第一章 『序曲:放課後のアインザッツ』 第3幕
――ポーン。
静寂を切り裂いて、澄んだ音が、一つだけ響いた。
部屋の奥。シートがかけられた、グランドピアノから。
四人は、凍り付いた。
心臓の音が、やけにうるさい。息をすることさえ忘れていた。
――ポロ、ポロン。
それは、間違いなく「誰か」が鍵盤を叩く音だった。
まるで、さっき慧が立てた物音を「合図」にしたかのように。
最初は、たどたどしい指使いだった。
まるで、暗闇の中で鍵盤の位置を探るように、ひとつ、またひとつと音が置かれていく。
それは、今まで聞いたどんなピアノの音よりも冷たく、澄んでいた。月光が凍って音になったみたいだ。
やがて、旋律は形を成し始める。
悲しげで、どこか焦っているような、不思議なメロディ。
美しい、と思った。けれど、聴いていると胸の奥がざわざわして、言いようのない不安がこみ上げてくる。
オレは、隣にいる慧と和奏を見た。二人とも、顔面蒼白でピアノの方を見つめている。蓮だけは、相変わらず表情を変えずに、ただじっと音の出どころ――ピアノの「影」――を見据えていた。
そのメロディが、ふいに歪んだ。
ガシャン!と、まるで鍵盤を拳で叩きつけたような、耳障りな不協和音。
「ひっ…!」
和奏が小さく悲鳴を上げ、慧の腕にしがみつく。
再び、美しい旋律が流れ始める。
だが、数小節もしないうちに、またしても激しい不協和音がそれを打ち消す。
美しい旋律と、狂ったような不協和音。
それが何度も繰り返される。
まるで、見えない「何か」が、綺麗なメロディを無理やり捻じ曲げようとしているみたいだ。
オレはもう、立っているのがやっとだった。
足がガクガク震える。頭の中で「逃げろ」と警報が鳴り響いているのに、体が動かない。これが「金縛り」ってやつか?
不協和音が最高潮に達した、その瞬間。
バサリ!
ピアノにかかっていた白いシートが、まるで生き物のように、ひとりでに床へと滑り落ちた。
月光に照らされたピアノの前には、誰もいなかった。
いや、違う。
――「誰か」が、いた。
半透明の、人影。
若い男だった。神経質そうな顔つきで、鍵盤の上に虚空の指を走らせている。その表情は苦悶に満ち、何かを必死に探しているようにも見えた。
あれが、噂の「幽霊」…!
オレは息をのんだ。腰が抜けそうになるのを必死でこらえる。
慧も和奏も、声にならない悲鳴を上げている。
男の亡霊は、オレたちに気づいた様子はなかった。
ただひたすらに、美しい旋律と不協和音の間を行き来している。
その姿は、怖い、というよりも、なんだかとても「苦しそう」に見えた。
その時。
オレたちの存在に、ついに「彼」が気づいた。
ピタリ、とピアノの音が止まる。
亡霊が、ゆっくりとこちらを振り返った。
その目は、燃えるような怒りと苛立ちに満ちていた。
オレは身構えた。殴られる? 呪われる?
だが、彼の口から飛び出したのは、予想もしない言葉だった。
「うるさいッ!!」
それは、鼓膜が破れそうなほどの、ただただ、純粋な「怒鳴り声」だった。
「出ていけ、クソガキ!! ここはガキの遊び場じゃねえんだ!」
え?
オレは、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
幽霊に、怒鳴られた…?
「俺の音楽の邪魔をするな! この『影』も、お前らも、全部が不協和音だッ!!」
彼は本気で怒っていた。顔を真っ赤にして(半透明なのに)、オレたちを睨みつけている。
それはもう、オバケとかそういう次元じゃない。完全に、近所の「怖いおじさん」に怒鳴られた時のそれだった。
恐怖よりも、「驚き」が勝った。
そして、その驚きが、金縛りになっていたオレたちの足を解き放った。
「うわあああああああっ!!」
誰が叫んだのか、もう分からなかった。
オレたちは、蜘蛛の子を散らすように、音楽準備室から転がり出た。
背後で、あの男の罵声と、再び鳴り響き始めた狂ったピアノの音が追いかけてくる。
怖かった。
でも、それ以上に、なんだかよく分からない「衝撃」で、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
オレたちはただ、必死に校舎の暗闇を駆け抜けた。




