夫の足音
足音がしますの。あの人の。
ええそうね、夫は車椅子でした。普段はね。
だけど少しだけなら、歩くこともできたのよ。片足を引きずって、ゆっくりと。
だからあの足音が、夫のものだとわかるのです。
夜にね、シンと静まりかえったなか、足音が。
亡くなってからそうね、気がついたのはようやく落ち着いてきたこの頃よ。
いやね、気のせいじゃないわ。だってドアの向こうに誰もいないもの。
恨み?ああ、あの人が私を嫌っていたからと?
そう思うのも仕方がないわ。
あの人の怪我は私を庇ったせいだもの。そうね、あの馬車の事故。恐ろしいことだったわ。
子供の頃のその怪我のせいであの人は歩けなくなり、家督を弟のあなたに渡り、何もかもを無くして、原因の私だけが残ったのだもの。
私のせいじゃない?ふふ、ありがとう。
自責の念でありもしない音が聞こえる?
ふふふ、でもね、私、死後の存在はあると思うの。
打ち明け話をしましょうか。
実は私、死んだ人間の記憶があるの。
いやだ、そんな顔しないで頂戴。頭がおかしくなったわけじゃないのよ。ふふ、どちらかといえばマトモになったんじゃないかしら。
あの馬車の事故の時、私は庇ってもらって大きな怪我は無かったけど、頭を打って気絶したでしょう。
それで目覚めたら、別人になってたってわけ。
ああ、「元の私」が死んだわけじゃないと思うのよ。
意識を失ったところへ別人の魂が入り込んだってとこかしら。
あなたもおかしいと思ったことがあったんじゃない?
この体の記憶があったから、日常に不便はなかったけれど、やっぱり苦労はしたわ。
だって元はただの町娘だったもの。
覚えてないわよね、事故に巻き込まれて死んだ娘がいたのよ。倒れた馬車の下敷きになって。
本当に笑ってしまうわね。目が覚めたらお嬢様よ。まるでお伽話みたいじゃない?
彼女がどうなったかって?
この体の中にいるわ。
しつこく出ていけだのなんだの言ってるわ。
笑っちゃうわね、もう二十年もあたしの体だってのに。
悪霊?体を返そうと思わないのか?
あはは、あんたたちに言われたくはないのよね。
言ったでしょ、あたしこの子の記憶がわかるのよ。
あの時あなた、馬に悪戯したわよね。
それで興奮した馬が暴れて事故になった。
不満だったのよね?二人とも。
あなたは自分がいずれ家を出なければいけないことに不満があった。
私は幼馴染三人で過ごすことも多い中、あの人を地味だと思って嫌ってた。
それで、うっぷんばらしに悪戯をしたのよね。夫に馬を向かわせて。
計算外だったのは、想像より大事になって、私にまで被害が出たことと、私の親が意外にも誠実で、命の恩人の助けになるよう私をあの人に嫁がせたことかしら。
証拠?ないわ。でも知ってる。
あの人も知ってたわ。あたしが教えたから。
あなたがあの人に、私を縛り付けるべきじゃないと吹き込んでいたことも。
優しいあの人は気に病んで、私が離れられるよう冷たく接していたのよね。いずれあなたが、かわいそうな冷遇された初恋の人を助けだせるように。
そういう筋書きだったんでしょう?
いやね、自惚れじゃないわ。
ほしいのは私の実家の援助よね。それにあの人の苦しみと。
その為に医者にも手を回した。あの人に長く生きられちゃ困るから。
でもねえ、薬を手に入れられるのはあなただけじゃないのよね。
あらどうしたの、眠くなってきた?
意識がない方がやりやすいと思うのよ。
喜んでいいのよ。あなたの筋書きにのってあげようって言うんじゃないの。
あの人苦しんでたわ。私があなたと仲がよかったのに、二人の仲を割いてしまったと。
優しくて穏やかな素敵な人よ。
だからね、プレゼントをしようと思うの。
健康な体をね。
ほら聞こえる?
足音がするでしょう。
少し引きずった足音が。
あの人の愛しい足音が。
死後の存在はあるのよ。魂はあるの。
私が証明してるじゃない?
だから
——次に目覚めたら、おかえりなさいと、言わせてね。




