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第一章 『序曲:放課後のアインザッツ』 第9幕

 影が、焦るように揺らめく。

 このまま押し切れる! オレがそう確信した、その瞬間だった。


 ヒュッ、と。


 影が、まるで煙のようにピアノの下に散らばっていた「楽譜」――オレたちが演奏している、あの温かいメロディが書かれた五線譜――に吸い込まれていった。


「なっ…!?」


 オレたちが呆気に取られている間に、数枚の楽譜がひとりでに宙を舞い上がる。

 そして、それは奇妙な形を取り始めた。


 まるで、人がマントを羽織ったような…。


 いや、違う。

 それは、五線譜そのものが集まってできた、真っ黒な「人影」だった。

 顔があるべき場所には、ト音記号が不気味に浮かび上がり、その下には、休符がまるで叫ぶ口のように歪んでいる。手足のように見える場所からは、シャープ(♯)やフラット(♭)の記号が、鋭い爪のように突き出していた。


「「「「ひっ…!」」」」


 オレたちは、声にならない悲鳴を上げた。

 これだ。これが、「影」の正体…!? まさに「楽譜のオバケ」だ!


「ケヒ、ケヒヒ…」


 楽譜のオバケは、甲高い、紙が擦れるような音で笑った。


「邪魔ヲ…スルナ…コドモタチ…コノ音楽ハ…ワレラノモノ…」


 その声は、音楽準備室の空気を凍てつかせた。

 オバケが右腕(シャープの爪)を振り上げると、オレたちが演奏していた楽譜の続きが、黒く塗りつぶされていく!


「やめろ!」


 男が叫ぶ!


 しかし、オバケは止まらない。

 それどころか、オバケ自身を構成する五線譜の「音符」が、まるで虫のように蠢きだし、不協和音を直接、オレたちの脳内に響かせてくる!


「(ぐ…! 頭が…!)」


 キィィィン、という耳鳴りと共に、気持ち悪い音が頭の中でぐるぐる回る。

 慧も和奏も、苦しそうに頭を押さえている。蓮でさえ、顔をしかめていた。

 演奏が、止まってしまう…!


「弾けェェェ!!!」


 男の絶叫が響く!


「止まるな! そいつの『音』に耳を貸すな! オレのピアノだけ聴け! そして、テメエらの『音』を鳴らせ!!!」


 そうだ…! 止まっちゃダメだ!

 オレは、ぐらつく意識を必死で保ち、リコーダーを握りしめた。

 慧も、和奏も、蓮も、男の言葉にハッとしたように顔を上げる。


 オレたちは、もう一度、音を奏で始めた。

 頭の中で鳴り響く不協和音に負けないように。

 男が必死で奏でるピアノの音に、食らいつくように。


 ピーヒャラ! ポロロン! チーン! ジャーン!


 オレたちの音は、やっぱり拙い。

 だけど、そこには「負けない!」っていう気持ちが、さっきよりもっと強く込められていた。

 オレたちの音が強くなるほど、楽譜のオバケは苦しげに身をよじる。


「ナゼ…キカヌ…コノ…聖ナル響キガ…!」


 オバケが、最後の抵抗とばかりに、全身の音符をさらに激しく蠢かせ、最大級の不協和音を放とうとする!


「そこだッ!!!!!」


 男が叫ぶ! 指揮棒が天を突く!


「今までの全部! テメエらの持ってるモン、全部ぶつけろォォォ!!!」


 オレは息を吸い込んだ。

 慧も、和奏も、蓮も、同じように最後の音を奏でる準備をする。


 せーのっ!!!


 ッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!


 リコーダーの絶叫! 鍵盤ハーモニカの咆哮! トライアングルの聖なる一打! シンバルの破壊的な轟音! そして、男が全体重をかけて叩きつけたピアノの最後の和音!


 五つの音が、完全に一つになった。

 それは、もう「拙い」なんて言葉では片付けられない、魂そのものの「音」だった。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」


 楽譜のオバケは、その純粋な「音」の奔流に耐えきれず、甲高い断末魔を上げた。

 体を構成していた五線譜が、まるで燃え尽きるように端から黒く焦げ付き、音符がバラバラになって崩れていく。

 そして、最後は一欠片の「休符」を残して、完全に消滅した。


 シン……。

 後に残されたのは、絶対的な静寂。

 オレたちは、楽器を持ったまま、ぜえぜえと肩で息をしていた。

 汗が噴き出し、心臓がバクバクと鳴っている。


 勝った…のか…?


 オレが呆然としていると、ピアノの前に立つ男が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 その顔には、苦悶も怒りもない。ただ、何かをやり遂げたような、ほんの一瞬の「安堵」が浮かんでいた。


 彼は、ぜえぜえと肩で息をしているオレたちを見た。

 そして、ほんの少しだけ口の端を歪め、ニヤリと笑ったように見えた。


「…フン。…まあ、マシになったじゃねえか。史上最低の『オーケストラ』だがな」


 彼は、どこか満足そうに呟いた。


「…これは『迷惑料』だ」


 彼はそう言うと、手の中の指揮棒を、まるでゴミでも捨てるかのように、オレに向かって放り投げた。


 カツン、と軽い音を立てて指揮棒がオレの足元に転がる。


「…素人しろうとにしては、悪くないEinsatz(アインザッツ)だったぜ」


 それだけ言うと、彼は満足したかのように、すう、と掻き消えるように姿を消した。


 後に残されたのは、静まり返った音楽準備室と、床に転がる一本の指揮棒。

 そして、疲労困憊でへたり込む、オレたち四人だけだった。

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