11.Wasabi2
「へ――――――――。前園って結局、ガッシーなんだ」
マリエは、ほーん、とか、ははーん、とか、しきりに驚きとも納得ともつかない相槌を打ち続ける。
「ガッシーって(笑)。あれ、でもマリエさん、まだ前園さんから聞いてなかったんだ」
佐藤は意外そうに目を見開いた。
佐藤が珠美に決定的にふられてから数日後。
今野マリエは佐藤晴彦に呼び出され、鮨屋のカウンターに隣り合わせていた。
この店は、佐藤の妹・弥生の修行先で、偶然にも妹の名と同じ「弥生寿司」という。
「まあ、前園の性格からして“彼氏ができたの♪”とかこっ恥ずかしくて言えないだろうけどね」
マリエは、ほい特別慰労サービス、と、彼のグラスにビールを注いでやりながら、いたわる口調で言い添えた。
「でも、きっとそれ、一番にハルくんに知らせたんだよ。それが前園なりの、ハルくんに対する仁義、ってことなんだろうね」
「……仁義」
佐藤の頭の中でVシネ調のサントラが鳴り響く。
言いたいことはわかるけれど、マリエの口から出るとやけにバイオレンスな印象になるのは何故だ。
「前園さん、義理堅いからなあ」
会社ではサムライと称されている、と聞いて、マリエは呆れた顔をする。
「俺、その義理堅いとこに、つけこんじゃったよな……」
佐藤は以前、珠美が人目を避けて泣いているところを偶然目撃し、放っておけなくて慰めたことがある。
「別にたいしたことじゃないんだけどさ。でも、前園さんはすごく恩義に感じてくれて。
で、俺、どっかでそのことを恩に着せる気持ちがあったんじゃないかなあ」
あんとき、慰めてあげたじゃん。みたいな、上からな感じで。
「それに同じ会社ってのも、意外と不利だった。彼女、仕事中はかっちりプライベートと分けたいタイプだもんな」
もうちょっと違うきっかけで、違うとこで出会ったら、また違ったのかな……。
マリエはもくもく鮨を食らいながら、佐藤のしょぼくれたグチを黙って聞いていた。
佐藤がビールばかりでろくに食べないので、佐藤のぶんの握りにも手を出す。
「相変わらずよく食うね、マリエさん」
佐藤が感嘆するのも無視して、ウニとか甘エビとか高級なネタまで遠慮なくかっさらってしまった。
ひと通りたいらげてしまうと、やれやれ、と呟いて佐藤を睨みつける。
「ほんっとにこの小僧は、飯がまずくなるようなことばっかりグチグチ面倒くさいな。せっかくの鮨なのに」
「うわヒドい。マリエさん冷たい」
嘆く佐藤に、マリエは知らん顔でほうじ茶を啜った。
そして、
「自惚れんな、阿呆」
と言い捨てる。
「さっきから黙って聞いてりゃ、しょーもないな、まったく。
それじゃ何、同じ会社じゃなければ前園はハルくんを選ぶんだ? だったら会社辞めればよかったじゃん」
○○だったからダメだったんだ。とかさ。
それ、○○じゃなかったら選ばれたはずなのに、って言ってるんだよ、わかってる?
すんごい自惚れじゃん。
「マリエさん……」
佐藤、瀕死。
“青菜に塩”の図示にぴったりすぎるくらいにしおしおと縮こまり、世にも情けない顔でマリエを見上げる。
あまりのしょげように、マリエは思わず吹いた。よしよし、と頭を撫でてやりながら、「違うでしょ、ハルくん」と言った。
「前園がハルくんを断ったのは、ハルくんがガッシーじゃないからだよ。
そんなもん、どーしょーもないでしょうが」
ハルくんは、前園が好きだったの。ただただ、大好きだった。そうでしょ?
そんで、一生懸命、精一杯、気持ちを伝えたんだよ。
結果的には、気持ちを受け取ってもらえなかったけど。
でも、そんなに好きだった、ってことまで、ダメにしちゃうことないじゃん。
「ハルくん、がんばったよ」
ね? と、マリエに笑顔を向けられて、佐藤はふにゃふにゃと力が抜けてカウンターに突っ伏した。
うえーん、と泣きまねをすると、マリエは、やーい泣き虫、と笑う。
「もっと撫でて」
「甘えんな」
「マリエさん冷たい」
「どこがよ。超優しいのに」
一連のやりとりをカウンター越しに眺めていた弥生は、あまりに見事な兄の転がされっぷりに感心しきりだった。
マリエさん、すごい。っていうか、兄貴、ちょろい。
突っ伏していた佐藤は、くくっ、と笑いながら顔を上げ、敵わないな、マリエさんには。と嬉しそうにしている。
佐藤のぶんの茶碗蒸しに手を出すマリエに「いいよ、食って食って」と差し出した。
彼女の横顔を眺める佐藤の視線は、心なしか柔らかに甘い。
あれ? おやおや? 弥生は内心で、ひゅう、と口笛を吹いた。
つーか、立ち直り早ェな。どうでもいいけど、妹の職場でそんなあからさまなの、やめてくんねェか。いつもながら恥ずかしい兄だ。
茶碗蒸しを瞬殺したマリエは満足そうに「ごちそうさまでした」と、弥生に声をかけた。
「いいお店だね。お鮨おいしいし、ゆっくりくつろげて居心地いいし」
「ありがとうございます」
兄に対しては伝法な江戸弁だけれど、さすがに接客対応は弥生も弁える。
「お鮨もだけど、このガリもおいしいね。甘くないんだ」
「店の自家製なんですよ」
新ショウガを塊で漬けて、お出しするときにスライスするんです。よかったら、お土産にお持ちになりますか?
「あ、だったら握りも折につくってもらえるかな。3人前くらい」
「まだ食うの?!」
さすがに驚いて佐藤が口を挟むと、土産だっつってんじゃん。と、マリエが口をとがらせた。
「せっかくだからオットにも鮨食わせたいし。それに、近所の友達が来てるはずなんだよね」
「…………オット?」
素っ頓狂な声をあげる佐藤に、
「そう、夫」
マリエはへーぜんと返す。
「…ご結婚なさってるんですか」
そのまま、かちーんと硬直してしまった兄に代わって妹が尋ねた。
うん。結婚してもう5年、いや6年になるのかな?
ていうかね、私、こう見えて36歳だから。
「さんじゅうろくさい」
見えない。
どう見ても、27歳の佐藤と同年代か、それより下に見える。
「もうねー、昔からウルトラ童顔でさ。
前園とは大学んときに知り合ったんだけど、私、その前に他の大学と大学院も出てて、そんときで大学3つめだったの」
あ、ちなみに今野は旧姓ね。今は笹原っていうの。
笹原マリエ。
前園とは大学んときから呼んでた名字呼びのままでさ、まあ“今野”はあだ名みたいなもんだね。
「……指輪、してないんですね」
硬直したままの兄がなかなか解凍されないので、弥生が尋ねるしかない。
「うん、最近サイズ変わっちゃって。直しに行こうかとは思ってんだけど、つい行きそびれちゃってね」
チェーンに通してペンダントにしてるんだけど、これも気に入ってるから、このままでもいいかな。
「いや、直したほうがいいですよ……」
「そうかな。まあ、そのほうがわかりやすいか」
「わかりやすいのって、大事ですから」
「あれ? ハルくん? どした、泣いてんの?」
佐藤は、心持ち斜めに傾いだ姿勢で、顔を俯けて目元を覆い、うなだれてしまっている。
このヘタレ兄貴。
弥生は内心で悪態をつきつつも、これはヘコむのも無理ないか、と多少は同情した。
「あー、ワサビですよ。兄は、唐辛子とか辛いもん好きなくせに、ワサビはからっきしなんです」
「だけどハルくんのぶんってサビぬきだったよ?それに、ろくに食べてないのに」
「……たまに、刺身皿から揮発した香りでもキいちゃうことがあるみたいで」
く、苦しい。さすがの弥生さんでもこのフォローはキツいぞ。
そうなんだ。大丈夫?
幸いにもマリエは大して疑っていないようだ。
「……兄貴、顔洗ってきねェ。その間に片づけッから」
「うわー、そんなチャキチャキの江戸弁、初めて聞いた。かっけえ」
おもしろがるマリエに、「鮨折三人前、すぐご用意しますね」と愛想笑いを返す。
自分でも口角がひきつるのを自覚しつつ、弥生はつくづくと、しみじみと、心の底から、兄の幸福を願うのだった(いちいちヘコまれると面倒くさすぎるので)。