第一章 『序曲:放課後のアインザッツ』 第2幕
夜の学校は、昼間とはまったく違う「生き物」だった。 生ぬるい風が校舎の壁を舐めるように吹き抜け、木の葉が「カサカサ」と乾いた音を立てる。校庭の遊具が、月光を浴びて巨大な獣の骨のように黒く浮かび上がっていた。
「……うう、やっぱり、帰ろうよ……」
裏門の錆びた鉄格子を握りしめ、和奏が涙目になって訴える。
「馬鹿。ここまで来て帰れるかよ」
オレは、グループで一番デカい、父親の工具箱から拝借してきたマグライトを点灯させ、校舎を照らした。闇に浮かび上がる「学び舎」は、まるで巨大な怪物の寝顔のようだ。 オレの胸は、恐怖よりも「冒険」への期待で高鳴っていた。
「だ、だいたい翔琉は無計画すぎるんだ!」
慧が、震える声をごまかすように早口でまくし立てる。
「万が一、警備員に見つかったらどうするんだ! 不法侵入だぞ!」 「うるせーな。見つかる前に逃げりゃいいだろ。それより、お前ら『武器』は持ってきたか?」
オレが懐中電灯を振り回すと、三人はおずおずと自分の「持ち物」を見せた。
慧が取り出したのは、ラミネート加工された「校舎の見取り図」と、やけに分厚い「救急箱」だった。
「…お前、お母さんかよ」 「備えあれば憂いなしだ! お前が怪我したらどうする!」
いかにも慧らしい「武器」だ。 和奏は、リュックから「お菓子(大袋)」と、神社の「交通安全」と書かれたお守りを差し出した。
「…これ、お兄ちゃんのお下がりだけど…きっと守ってくれる、よね?」 「それ、交通安全じゃねえか…」
オレがツッコむと、和奏は「ないよりマシだよ!」と顔を赤らめた。
最後に、オレは蓮を見た。 蓮は、無言でポケットから小さな「折り畳みナイフ」を取り出し、月光にその刃をかすかに光らせた。
「うおっ!?」 「れ、蓮くん! それ、どうしたの!?」
和奏が小さな悲鳴を上げる。慧も「銃刀法違反だぞ…」と青ざめている。 蓮は、そんな二人の反応を気にも留めず、ナイフをしまうと、ただ「行こう」とでも言うように、校舎の方へ顎をしゃくった。
「…やっぱお前、最高だわ」
オレはニヤリと笑い、マグライトを先頭に向けた。
「よし、行くぞ! 目指すは旧音楽棟、『呪いの準備室』だ!」
◇
忍び込んだ校舎は、シンと静まり返っていた。 自分たちの足音と、誰かの(主に慧の)荒い息遣いだけが、やけに大きく響く。 旧音楽棟は、本校舎から渡り廊下で繋がれた、一番奥の「行き止まり」にあった。
ギィ、と。 ホコリっぽい渡り廊下のドアを開けた瞬間、空気が変わった。 ひやりと冷たい、カビ臭い匂い。本校舎よりも一段階、闇が濃い。
「…ここだ」
突き当り。「音楽準備室」と書かれた札が、懐中電灯の光にぼんやりと浮かび上がる。 オレは、昼間の勢いはどこへやら、ごくりと喉を鳴らした。
ドアノブに手をかける。 ガチャリ、と回すが、手応えはなかった。
「…クソ。鍵、かかってる」 「か、かかってるなら仕方ない! ほら、帰ろう、翔琉!」
慧が、心底ホッとしたようにオレの肩を掴む。 だが、オレは諦めなかった。マグライトの光で、ドアの上部を照らす。 天井近く、明かり取りのための「小窓」が開いていた。
「…翔琉、まさか」 「慧、肩車しろ。俺がよじ登る」 「無茶だ! 落ちたらどうするんだ!」 「うだうだ言うな! いいから早く!」
オレは慧の抗議を無視し、強引にその肩を踏み台にした。
「いっ…! 重いぞ、馬鹿!」 「我慢しろ!」
慧の肩の上でふらつきながら、オレは小窓の縁に指をかけた。 埃まみれになりながら、なんとか体を持ち上げる。
「(うわっ…!)」
小窓から中を覗き込んだ瞬間、オレは息をのんだ。 懐中電灯の光が、真正面にある「何か」を照らした。 壁にかけられた、古い音楽家の肖像画。 厳しい顔つきの、もじゃもじゃ頭の男。その目が、暗闇の中で、まるで生きているかのようにギロリとオレを睨みつけていた。
「(…ビビらせやがって…!)」
心臓がバクバク鳴っている。 オレは、その「目」から逃げるように、窓枠を乗り越え、準備室の暗闇へと飛び降りた。
ドンッ! と鈍い音を立てて床に着地する。 埃が舞い上がり、思わず咳き込む。
「(いてて…)」
すぐに立ち上がり、懐中電灯で室内を照らす。 雑然と積まれた譜面台、メトロノーム、解体されたティンパニ。そして、部屋の奥に、シートがかけられたグランドピアノの、巨大な「影」。 オレは急いでドアに向かい、内側の鍵に手をかけた。
ガチャリ。
ドアを開けると、三人が不安そうな顔で立っていた。
「…開いたぞ。入れよ」
四人は、懐中電灯の光を頼りに、恐る恐る「呪いの準備室」へと足を踏み入れた。 シン、と静まり返った部屋。 昼間の噂が嘘のように、何も起こらない。
「…ほらみろ。やっぱり、ただの噂じゃ…」
慧が、安堵の息をつきかけた、その時だった。
ゴトリ。
暗闇の中、彼が何かに躓いた。積まれていた譜面台が、重い音を立てて床に倒れた。
「わっ!?」 「きゃあ!」
和奏が小さな悲鳴を上げる。
「な、なんだよ慧! 脅かすなよ!」
オレが文句を言おうとした、まさにその瞬間。
――ポーン。
静寂を切り裂いて、澄んだ音が、一つだけ響いた。 部屋の奥。シートがかけられた、グランドピアノから。
四人は、凍り付いた。
――ポロ、ポロン。
それは、間違いなく「誰か」が鍵盤を叩く音だった。 まるで、倒れた譜面台の音を「合図」にしたかのように、呪いのプレリュードが、今、始まった。




