一天、俄かに掻き曇る
○
月が浮世を照らせば陰ができ、
陰ができれば闇が生じる。
人の世も、そんなものでございやしょう。
闇の澱みを身に纏い、
晴らせぬ恨み晴らしましょう。
今宵も仕置人の出番かえ。
●日本橋・桔梗屋
草木も眠る丑三つ時。
頭上では月が浮世の澱みなど知らぬ顔で、江戸の町を爛々と照らしていた。
青白く、どこか冷たいような月だった。
――今宵も月が笑ってらァ。
店の戸が開き、よく通る低い声が聞こえた。
「いやァ、今宵も冷えるなァ」
北町奉行所筆頭同心、私の上司である藤田だ。
「京野ォ、こりゃ押し込みかァ?」
藤田はぶっきらぼうに言う。
「お疲れ様です藤田さん、お早いんですね」
「おおン、ちょっとそこで飲んでたらなァ、殺しだァって騒ぐ声が聞こえてな」
面倒臭そうに言う藤田だが、私のような下っ端同心に次いで刃傷沙汰のあった現場に駆け付けているからに、根は真面目なのかもしれない。
「で、どうなんだァ? 押し込みか?」
「押込みではないみたいです。帳場に金子がありありと――」
「そうかァ――。斬られてんのはこれだけか?」
藤田は筵の掛けられた仏を指しながら言った。仏とは勿論、仏教で言うところのそれではない。
「ええ、店の奥に使用人や大旦那が暮らす屋敷もあるみたいですが、そちらは無事です」
――ったく、やれやれだなァ。
藤田は溜め息交じりにそう言い、筵の掛けられたままの仏さんに合掌した。
桔梗屋。日本橋に店を構える材木問屋だ。安くて質の良い材木を取り扱っていると評判で、その儲かり具合は左団扇のようだ。何人もの丁稚奉公を雇っており、仕事の早さは日本橋界隈じゃ随一だとも聞く。
そんな順風満帆な桔梗屋に、今宵人斬りが入ったのであった。
斬られたのは、桔梗屋番頭の徳兵衛と丁稚の宗次。いずれも正面から袈裟懸けに真一文字に斬られて、桔梗屋店内で殺されていた。
下手人は金目当ての押し込み強盗の線も考えられたが、帳場に桔梗屋のお金がそのまま残っていたことから、そうではないと考えられるだろう。
「藤田さん、少し気になるのですが、桔梗屋の大旦那やほかの丁稚は店の奥の屋敷で既に眠っていたというのに、何故徳兵衛と宗次は店の方に居たのでしょう? 一体、二人は何をしていたのでしょう?」
そう、これは少し不自然なのだ。人斬りが桔梗屋に入ったのは恐らく子の刻から丑の刻の間だ。この時刻、普通なら帳簿も付け終わり、とうに眠っている筈だ。なのに徳兵衛と宗次の二人だけは店に残っていた。
「うるせェぞ京野。今俺ァ仏さんに合掌してんだからちったァ静かにしろっての」
「すみません。でも、私にはどうも引っ掛かります」
「はァ――。てめぇなァ、てめぇが思ってる程な、世の物事に意味なんかありゃしねぇよォ。帳場に金があったんならな、残って勘定数えてただけなんじゃねぇのか?」
そうだろうか。私の考え過ぎなのだろうか。
「はァ――。ったくよォ、こんな夜中だってのに、仏さん拝む破目になるたァ――」
藤田は脇差で首をぽんぽんと叩きながら言った。
――私にはひとつ、気掛かりなことがあった。
――仕置人。
江戸には――、浮世の恨み辛みを法外な大金で請け負い、依頼人の代わりに晴らすことを稼業としている裏の渡世人が存在するという。
勿論――、これは江戸の一角でまことしやかに語られている噂であり、本当にそのような闇の稼業が存在するとは考え難い。
仮に――、本当にそのような闇の稼業が存在するとしたら、町奉行としては放ってはおけない。
何故なら――、仕置人は殺しを仕置の手段としているからだ。
私自身、仕置人が関わった事件に遭遇した事はないが、聞くところに拠るとその仕置には一切の無駄が無く、ボロも出さぬよう完璧に遂行しているという。
例えば、忍び込むのが困難な屋敷で豪商が斬られ殺されていただとか、芸者遊び好きな悪代官がお座敷で喉元を掻っ切られ殺されていただとか――。
私が人から聞いた噂は氷山の一角に過ぎないのだろうが、いずれも下手人は挙がっておらず真相は闇の中だ――。
江戸には――、そんな噂があるのだ。
「藤田さん、江戸には暗殺を完璧に熟す闇の稼業があると聞きます。今回のこの事件、もしかしたら――」
馬鹿野郎――、藤田は私に怒鳴った。
「てめぇなァ、天下の町奉行様がそんな与太話を口にするんじゃねぇよォ。どんな場合でもなァ、殺しはあっちゃいけねぇんだよ。それを取り締まるのが俺たち町奉行じゃねぇのか?」
普段は昼行燈のような上司が、いつになく真面目な貌をしていた。
しかし、私とて無根拠に言っているわけではない。
「けど、仏さんの――」
「確かに江戸で囁かれてる仕置人の噂通り、仏さんの身体に残っていた太刀筋は綺麗な真一文字だったがなァ――」
そう、仏さんの身体に残っていた太刀筋が綺麗過ぎるのだ。見た限り、剣に迷いがなく一閃といったような真一文字だった。そんじょそこいらの押込み強盗や辻斬りとは違う。まるで、殺しの専門家に斬られたような――。
「京野ォ、いいかァ? これだけは覚えておけ。俺たちが大義に殉じている以上、俺たちが正義だ。その正義が、裏の渡世人だか闇の稼業だかを認めてどうすんだァ」
藤田は、射竦めるように私を見て言った。
「そんなもんはなァ、どっかの与太野郎が法螺吹き晒したまがいもんよォ。そんな阿呆な事言ってないで、俺たちは俺たちの仕事をすりゃいいだけよォ」
わかったか京野ォ――、いつの間にか子供をあやすような調子になっている。
「ったくよォ、おめぇには期待してるんだぜ? オラよ、さっさと下手人探すぞ」
藤田は、奈落の底から響くような低い声で言った。
●浅草・料亭仲岸
「あらぁ、あんた、八丁堀の旦那の友達なのかい? まあまあ」
「いえ、藤田さんは私の上司です。友達ではないですね」
なんだか難しいねぇ――、猫撫で声でおとわは言った。
猫撫でのおとわ、桔梗屋の徳兵衛がよくお座敷遊びに呼ぶという芸者だ。縁というのは奇妙なもので、私の上司である藤田とも顔見知りであるらしい。
「で――、友達さんはアタシに何を聞きに来たのかえ?」
ひょっとして、アタシは御用になるのかい? おお、こわいこわい――、おとわは猫のような声で笑う。
無論、私はおとわを捕まえに来たわけでも芸者遊びをしに来たわけでもない。
桔梗屋の事件に関して証言を聞きに来たのだ。
殺された徳兵衛は事件の前夜、おとわとお座敷遊びをしている。何か、事件に関する重要な情報をおとわは 知っているかもしれないのだ。
「い、いえいえ、捕えたりはしませんよ。――ははは」
「そうかい、それはよかったねぇ」
おとわは、切れ長の目を細めて艶やかにほほえんだ。物腰は柔らかく、色っぽい。それでいて、どこか謎めいている雰囲気がある。年齢も、若い少女のようにも少し年増の大人の女性のようにも見える。
なんだか、何を考えているのかわからない不思議な女性だ。
「おとわさん、徳兵衛さんは殺された前日の夜、おとわさんとお座敷で遊んでいますよね?」
「そうさねぇ、確かに遊んだねぇ」
「その――、徳兵衛さんに変わった様子はございませんでしたか? 何か、こう、妙なことを口にしていたりとかありませんでしたか?」
おとわは優雅で涼しげだが、私はなんだかとてもぎこちない。芸者さんを前に緊張でもしているのだろうか。
「――そうさねぇ、どうだったかねぇ」
「なんでもいいんです。些細な事でも教えて戴けたら」
んん――、何かあったかねぇ。
おとわは、困ったように眉を八の字にして事件前夜の事を思い出そうとしていた。猫のように、くるくると表情の変わる女性だ。
「――あっ、そういやね、徳兵衛の旦那はお座敷に丁稚さんを一人連れてきていたねぇ」
「それって、宗次という名前の丁稚ですか?」
「さぁどうだったかねぇ、言われてみればそんな感じの名前だったかもねぇ」
徳兵衛と宗次が事件の前夜も一緒に居たとなると、二人は仕事外でも仲がよかったという事だろうか。
「二人はどのような感じでしたか? 何か変わった様子はありませんでしたか?」
――例えば命を狙われている、だとか。
「特にはなかったけどねぇ――、強いて言うなら徳兵衛の旦那がその丁稚さんをやたらと褒めていたねぇ」
「褒めていた――というと?」
「確かねぇ、おまえさんのおかげで木がよく売れるとか言って褒めていたねぇ」
宗次のおかげで木が売れる――?
「宗次さんは、その、材木の売り上げなどが良かったということでしょうか?」
「さぁねぇ、そんなことはアタシも知らないよぅ」
おとわは顔の前で手をひらひらさせて知らないよという素振りを見せた。着物の袖口から見えた肘が、とても白くて綺麗だった。
「そ、そうですよね。宗次はどのようなお方でしたか?」
「目つきがギョロっとしててねぇ、ちびですばしっこそうな人だったよぅ。そうそう、左手に怪我の痕――あれは火傷かねぇ、そんなのがあったよ」
火傷――の痕か。
「なんだかねぇ、褒められてる丁稚さんも徳兵衛の旦那をやたらとヨイショしてたよ。――旦那のおかげです旦那のおかげですってね」
二人の関係は――一体?
――どうも臭う。
「他には、何かございましたでしょうか?」
「いんや、もう特にはないねぇ。アタシも忘れちゃったよぅ。ごめんねぇ」
「そ、そうでしたか。いやいや、有力な情報が得られたので大変助かりましたよ。また何かあったら聞きに来るかもしれません。本日はありがとうございました」
「そうかいそうかい。それはよかったよ。そうさねぇ、今度来る時は是非遊んでいってほしいねぇ」
おとわは、猫撫で声で笑った。
●両国・六道長屋
「へぇ、あんた八丁堀を知ってるのかい」
「はい。藤田さんは私の上司です」
「するてぇとあれかい? あんたも同心さんなのかい?」
「はい。私は北町奉行所の定町廻り同心で、藤田さんの部下にあたりますね」
――世間は狭いねぇ、甲高い声でマサは言った。
鳶のマサ、鳶職を生業としている三十路前後の人懐っこそうな男で、材木問屋である桔梗屋には鳶の仕事でたまに出入りをするらしい。仕事の関係で知り合ったのか、宗次とも最近遊んでいたという。
「なんだかボロ臭いところですいやせんねぇ。いやねぇ、住めば都なんですがね、へへっ」
私は、マサが宗次と一緒に遊ぶ仲だという情報を得たので、宗次や桔梗屋について聞き出すべくマサの住む長屋に訪れていた。
「マサさんは、宗次さんとはどういった仲なのです? 何処でお知り合いに? 鳶のお仕事ですか?」
「いや違ぇのよ、確かに俺ァ鳶だから材木屋に行くこともたまにゃあるけどね、俺ァ宗次とは飯屋で会ったのよォ」
「飯屋で会って、それで仲良くなったのですか?」
「ありゃいつだったかなァ? 半年ぐれい前だったかな? 飯屋でばったり会ってな、何の話したんだっけなァ? 忘れちったけど、なんか仲良くなってなァ。それから遊ぶようになったのよォ」
マサは気さくに語った。
「マサさん――その腕、どうしたのです?」
マサの腕には、火傷のような痕があった。
「あん? ああ、これな、火傷だよ。鳶はよォ、火事になったら建物ごとぶち壊して火を消すんだよなァ。そん時によォ、ちょいとやっちまってなァ。なに、掠り傷みたいなもんよ」
――火傷、確か宗次の手にも火傷の痕があった筈だ。
「ひょっとして、火消しに宗次さんも参加なさったんですかね?」
「宗次が? 火消しに? んなことあるわけねぇよォ。あいつはただの材木問屋の丁稚だろうがよい。鳶みたいに火消しはやらねぇて」
「そ、そうですよね。建物を壊すのも、鳶のような建築の専門の方だからこそ出来ることですもんね」
「そうよォ。ちょいと前にな、江戸で連続して火事が起こった時があってなァ。喧嘩と火事は華って言ってもな、すげェ大変だったんだぜェ? この火傷もよォ、そん時にやっちまったんだよなァ」
確かに、言われてみればここ最近は火事が多かった気がする。死人も何人か出たと聞いた。
「でもすごいですねマサさん。建物を建てるのが仕事なのに、火事の際は迅速に建物を壊して人を助けられるなんて」
「へへっ、よせやい照れるやい。でもよォ、大変な仕事の割にな、全然儲からないんだぜェ? おまんまの食い上げだよォ」
副業でもやりたいもんぜェ――、マサは呵呵と甲高い声で笑った。
「同心さんは儲かるのかい? 八丁堀はいつも金がねぇ金がねぇ言ってるけどなァ」
「ははは。藤田さんは奥方に財布の紐を握られてますからね」
違いねぇ違いねぇ――、マサは床を叩いて笑った。
「ところで、宗次さんの仕事はどうだったのですか? 儲け具合といいますか」
「あん? 宗次の仕事ォ? んなもん、俺ァ知らねぇよい。でもなァ、なんでか知らねぇが羽振りはよかったみてぇだなァ。芸者遊びなんかしてやがったしなァ」
宗次は桔梗屋の丁稚だ。丁稚とはそんなにも羽振りがいいものなのだろうか。
「桔梗屋に関して、何か知っていることはありませんか?」
「俺ァ桔梗屋のことは全然知らねぇよォ。仕事で使ってただけで、それ以上のことは知らねェのよォ。それになァ、桔梗屋が繁盛するようになったのも、ここ数年のことなんだよなァ」
――ここ数年? どういうことだ?
「それは、桔梗屋が何か商売の方法でも変えたということですか? 木がよく売れるように」
「さぁな。その辺のこたァ俺もよく知らねんだ。桔梗屋のこたァ全然知らない。宗次のことだって、俺ァこれ以上めぼしいことも知らねぇぜ?」
「そ、そうですか――。いや、でも、とても貴重な情報が得られました。ありが――」
ちっと待ったァ――、私が礼を言おうとするのをマサは制した。
「おめぇさん、情報が欲しんだろ?」
「ええ、まぁ――そうです」
「人形町になァ、質屋の鮫屋ってのがあるから行ってみなァ」
「鮫屋――ですか」
「おうよォ。そんでなァ、そこに鮫島っつう閻魔様みたいな面した爺が居るからな、その爺に「一か八か、丁半をやりに来た」って言って一両払え。丁半勝負ができる」
「その勝負、勝つと何かあるのですか?」
「鮫屋が知ってる情報ならなんでも教えてくれるよォ。多分、桔梗屋の事件の詳しいことも教えてくれるんじゃねぇかなァ。鮫屋は江戸のことならなんでも知ってるからなァ」
――江戸に、そんな人が居るなんて。
私は全く知らなかった。いや、私だけじゃないだろう、他の同心も知らないだろう。鮫屋も、仕置人のような裏の稼業なのだろうか。江戸の闇なのだろうか。
「負けるとどうなるのです?」
「鮫屋の気分次第だなァ。もしかすっと捕って食われちまうかもしれねぇなァ。鮫だからな。いや、閻魔様みてぇな面だから、舌でも抜かれるかなァ? おお恐い恐い」
マサは明らかに私をからかっていた。
「兎に角行って来いって。こんな辛気くさい長屋に居たってしょうがないですぜェ?」
マサは甲高い声で笑った。
○人形町・鮫屋
「ごめんください」
店に若い男が入ってきた。刀を持っている。髷もある。格好からして、町奉行だろう。定町廻りといったところだろうか。
――いらっしゃい。
「失礼ですが、店主の鮫島様ですか?」
――そうだが。
この男、情報目当てか。
「えっと――、一か八か、丁半をやりにきました」
やはりそうだったか。
この男、澱みに片足を突っ込もうとしていやがる。まだ若いんだから、そうそう生き急ぐなっての。
差し詰め、鳶のマサあたりが吹き込んだのだろう。マサもしょうのない男だ。
――兄ちゃん、金子は。
しかし、これも稼業だ。客が居るのなら、どんな客でも相手にしなければならない。
「は、はい、一両――」
男が、一両差し出してきた。
同心相手にこんなことやるのも、妙なもんだ。
――今から賽を二つツボに入れて振る。おめぇさんは丁が出るか半が出るか当てればいいのよ。当てる事ができたなら、情報をやろう。
「はい。わかりました」
――それじゃあいくぜェ。
賽をツボに投げ込み、振るようにしてツボを床に押し当てる。
男は初めての丁半博打なのか、強張っていやがる。単に気が弱いだけか。
――さァ、丁か半か、張ったァ。
さァ、どう勝負に出るんだ。
「丁で――」
丁か。
――兄ちゃん、どうして丁を選んだんだァ?
勝負を仕掛けてくる輩には、何故そういう勝負の仕方に出たのかを聞くようにしている。何故なら、そいつの人柄がよくわかるからだ。勝負とは、そういうものなのだ。
「特に意味はないですけど、丁は割り切れるキリのいい数字なので」
――そうかい。
丁、いかにもこの男らしいのかもしれない。
――それじゃあ勝負だよ。
「はい」
――勝負。
この瞬間が、好きなのかもしれない。
――兄ちゃん、このツボの中の賽、読めるか?
「――い、いえ。読めません」
――どうしてだ? 読めなきゃ勝負に負けるぜ?
「ツボが被せてあるので、読めません。見えないものは見えないので、わかりません」
――そうだな。その通りだ。だから、勝負なんだよな。
男の顔が、読めなかった。何を考えているのか。
――丁。
男は、間の抜けた表情をしていた。
――おめぇさんの勝ちだよ。さァ、知りたい情報を聞きな。
さて、同心様は何を聞くつもりだァ。
「は、はい。えっと――」
さァ。さァ。
「――仕置人について教えて下さい」
仕置人だと?
この男、ただの同心ではないのか?
仕置人の噂を、信じている?
――仕置人? そいつァ、あの仕置人のことかい?
「ええ。その仕置人です」
男が、本物の目をしていた。
そういえば、八丁堀の奴が「妙な部下」が居るとか言っていたな。この男か。
――兄ちゃん、悪いがな、仕置人なんてのは噂だ。黄表紙みてぇなもんだ。眉唾だ。そんなもんは江戸にありゃしねぇのよ。
「そ、そうなのですか――」
不服そうだ。まるで、仕置人があると確信しているみてぇな目をしている。
これは、澱みに魅入られている。
あいつらも、危ねぇもん寄越しやがる。
――兄ちゃん、仕置人に関して、ひとつだけ情報がある。
――もしかしたら仕置人の尻尾ぐらいは掴めるかもしれねェ。
――子の刻に、四谷にある蜻蛉ヶ森に行ってみな。
――俺からこれ以上は教えられねぇな。
●四谷・蜻蛉ヶ森
子の刻。
頭上には真ん丸い満月があった。
なんだか、不気味な程に円かった。
森はとても暗く、冬の夜なのにどこかじっとりとしていた。
提灯の仄かな灯りだけが頼りである。
私は、鮫屋に言われた通りに四谷の蜻蛉ヶ森に来ていた。
本当に、仕置人の尻尾が掴めるというのだろうか。
鳶のマサが言うには、鮫屋の情報は確かなものらしい。
しかし、いくら待てども何も現れないし何も起きない。
やはり、嘘なのだろうか。
もう少ししたら帰ろう。
私も、暇ではない。
私は、確かめたかった。
気付いてしまったのだ。
徳兵衛と宗次が仕置人に殺された理由を。
あの人が本当は仕置人なのではないかと。
気付いてしまったのだ。
ここで確かめたかった。
――やはり、気付いてしまったか。
闇の向こうから、声が聞こえた。
――残念だよ。本当に残念だよ。
奈落の底から響くような低い声が聞こえた。
この世のものではない、死神のような声だった。
――おまえさんは、覗いてはいけない澱みを覗いてしまったのサ。
人を惑わすような女の声が聞こえた。
猫の化け物に化かされているかのような、そんな声だった。
――悪いがなァ、おめェさんにはここで消えてもらうぜェ。
人を嘲笑うような男の声が聞こえた。
甲高い、天狗が呵呵大笑としているような声だった。
「仕置人は――、あなた方だったのですね」
私は、闇に向かって語りかけた。
「番頭の徳兵衛と丁稚の宗次は、放火で建物を燃やしては材木を売りつける悪商人だった。火事で人も何人か死んだ」
そうなのだ。やはり徳兵衛と宗次は仕置人に殺されたのだ。
火事が起きれば材木が売れる。
それを利用して悪儲けしていた二人には、当然ながら恨みを持つ者も居たのだろう。
だから――仕置人の標的となった。
おとわさんもマサさんも、殺しの依頼があってから計画的に二人に近づいたのだろう。
私は、真面目に下手人を追っているつもりが、いつの間にか仕置人に近づいていたのだ。
「藤田さん、答えて下さい。それがあなたの正義なのですか。正義の為ならば、殺しにも平気で手を染めるのですか。仕置人とは、なんなのですか」
答えてください。藤田さん。
あなたは、私の上司だ。
あなたは、本当は筵を捲って仏さんを直視することすらできないような人だ。
だから、私は仕置人の正体に気付いてしまった。
――おまえは、知り過ぎたよ。
一閃――。
私の身体に閃光が走った。
「ふ、藤田さん――」
袈裟懸けに斬られていた。
綺麗な真一文字だった。
――大義のためだ。
低い声が、そう言った。
――今宵も月が笑ってらァ。
〇
仕置人。江戸時代、法によって処刑を執行する者をそう呼んだ。
しかし、ここに居る仕置人とは、法の網を潜り蔓延る悪を裁くことを稼業とする、裏の渡世人のことである。
ただし、この存在を証明する記録、書物の類は一切残っていない。