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Vanilla  作者: ムトウ
10/11

10.お祝いしましょう。

 珠美は、無事に検定試験に合格した。

 試験の直前に八重樫といろいろ(笑)あったけれど、せいぜいが語尾に(笑)がつく程度の“いろいろ”であるし、どちらかというと恋愛モードより仕事モードのほうが得意な性分もあって、まったく問題なく恙なく。



 勉強部屋代わりに使わせてもらっていた会議室の片づけをしていたら、

「研修お疲れさま。知財検定、合格したんだって? おめでとう」

 佐藤晴彦が顔を出した。


「お祝いしようよ、お祝い」」

 いつものように朗らかに声をかけてくる。

「……うん」

 珠美の返事はどこか上の空で、まるで気がないように聞こえる。佐藤は、あーあ、と苦笑した。


「いいじゃん、マリエさんも誘ってさ。俺、ご馳走するよ」

 台湾茶芸の店とかどう? 点心食べ放題で、種類いっぱい食べられるよ。甘いものもあるし。

「佐藤さん」

 と、珠美は饒舌な佐藤を遮って、

「今晩、空いてる?」

 と尋ねた。


「洋食屋さんなんだけど、どうかな。タンシチューがおいしいんだって。あとね、手打ちのラビオリが名物らしいよ」

 “営業部備品”と書かれたグルメ雑誌の、付箋を貼ったページを開いて指さした。


 佐藤は一瞬、ぽかんと口を開けて事態の把握に戸惑い、それから、

「……前園さんが、俺を誘ってくれんの?」

 と、嬉しそうに応じた。

「行く行く。もちろん、OKだよ」

 嬉しいなー。前園さんから誘ってくれるなんて、初めてだよね。

 弾むような声で無邪気に喜ぶ佐藤に、珠美は硬い声で言い添えた。

「彼が、お祝いしてくれるって」


「……彼って誰」

 察しのいい佐藤には、珠美の声音と表情から、彼女が言いたいことはすぐにわかった。わかってしまった。

 それでも、一縷の望みを捨てきれず、なんでもないふうを装って尋ねる。

「私の、好きな人。語学スクールで知り合って親しくなってね。ついこの間、気持ちを打ち明けたら、彼も応えてくれた」

 彼氏彼女、って言い方はなんだか気恥ずかしいんだけど、彼、っていうのは、そういう意味の、彼。


「佐藤さんには普段お世話になってるし、紹介したいな、と思って」

 その台詞にはおよそ似つかわしくない、申し訳なさそうな、こわばった表情だった。


 佐藤は深々とため息をつく。

「……そう来たか――――」

 やられた。誘ってもらえて、浮かれて返事をしたところに爆弾を投下され、躱す間もなかった。

「ひどいな」

 ふざけて茶化すつもりだったのに、自分でも思ってもみないほど傷ついた口調になってしまった。

 珠美はますます辛そうな表情になる。


 そんな顔をさせたい訳じゃないのに。そもそもが、彼女にひどい真似をさせたのは自分だ。ずっと、打ち明けてくれようとしていたのに、はぐらかし続けた。

 こんなだまし討ちは彼女の性分じゃない。もともと、会社でプライベートな話をしたがらない彼女が、こんなふうにぶつけてくるのは余程のことだ。

 わかってる。けれど。


「行かないよ」

 佐藤はため息とともに吐き出した。

「そんな人、さすがに紹介されたくない。……っていうか、本気で誘ってくれてる訳じゃないよな。わかってる」

 わかってるよ。

 自分に言い聞かせるように、何度も呟いて。


「おめでとう。よかったね」

 自分がこんなに冷たい声を出せるなんて知らなかった。

「佐藤さん、…………」

 たまらず、珠美は何か言おうとして、けれど、何も言うことはできず、口ごもる。

 いたたまれない空気の中、しばらく沈黙が続いて、それから、佐藤は黙って会議室を出ていった。

 一番ひどいのは自分だ、と、わかっていたけれど、彼にはどうすることもできなかった。






 珠美にとって、八重樫と会うのはまだなんだか勉強の続きみたいな感覚がある。

 待ち合わせて顔を見た途端に「あ、テキスト忘れた」と言ってしまい、呆れられてしまった。

「僕、そんなに厳しかったですか?」

「そうじゃないけど。まだ、なんだか実感がわかないっていうか」

「……そうなんですか?」

 不本意が滲む八重樫に、珠美は可笑しそうに笑った。

「だって、敬語だし」

「……ああ、言われてみると、そうですね。そうか」

「別にいいんじゃないですか、無理に変えなくても」

 そんなふうに、急に態度変わったりしないところも八重樫さんらしいですよ。

 珠美が八重樫を見上げて微笑むと、彼も、ふっ、と柔らかく笑った。



 噂通り、タンシチューもラビオリもおいしかった。

 よそゆきの気取ったレストランとくつろいだ下町の食堂の、ちょうど間をとったくらいの雰囲気が居心地よくて、食事もワインもすすむ。

 八重樫の健啖ぶりも相変わらずで、つられて珠美もよく食べた。

「……あー、もうお腹いっぱい。食べ過ぎたかも」

「うん。僕も今日は結構食ったな。シチューのソースが意外とさらっとしてて、ぺろっと食べられちゃうんですよね」

 ワインも結構いきましたね。デキャンタ空いちゃったな。前園さん、ワインはもういいですよね。水貰いますか?

「ううん、もう十分」

 珠美はかぶりをふって断った。


「大丈夫ですか? 少し酔った?」

 店を出て、八重樫は気遣わしげに珠美の様子を窺った。

「ん? んー。そうですね、少し、酔ったかな…」

「今日はなんだか、随分お酒がすすんでたみたいだったから。本当に、大丈夫?」

「八重樫さん、いつも私に“大丈夫?”って聞くよね。そんなに危なっかしいですか、私」

「僕が心配しすぎてるだけかもしれないけど。でも、今日はいつもと様子が違うような……」


 なんとなく、彼女が心許なく思えて。店の前の些細な段差さえも気になって、手を差し出した。

 おおげさ、と笑う彼女の手をとって、そのまま手をつなぐ。

 駅に向かって歩きだそうとして、そのとき、


「前園さん!」

 珠美を呼ぶ声がして、最寄り駅の方向から現れたのは、佐藤晴彦。

 走ってきたらしく、ゼーハーと息を乱して、珠美と八重樫の目の前でしゃがみこんだ。

「佐藤さん…」

「お知り合いですか?」

 困惑と怪訝なふたりの前で、佐藤は、ちょっ、ごめん、ちょっと待って息が。と、途切れ途切れに訴えた。

「あー、もう、運動不足が祟るなー。はー、しんど」


 やがて息を整えた佐藤は、立ち上がって八重樫に向きなおり、

「こんばんは」

 と挨拶した。

「お邪魔しちゃってすいません。俺、佐藤っていいます。前園さんと同じ会社に勤めてて」

「…こんばんは。八重樫と申します。前園さんのご同僚の方でしたか」

 お急ぎみたいですが、お仕事の話でしたら外した方がいいですか?

 生真面目な応答に、佐藤は思わず、ははっ、と笑った。

「いや、違います。でもそうか、イキオイで来ちゃったけど、なんて言えばいいのか、考えてなかった」

「佐藤さん、あの」

 戸惑いを隠せない珠美に、佐藤は、あーごめん。すぐ退散するよ。と被せた。


「俺、ふられに来たんです」

 あっけらかんと言った。


 俺ね、この人が好きで、ずっと言い寄って口説いてたんだ。

 結構がんばったんだけどね。全然相手にされなかった。一度も、ふらっ、ともしなかった。

 本当はもっと早く諦めるべきだったんだけど。俺、自分で思ってるより本気だったみたいで。


 そこで佐藤は珠美に向きなおる。

 いつものからかうような調子はなりを潜め、真剣な眼差しで珠美を見つめた。

 それから、ぺこりと頭を下げて。

「昼間は、ひどい、なんて言ってごめん。あんなふうに言わせたのは俺なのに。

 困らせて悪かった。

 もうすっぱり諦めるよ。今まで、ありがとう」


「佐藤さん。私、……」

 なんと言えばいいのか困り果てて口ごもる珠美に、八重樫がそっと宥めるように肩を抱き寄せた。

 自分が代わって話をする、とでも言いたげに前に出る。いつも通り、穏やかに落ち着いた態度で。


「そのために、わざわざ?」

 それだけなら、彼女とふたりで話せばいい。わざわざ八重樫と一緒にいるところにやってくるのは、自分にも何か用があるのではないか。

 純粋に疑問を呈する様子で、怪訝に首を傾げる。喧嘩腰でもないのに、佐藤は一瞬気圧されて、それから、軽く首を横にふった。


「そうだな。一発殴らせろ! とか、ちょっとやってみたいけど」

 茶化したように笑う。

「…僕を殴るんですか?」

 大真面目に聞き返す八重樫に、今度は、ははっ、と声をあげて笑った。

「まさか、手ぇ痛いじゃん。八重樫さん強そうだしさ。それに、そういうガラじゃないよ、俺は」

 前園さん、「けんかをやめて」歌うんなら今だよ。

 竹内まりやの曲を口ずさんで、おどけてみせる。


 それから、少しばつが悪そうにした。

「そういうんじゃなくてさ。なんていうかな、トドメ刺されたかったんだ。

 前園さんが、俺じゃない誰かと幸せなところを見たかった。見せつけられたかったんだ」

 八重樫の傍らに立つ珠美を、眩しそうに見つめた。


「全部俺の勝手だよ。自分の気持ちくらい、自分ひとりでカタつけろ、ってだけの話。

 巻き込んでごめん、八重樫さん」


 でもさ、この際だから、言っとくよ。


 この人、すごく、すごく律儀で一途な人なんだ。

 俺と八重樫さんを天秤にかけて打算で測ったり、絶対しない。


 前園さんが、好きだ、って言ったら、それは、本当に好きなんだよ。

 たぶんね、八重樫さんが思ってるのの、100倍は好きだよ。



「あれ。俺なに言ってんだろ。いや、もちろん、八重樫さんのほうがよくわかってると思うけど」

 真面目になりすぎたことに照れて、茶化してごまかそうとしたところに、


「いいかげんにして」

 珠美の呆れた声が挟まれた。


「もう、なんなの二人とも、恥ずかしい」

 えっ。僕もですか。と、驚く八重樫の袖を掴み、佐藤に至っては猫の仔のように襟首を掴まえ、ぐいぐい引っ張って、店の前から裏手の小路に移動させた。

「往来の真ん中でなんですか。お店の迷惑でしょう」

 ていうか、もう。なんなの、本当恥ずかしい。


 珠美にとっては、羞恥と呆れの極地。

 何が「けんかをやめて」だ、人聞きの悪い。シチュエーションに浸るのもいいかげんにしてほしい。


 深々とため息をついて、観念したように言う。

「元はと言えば、私が“彼を紹介したい”って、佐藤さんにこの店を知らせたんです。

 佐藤さんは、そう言えばいいでしょう」


 私のせいです。いくら佐藤さんがはぐらかしても、私がきちんと断ろうと思えば断れたはずなんです。はっきり言えばよかった。

 佐藤さんなら、わかってくれてるんじゃないかな、って、甘えてしまった。


 ちゃんと断りもせず、“彼を紹介したい”だなんて、意地の悪いやり方だった。ひどかったよね。

 ごめんなさい。



 それから、八重樫に向かって。

「佐藤さんは、私がすごくつらいときに助けてくれたことがあるんです。

 普段から、周りの人みんなに気遣って、支えてくれようとする人で、仕事でもとてもお世話になってるの」


 だから、あなたに紹介したい、って思った。

 でも、それだけじゃなくって。


 そこで珠美は口ごもった。言いづらそうに、困った様子で。

 八重樫は頷いて、彼女の台詞を引き取る。


「僕に、疚しいところはない、って示したかったんでしょう?」


 佐藤とはなんでもない。恋愛じゃない。珠美が気持ちを傾けるのは八重樫だけ。

 彼女はそう言いたいのだろう。


 八重樫が心得顔で珠美を見つめると、彼女は黙って俯いてしまった。即ち、是。



 しばしの沈黙の後、ぷっ、と吹き出したのは佐藤だった。膨らんだ風船を、ぱん!と割った瞬間のように、沈黙を裂いて笑い出す。

「なにそれ。なんだそれ。前園さん、かっわいい」

 けらけらと弾けるように笑う佐藤につられて、八重樫も、くくっ、と笑い出した。

「確かに。かわいいな」

 男ふたりが顔を見合わせて、まるで示し合わせたように笑う。可笑しくて堪らない、と言った風情で、ばかみたいに愉快そうだ。

 珠美は、じわじわと赤く火照る頬を自覚しながらも、そっぽを向いて、じっと耐えるしかなかった。


 やがて、笑い疲れた佐藤は

「あー、可笑しい。笑いすぎて横っ腹にクる」

 と、目尻を拭って、それから、八重樫の肩を、とん、と拳で突いた。

「八重樫さん、今度いっしょに飲もうよ。前園さん抜きで、野郎飲み。どう?」

「いいですね。行きましょう」

 八重樫も笑って応える。

 楽しげに名刺交換する野郎どもを呆れ顔で眺め、珠美は「なんなの、もう」とこぼした。



 へらりといつもの調子を取り戻し、

「笑ったら腹減っちゃった。これから鮨食いにいくんで、お先に失礼しまーす」

 そんじゃねー。佐藤はひらひらと後ろ手に手を振って去っていった。


「楽しい人ですね」

「……ええ、まあ。好人物、というか、いい人はいい人なんですよね」

 微妙な応答をする珠美の横顔を、八重樫はなんともいえない表情で見つめた。

 それから、しばらくの間があって。


 帰りましょうか、と、八重樫を振り向こうとした瞬間、彼女はふわりと抱きしめられていた。広い肩幅が華奢な身体をすっぽり包んでしまう。


 店じまいの洋食屋の裏手、人通りの少ない時間だけれど、公共の道端な訳で。

「や、八重樫さん、ちょっと、」

 いきなりこんなところで。と、場所柄を気にした珠美が焦ってじたばたもがくと、

「珠美さん」

 耳元で囁かれた。もどかしげな、低い声で。


「彼に悪い、と思ってるでしょう?」

 珠美は、ぴたりと動きをとめる。八重樫は、こわばった彼女の気配を宥めるように、ぎゅ、と抱きしめた。


「そしてそのことを、僕に悪い、と思ってる」

 珠美はますます強く抱き込まれた。長い腕は余裕で彼女の背中を回りきる。

 覆い被さるように、包みこまれるように、深く、深く抱きしめられて。ため息の気配が彼女を甘く苛む。


 珠美は反射的に、ごめんなさい、と言いそうになる。でも、そんなふうに謝ってしまうのは、傲慢な気がして。

 佐藤に対しても、八重樫に対しても不誠実な気がして。


 何も言えずに、ただ、広い胸にすがりついた。おずおずと彼の背中に手を回してしがみつく。


 いいんです。何も言わないで。と困ったように笑う、八重樫の低い声が響いてきて、堪らない。

 大きな手が髪に触れ、愛おしげに頭を撫でた。



 ふたりはそのまま、ただ黙って抱き合っていた。






「Wasabi」(http://ncode.syosetu.com/n6634db/)の裏面にあたります。

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