第一章 『序曲:放課後のアインザッツ』 第6幕
翌日。
学校の授業中、慧はノートにひたすら五線譜を書き連ねていた。
まるで昨日の出来事を反芻するかのように、ブツブツと独り言を呟いている。
「…あのメロディは、たしか、こうだったはず…いや、ここで半音上がる…? そして、あの不協和音の直前のコードは…」
それは、昨夜、音楽準備室で拾った楽譜と、あの音楽家の亡霊が弾いていた旋律の、うろ覚えの断片だった。
慧は、その記憶を辿りながら、空白の五線譜を埋めようと必死だった。
昼休み。
慧は、教室の隅で、ノートに向かっていた。
「ほう、これは面白い譜面だね、慧くん」
不意に、背後から声がかけられた。
ギョッとして振り返ると、そこに立っていたのは、音楽教師の弦野 響子先生だった。
弦野先生は、見た目はごく普通の、どちらかといえば小柄で地味な女性教師だ。だが、音楽の授業となると人が変わったように熱弁をふるう、筋金入りの「音楽オタク」として生徒たちの間では有名だった。
「授業中に書いたものかな? 君のことだから、また難しい曲を研究でもしてるのかい?」
弦野先生は、慧のノートを覗き込む。
慧は咄嗟にノートを閉じようとしたが、弦野先生の動きの方が速かった。彼女は、慧の手からノートをひょいと取り上げて、食い入るように見つめ始めた。
「このリズム、この拍子…まさか、君、どこかでこれを聴いたのかい?」
「あ、いえ…その…」
慧はしどろもどろになる。まさか、あの幽霊の曲を書き写していた、とは言えない。
「この譜面はね、かつて音楽界を揺るがしかねないと言われた、ある幻のオーケストラが好んで使っていたリズムパターンなんだ!」
弦野先生は、慧の困惑をよそに、まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせ始めた。
「表には出なかったから、知る人ぞ知る、本当にディープな音楽マニアしか知らないはずなのに、君がこんなものを書き写しているなんて…!」
そこから、弦野先生の「幻のオーケストラ」についての熱弁が始まった。その音楽がいかに革新的で、しかしなぜ日の目を見なかったのか、メンバーはどんな人物だったのか…と、延々と語り続ける。
慧は、適度に相槌を打ちながら、先生の言葉に耳を傾けていた。そして、先生が話す幻のオーケストラの「特徴」が、昨夜の音楽家の亡霊と、そしてあの楽譜の「空白」に、少しずつ当てはまっていくことに気づいた。
「それでね、この曲なんだけど、たしかこのあとは…こう続くはずなんだよ!」
弦野先生は、興奮冷めやらぬまま、慧のノートにスラスラと音符を書き加えていく。まさに、あの楽譜の「空白」が、先生の手によって埋められていく瞬間だった。
その日の放課後。
オレたちは、音楽室に集まっていた。慧は、弦野先生が書き加えた楽譜の完璧なコピーを手にしている。
「…というわけで、弦野先生に教えてもらった。もちろん、僕が適当に作った曲、ということでごまかしたけど」
慧は、メガネをキラリと光らせて言った。
「…すげえじゃん、慧!」
オレは思わず声を上げる。これで、あの音楽家の曲が、完成したことになる。
「でも…これを演奏するんだよね…?」
和奏は、少し不安そうに尋ねる。あの夜の「汚い音」発言が、まだ心に残っているのだろう。
「当たり前だろ! あいつに『文句ねえ』って言わせるんだ!」
オレは、グッと拳を握りしめた。
ここからが、オレたちの本当の戦いだ。
オレたちは、音楽室の隅からそれぞれの楽器を持ち出した。
オレはリコーダー。慧は鍵盤ハーモニカ。和奏はトライアングル。蓮はシンバルだ。
慧が持ってきた完成版の楽譜を譜面台に広げる。
「よし、やるぞ!」
オレが意気込むが、いざ始めようとすると、問題が発生した。
「…誰が合図するんだ?」
「え?」
慧の指摘に、オレたちは顔を見合わせる。
昨夜は、勢いで始めたからよかったが、ちゃんと曲として演奏するには、誰かが「指揮者」の役割をしなければならない。
「僕がやるよ」
慧が仕方なさそうに手を挙げる。だが、慧は鍵盤ハーモニカ担当だ。
「じゃあ、オレが」
「翔琉くんにできるの?」
「うっ…」
和奏に痛いところを突かれる。できるわけがない。
結局、慧がメトロノームでテンポを取りながら、なんとか演奏を始めてみたのだが…
ピーヒャラ、トントン、チーン、ジャーン…
それは、昨夜よりもさらに酷い、バラバラの音の洪水だった。
メロディもリズムも合わず、ただただやかましいだけだ。
「だめだこりゃ…」
オレが頭を抱えた、その時だった。
バンッ!!
音楽室のドアが、勢いよく開け放たれた。
「こらー! あなたたち、いつまで残ってるの! しかも、なんて下手くそな演奏を…!」
そこに立っていたのは、鬼の形相の弦野先生だった。
まずい、見つかった! オレたちは慌てて楽器を隠そうとする。
だが、弦野先生は、オレたちの手元…いや、譜面台に広げられた楽譜を見て、ピタリと動きを止めた。
そして、さっきまでの怒りの表情が、みるみるうちに驚きと、そして信じられないほどの「興奮」へと変わっていく。
「こ、この曲は…! まさか、あなたたち、これを演奏しようとしてるの!?」
先生は、オレたちの返事も待たずにズカズカと中に入ってくると、指揮台の上に置いてあった指揮棒を手に取った。
「なってない! 全然なってないわ! リズムも! 音程も! 情熱も! 何もかもが足りない!」
弦野先生は、まるで人が変わったかのように叫ぶと、オレたちを睨みつけた。
「いいこと!? この曲はね、そんな生半可な気持ちで弾いていい曲じゃないのよ! これは、魂の叫びなの!」
有無を言わさぬ迫力。オレたちは完全に気圧されていた。
「もう一度! 最初から! 私が指揮をするわ! ついてきなさい!」
弦野先生は、力強くタクトを構えた。
こうして、オレたちの地獄の…いや、情熱の特訓の日々が始まった。
先生の指導は、まさに「鬼」だった。
少しでも音がズレれば雷が落ち、リズムが乱れれば容赦ないダメ出しが飛ぶ。
オレのリコーダーは「心がこもってない!」と何度もやり直しさせられ、慧の鍵盤ハーモニカは「指が感情に追いついてない!」と叱られ、和奏のトライアングルは「もっと天使のように!」と無茶な要求をされ、蓮のシンバルは「宇宙の始まりのように!」と、もはや意味不明な指導が入る。
それでも、オレたちは必死で食らいついていった。
先生の指揮のもとで、バラバラだったオレたちの音は、少しずつ、だが確実に一つの「音楽」へと形を変えていく。
音が重なり、リズムが揃い、そして何よりも、あの音楽家のメロディに込められた「想い」のようなものが、オレたちの演奏を通して、確かに感じられるようになってきていた。
そして、数日が過ぎた、ある夜。
弦野先生が、満足そうに頷いた。
「…うん。まあ、及第点、かしらね」
オレたちは、息を切らしながらも、顔を見合わせて笑った。
今度こそ、あの男に「文句ねえ」と言わせてやる。
それぞれの胸には、楽器を手に、静かな決意が宿っていた。




