第一章 『序曲:放課後のアインザッツ』 第5幕
「うるさいッ!! また来たのか、クソガキどもッ!!」
びりびりと空気が震えるほどの怒声。昨日逃げ出した時と同じ、いや、それ以上の怒りがその声には込められていた。
慧と和奏が息をのむ気配がする。
だが、オレたちは逃げなかった。
四人、しっかりと前を向いて、半透明の男――あの音楽家の亡霊――の前に立ちはだかっていた。
男は、オレたちが逃げ出さないことに、一瞬、面食らったような顔をした。だが、すぐに元の険しい表情に戻る。
「なんだそのツラは。聞こえなかったのか? 失せろと言っている!」
オレは、ごくりと唾を飲み込み、一歩前に出た。
「…あんたさ、昨日も言ってたよな。『邪魔だ』って」
「…それがどうした」
「オレたちだけじゃなくて、『影』にも言ってただろ。邪魔されてるんだろ? あのヘンな音にさ!」
オレの言葉に、男の目がわずかに見開かれる。
「あの…綺麗なメロディを弾きたいのに…弾けない、の? だから…そんなに苦しそうな顔、してるんじゃ…?」
和奏が、震える声で、それでも心配そうに男を見つめながら尋ねる。
「…チッ。ガキが…分かったような口を…」
男は吐き捨てるように言ったが、その声には昨日ほどの怒りはなかった。むしろ、図星を突かれたような苛立ちが混じっている。
「僕の分析によれば、あの黒い影のようなものは、君の演奏…いや、君自身の存在に干渉しているようだ。おそらく、君が亡くなった原因とも関係があるんじゃないか?」
慧が冷静に指摘する。
「…!」
男は目に見えて動揺した。その反応を見て、オレたちは確信する。やっぱり、コイツはただの怖い幽霊じゃない。
「…助ける」
蓮が、静かに、だが真っ直ぐに男を見つめて、ただ一言、そう告げた。
その瞬間、男の背後にまとわりついていた「黒い影」が、まるでその言葉に反応したかのように、ぶわりと膨れ上がった!
「させるか…!」
影の中から、低い声が響いた気がした。
ガシャァァン!!
部屋中の譜面台や楽器が、見えない力で激しく床に叩きつけられる!
「うわっ!」
「きゃあ!」
ピアノが勝手に、昨日よりも激しい不協和音を奏で始める! 空気が重く歪み、耳鳴りがする。
「やめろッ!! 俺の音楽を汚すなァァ!!」
男が、影に向かって叫ぶ! だが、影は彼の抵抗を嘲笑うかのように、さらに強く部屋を揺さぶる。
「くそっ! どうすりゃいいんだ!?」
オレが叫んだ時、和奏が何かを見つけて声を上げた。
「あそこ! ピアノの下!」
懐中電灯の光が、グランドピアノの下に散らばる、数枚の古びた五線譜を照らし出した。影の暴走で、どこかから落ちてきたらしい。
「あれだ!」
蓮が、確信に満ちた声で指さす。
「取ってくる!」
オレは、慧と蓮に支えられながら、物が飛び交う中をピアノへと突進した。
手を伸ばし、散らばった楽譜をかき集める。
「(…あった!)」
何が書いてあるかはサっぱりだが、とにかく掴めるだけ掴んで三人の元へ戻る。
「おい、これ! ピアノの下にあったぞ!」
オレが楽譜の束を突き出すと、慧がひったくるようにそれを受け取り、懐中電灯で照らした。
「…これは…今まで彼が弾いていた曲とは全然違う…単純で、温かい旋律だ」
慧の言葉に、和奏も楽譜を覗き込む。
「…うん、すごく綺麗…。きっと…!」
和奏が、少しおずおずとしながらも、楽譜を掲げるようにして男に問いかけた。
「これ…なんじゃない? あなたが本当に弾きたい曲…」
男は目を見開いて絶句した。
影が、楽譜を奪おうと黒い触手を伸ばす!
「させるかよ!」
オレは叫んだ。そして、手に持っていたマグライトを振り上げ、影が伸ばしてきた黒い触手目掛けて、光の帯を振り下ろす!
キュルルッ、と。
マグライトの光は影を切り裂くことはできなかったが、まるで熱いものでも当てられたかのように、影の動きが一瞬だけ怯んだように見えた。その隙に、オレは楽譜を慧に投げ渡す!
「慧! 和奏! やるぞ! コイツを弾くんだ!」
「え!?」「やるって…本気か!?」
「いいから!」
オレは、床に転がっていたタンバリンを拾い上げる!(叩きゃ鳴るだろ!)
慧は近くにあった鍵盤ハーモニカのケースをこじ開け、和奏はさっきの衝撃で落ちてきたらしいトライアングルとそのバチを握りしめる。蓮は…壁に立てかけてあったシンバルを手に取り、すでに影と男を睨みつけるように構えていた。
「いくぞ!」
オレが合図し、慧が楽譜を見ながらメロディを吹き始める!(オレは雰囲気でタンバリンを叩く!)
だが、焦りと恐怖で指がもつれ、音はかすれ、ひどい有様だ。
慧の伴奏も、和奏のトライアングルも、完全にタイミングがズレている。蓮のシンバルは、鳴るべき場所で鳴らない。
それは、音楽というにはあまりにもお粗末な、「騒音」だった。
影の動きが、一瞬止まった。嘲笑うかのように。
そして、男の顔が、みるみるうちに怒りで歪んでいく。
「…………やめろ」
地を這うような低い声。
「やめろと言っているッ!!!!」
ゴォォォッ!! 突風が吹き荒れ、オレたちは床に叩きつけられた! 楽器が手から離れ、宙を舞う。
「これは…ッ! こんなものは、音楽じゃないッ!! ただの騒音だッ!!!」
男の絶叫が響き渡る。
それは、彼にとって、我慢ならない「侮辱」だったのだろう。
「出ていけッ!! 二度とその汚い音を俺の前で鳴らすなァァァ!!!」
オレたちは、なすすべもなく、見えない力によって準備室の外へと放り出された。
バンッ!!と激しい音を立ててドアが閉まり、内側から鍵がかかる音がした。
シン……。
さっきまでの喧騒が嘘のように、廊下は静まり返っていた。
オレたちは、埃まみれになって床に座り込み、ただ呆然としていた。
助けようとしたのに、本気でブチ切れられた。
しかも、「音が汚い」とまで言われた。
「……ひどい言われようだな」
慧が、ぜえぜえと息をしながら呟く。
「……でも」
和奏が、震える声で言う。
「あの楽譜…やっぱり、すごく綺麗だった…」
そうだ。あのメロディは、確かに温かかった。
オレたちの演奏は、最低だったけど。
オレは、固く拳を握りしめた。
悔しい。めちゃくちゃ悔しい。
でも、それ以上に、あの苦しそうな顔と、本気の怒声が頭から離れない。
「…絶対、ちゃんと弾けるようになってやる」
オレは、閉ざされたドアを睨みつけて呟いた。
「もう一回だ。今度は、『文句ねえ』って言わせてやる」
こうして、オレたちの「本当の挑戦」が始まった。




