。それって、野心がまったくなかったとは思えない。
その選択まで、あの人に陥れられた、って言ってしまうのは卑怯じゃないかな。
「……それは、まあ、その。珠美のことでショック状態だったところを、言葉巧みに誘導された、とかさ。例の弁護士もそんなようなこと言ってたんでしょ。相当エグいことまでされたんだし」
マリエがもそもそ言ってみると、珠美も「うん、まあね」と頷いた。
「たぶん説明はつくし、納得もする。でも、だからって元には戻れないよ」
水野とやり直したとしても、どうして? と思い続けるだろう。重石をつけて沈めたはずの疑念が何かの拍子にぷかぷかと浮かび上がってきて、その度に必死で抑えつけて沈め直す。きっと、そんなふうになってしまう。
理屈では納得しても、感情は抑えきれない。
そして、たぶんそれは、水野自身が一番強く感じているはずだった。
「卑怯なことが嫌いな人だったから。たとえ私が、もういい、って言っても、彼自身が自分のことを許せないと思う」
「……なんつーか。水野氏も、あんたに負けず劣らず意固地なんだね」
似た者カップルかよ。しみじみと呆れるマリエに、もうカップルじゃないってば、と笑って返した。珠美にとっては完全に終わってしまったこと。それがはっきりと滲む声音だった。
そして、終わってしまった今だからこそわかる。
「…由紀さんのことも、まったく気持ちがない、って訳じゃなかったと思う」
珠美は初めて、水野の妻の名を口にした。
「責任感とか打算とか野心とか、そんな理由だけで結婚したりしない。そんな器用な人じゃなかったから」
水野はたぶん、少なからず由紀に惹かれたのだろう。そして、そのことが後ろめたかった。
だからこそ、珠美の不貞が許せなかった。自分は珠美のために誠実であろうとしているのに、珠美は悪びれもせず他の男に抱かれている。その勘違いは、水野から冷静さを奪った。
そして、怒りにまかせて、彼は敢えてわざわざ珠美を傷つける手段をとった。
一連の出来事を一歩引いて眺め渡すと、違った様相が見えてくる。
珠美は既に他人事のように感じている自分を、改めて自覚した。
「私は、もういいの。気持ちのおさまりがついたから。今となってはもう、あのふたりの問題だよ」
「…そっか」
まあ、ふっきれたんなら、よかったよ。
複雑な面持ちながら、マリエは安堵したように息を吐いた。
「ホットミルク、お代わりする?」
気を取り直したように珠美が尋ねる。
「うん、貰う。バニラシュガー増し増しで」
答えながら、マリエはシュガーポットの中のバニラの莢を掘り起こし、つくづくと眺めた。
うっとり甘い香りのバニラは、実はとても苦い。まるで、恋の残骸のように。
などと、珠美の心情を察して重ねてしまうのは深読みのし過ぎかなあ、などと、マリエは苦笑した。
実は、バニラビーンズ買って試してみたんですが、別に苦くはないです(おい!)。特に味はない、かなあ。でも、苦い苦い言ってる方もいらっしゃるので、苦く感じる場合もあるのかも…。