第一章 『序曲:放課後のアインザッツ』 第7幕
再び、夜の音楽準備室。
固唾をのんで、オレたちは息を潜めていた。
数日間の特訓を経て、オレたちの手にはそれぞれの楽器と、そしてほんの少しの「自信」があった。今度こそ、あの男に文句は言わせない。
「…よし、準備はいいか」
オレが小声で確認する。慧、和奏、蓮が、それぞれ静かに頷いた。
慧が譜面台に楽譜を広げる。弦野先生が完成させてくれた、あの温かいメロディだ。
あとは、始めるだけ。
……なのだが。
「…なあ」
オレは、三人の顔を見回した。
「指揮者、どうすんだ?」
「あっ…」
慧が、しまったという顔をする。練習の時は弦野先生がいたから、すっかり忘れていた。
先生をこんな夜中に巻き込むわけにはいかない。
「僕がやるしかないか…でも、鍵盤ハーモニカを弾きながらじゃ…」
「オレがやる!」
「翔琉くんにできるわけないでしょ!」
和奏に即座に却下される。ぐうの音も出ない。
どうする? 誰が合図を出す?
オレたちが顔を見合わせて悩んでいる、まさにその時だった。
――ポーン。
静寂を破って、ピアノの音が響いた。
部屋の奥。グランドピアノの前に、半透明の男の姿が現れる。
彼は、オレたちを一瞥すると、まるで興味などないかのように、鍵盤に指を落とした。
あのメロディだ。彼が本当に奏でたかったはずの、温かい旋律。
だが、やはり時折、苦しげに顔を歪ませ、不協和音が混じってしまう。
「…おい」
オレは、三人に目配せした。
「しかたねえ。ぶっつけ本番だ。あのピアノに合わせて入るぞ!」
「む、無茶だ!」
「やるしかねえだろ!」
オレはリコーダーを構える。慧も鍵盤ハーモニカに手を添え、和奏はトライアングルを握りしめる。蓮はシンバルを静かに持ち上げた。
ピアノの旋律に、耳を澄ます。
今だ!
オレたちは、練習の成果を叩きつけるように、一斉に音を出した!
ピーヒャラ、ポロロン、チーン、ジャーン…!
数日間の特訓は、無駄ではなかった。以前とは比べ物にならないくらい、音は揃い、メロディになっている!
ピアノの音と、オレたちの演奏が重なり合う。
よし、いい感じだ! これなら…!
そう思った瞬間。
「違うッ!!!!!!」
耳をつんざくような絶叫が、準備室全体を揺るがした。
弦野先生の怒鳴り声なんて、赤子の夜泣きに思えるほどの、凄まじい「怒り」。
ガシャン!!
ピアノの音が止まり、男が勢いよく立ち上がった。その衝撃で椅子が床に倒れる。
彼は、鬼のような形相でオレたちを睨みつけていた。半透明の体が、怒りでわなわなと震えている。
「なんだそれはッ! その『出来損ない』の音はッ!!」
男はズカズカとこちらへ歩み寄ると、慧が持っていた楽譜をひったくった。
「あああああッ! ちがう! ここもちがう! なんだこの編曲は! 侮辱しているのか、このクソガキどもめッ!!!」
彼は楽譜をくしゃくしゃに握りつぶさんばかりの勢いで睨みつけ、頭を掻きむしり、まるで壊れたメトロノームみたいに体を奇妙に揺らしながらうめいている。
「何を聞いて! 何を考えたら! ここが forteで! そこが sforzandoになるんだ!? この accelerandoからの ritenutoへの移行がまるでなってない! 滑らかさが足りない! 情熱が! 色彩が! 何もかもが!!!」
オレたちがわかるわけもない音楽用語を、猛烈な早口でまくし立てながら、男はズンズンと近づいてくる。 その手には、いつの間にか、「指揮棒」が握られていた。
ヤバい、殴られる!?
オレが身構えた瞬間、男はオレの目の前でピタリと止まった。
そして、その指揮棒の先端を、オレの額に――ずぶり、とめり込ませた。
「(うごっ!?)」
痛みは、ない。オバケだから当然か?
だが、指揮棒がオレの額に突き刺さった瞬間、頭の中に直接、怒鳴り声と、ぐちゃぐちゃの音符と、「違う!」「下手くそ!」「なってない!」という罵詈雑言の嵐が、濁流のように流れ込んできた!
「(ぐわあああああああ!!!)」
声にならない悲鳴が頭の中で響く。なんだこれ!? 脳みそを直接指揮棒でかき回されて、音楽論だかなんだか知らねえ知識を無理やり詰め込まれてるみたいだ!
オレは白目を剥いてガクガクと震え、涙とも鼻水ともつかない変な汁を顔中にまき散らしながら、されるがままだった。こんな体験、この世界できっとオレだけだろう。
「いいか!? よく聞け、このド素人ども!」
男は、半ば発狂したように、オレの頭を指揮棒でグリグリとかき回しながら(痛くはないが、とにかくうるさいし気持ち悪い!)、叫び続ける。
「ここはッ! Crescendoで感情を爆発させてからの! Subito Pianoで一気に落とす! そして、この旋律はもっと歌うように! Legatoで滑らかにだ!」「そもそも楽器が足りてないんだよ! 弦楽器は!? 木管は!? ティンパニはどうした、ティンパニは!!!」
彼の言葉の嵐、そのあまりの剣幕と熱量に、オレは、いや、オレたちは、いつの間にか恐怖とかそういうのを完全に吹き飛ばされていた。
ただただ、呆然と、目の前で狂ったように指揮棒を振り回し、オレの頭で脳みそシェイクを作りながら音楽論(?)を叩きつけてくる「音楽家」の亡霊を見つめていた。
これは…もしかして、レッスン…なのか?
史上最低最悪の、スパルタレッスンが、今、始まったのかもしれない。




