【三題噺】中国地方・母・ジンギスカン
三題噺のショートショートです。
お題は中国地方、母、ジンギスカンです。
おかんは偉大だ。
別に自分の母親に限ったことではない。世間の母親は皆偉大である。
おかんとはもちろん母親のことを指すが、ママやお母さんとはまた違った種類の生き物のような気がする。
おかんとは関西地方(特に大阪)の方言なのだが、そうするとおかんが特殊なのではなくて、大阪のおばちゃんのイメージが強すぎてそう思えてしまうのかもしれない。
でも私がこれから話そうと思っているおかんは、厳密に言うと大阪のおばちゃんではない。生まれは大阪であるが、幼少期を過ごしたのは中国地方だし、現在暮らしている土地(人生で一番長く暮らしている土地)は、夫の転勤のお陰で東海地方である。
私自身も自分の母親のことをおかんと呼んだこともないので、おかんという言葉になじみがあるわけでもない。
なのでなぜ私がその女性のことをおかんと呼称してこれから話を進めていこうとしているのかというと、説明が難しい。ただ、母親と呼称して話を進めても良いのだが、なぜかおかんの方がしっくりくるのだ。そういう点でも、おかんとママが別物だという認識が私にはあるのだ。
三人の子とサラリーマンの夫を持つ主婦であるおかんの朝は早い。家族の皆が目覚めるのよりも早く起き出すと、自分の身支度もそのままに、五人分の朝食の準備に取り掛かる。そして三つくらいの作業を同時にこなす。
寝起きに刃物や火を扱わせても平気なのはおかんくらいのものだと思う。男なんかは髭剃りを失敗して血を流すのがおちである。
朝食の準備が整うと、家を出るのが早い順番に寝ている者を起こしていく。全員を一度に起こすと洗面所やトイレが混雑するからだ。それに合わせて弁当も仕上げていく。
おかんはただ手際よく料理をするだけではない。日々の経験から作業をどんどん効率的に改善していくのだ。
「早くしなさい」
「忘れ物ないか?」
「気を付けて行ってらっしゃい」
朝のおかんの必須ワードだ。これを全員にちゃんと言う。特に最後の「気を付けて」を言い逃してしまうと、その日一日中ずっと気持ちが悪い。この一言を言いそびれたばっかりに何か危険な目にあってしまうんじゃないかと不安に駆られるのだ。
そしてその予感は結構な確率で的中してしまう。おかんの家族を思う気持ちはハンパないのだ。
全員を無事に送り出してもおかんの仕事は終わらない。洗濯機を回し、洗い物を済ませ、掃除機をかけ、洗濯物を干し、ワイドショーを見る。ワイドショーを見るのだっておかんの仕事なのだ。
買い物に出る際に、近所の主婦仲間たちと交わす井戸端会議が、おかんが社会との交流を持てる数少ない場である。ここで話題の主導権を握る為、また、話に置いて行かれない為にワイドショーを見るのは必須事項である。もちろんそれと同時におかんが収集する情報は大きく偏ってしまう。しかしおかん自身はそれで十分だと思っている。自分の周りにない情報は自分には活用できない情報だということを知っているからだ。そして自分に入ってくる情報の内99パーセントはどうでも良い話である。情報の範囲を広げたとしても、その比率は大きく変わることはないことをおかんは知っている。
おかんは取捨択一にも長けているのだ。
もちろん、それは情報だけに限った話ではない。日々家計を切り詰めるためにも無駄な買い物はしないし、良い物をより安く買う。また朝は一分一秒を争う戦場である。人、物、金、情報に時間を上手くコントロールしているのがおかんである。
おかんは行動力だってずば抜けている。クレームの電話なんて思い立ったら即コールだし、少しでも安ければ自転車で隣町のスーパーにまで足を延ばす。豆知識や裏ワザなんかはその日のうちに実行してみるし、悪いと思えば他所の家の子だって思い切り叱る。
出来の良いビジネスマンにだって、ここまでのポテンシャルはないと思う。ただ活躍する場が違うだけ、評価が表に表れないだけである。おかんは家庭を、社会を陰でしっかりと支えているのだ。
さて、買い物も風呂掃除も済ませた後は、子供たちが帰宅し夕食の準備をするまでのわずかな時間ではあるが、おかんにも自由な時間が与えられる。ときによってはこの時間でさえ内職をやったり、縫い物や編み物など家族のために時間を割くこともあるが、とにもかくにも今日この日のこの時間は自由である。家事からの解放。フリーダム・おかんである。
ここでこのおかんの取る行動と言えば、昼寝である。ぽかぽかと暖かな春の日差しの下、口を全開にしてよだれを垂らしつつ、熟睡する。たまに自分のいびきにびっくりして目が覚める。それを何度か繰り返しながら、おかんは来るべき戦いに備えて身体を休めるのである。
「ただいまー。おやつなにー?」
さあ、おかん、第二ラウンドのゴングが鳴った。
「お帰りー。先に手洗ってうがいしといで」
「洗ってきたー。のど渇いた。ジュース飲んで良い?」
「コップ一杯だけな。おやつは今日ドーナツあるよ」
「やった」と言いながら子供はガサガサと包みを破る。
「ちゃんといただきますって言ってからな」
「はーい。いただきまーす」
おかんは最低限の礼儀作法も心得ている。幼少時代に口を酸っぱくしておかんに言われたことは、大人になって社会に出てから初めて気づき、そして感謝するのだ。
「遊びに行って来てもいい?」
「宿題は無いんか? 先に宿題やってからな」
「本読みと漢字ドリルがあるけど、たっ君と約束があるから帰ってきてからやる」
「分かった。それなら夕飯の時間までには絶対に帰って来るって約束しなさい」
「うん。約束する」
「一分でも遅れたら鍵かけるからな。それじゃ気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
おかんは、子供の要求を無条件に突っぱねることはしないし、無条件に受け入れることもしない。子供の事情にもきちんと耳を傾け、その上で妥協案を提示し、約束事も取り決め、破った場合のペナルティも与える。社会で生きていくためのルールを普段の生活から教育しているのだ。
「いただきまーす」
夕食である。夫の帰りが遅いため、平日の夕食は毎晩夫抜きである。
「わあ、今日は焼き肉!」
「ジンギスカンって言ってな、羊のお肉」
「どっかで聞いたことある」
「歴史の授業で習ったんじゃない? チンギス・ハーンとキルギス・ハーンの兄弟な。モンゴルの偉い人で、このジンギスカンを発明したのがその兄弟」
「お母さん、物知り」
「お母さんも子供の頃に習ってるからな」
おかんの知識はところどころあやふやだ。でも良いのだ。子供の疑問にはたとえ知らなくてもきちんと回答してあげるのがおかんルールだ。
食事の後片付けがひと段落する頃に夫が帰って来る。
おかんは「お帰り」と一言返すと後は黙って夕食の準備に取り掛かる。夫も黙って着替えを済ませ、出された食事を黙って食べる。おかんも黙ってテレビを観ている。
「ごちそうさま」と夫が言うと「おそまつさま」とおかんは返し、その後は黙って後片付けを済ませる。
夫は心の中で、妻は自分に冷たいんじゃないかと思う。お疲れ様の一言くらいないのだろうかと。
おかんはもちろん夫が嫌いなわけではない。仕事を終えて帰って来た夫を心の中ではねぎらっている。ただ、夫だけではなく、自分も一日忙しくしているのは同じなのだ。そのことに夫が少しも気付いていないだけである。
もし夫が妻の日々の家事に対して労をねぎらうようなら、おかんはきっと同じように接するであろう。
おかんは子供にも夫にも、そして自分自身にも平等で、厳しいのである。
子供の宿題を見、風呂に入れ、寝かしつけると、ようやくおかんの一日が終了する。
おかんもまた、明日の戦いに備えて眠りにつく。
おかんは偉大だ。
だが、おかんの偉大さに家族はなかなか気づかない。
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