第二章 『展開部:不協和な世界』 第2幕
エレキギターの残響が、まだ耳の奥で鳴っていた。
あの夜の旋律を、今の自分の音で奏でた高揚感と、言い知れぬ懐かしさ。オレは、少し浮かれた気分のまま、夕暮れの道を家へと急いでいた。早く帰って、今日の練習の続きがしたい。もっと上手く弾けるはずだ。
だが、自宅の玄関を開けた瞬間、その高揚感は冷水を浴びせられたように消え去った。
何か、おかしい。
家の中の空気が、妙に重い。シン、と静まり返っているのに、どこか「気配」が濃いような、そんな嫌な感じがした。
「ただいまー…」
いつもより小さな声で呼びかけるが、返事はない。親はまだ仕事から帰っていない時間だ。
オレは、無意識に息を殺しながら、自分の部屋へと向かう廊下を歩いた。
心臓が、ドクドクと嫌な音を立てている。まさか、とは思う。でも、この感覚には覚えがあった。
自室のドアノブに、そっと手をかける。
冷たい。
ゆっくりと、音を立てないようにドアを開ける。
部屋の中は、夕暮れの薄明かりに沈んでいた。
ベッド、机、本棚…いつもと同じ、見慣れたオレの部屋。
だが、その中央に。
―――男が、いた。
半透明の、あの男。
音楽準備室にいたはずの、あの指揮者の亡霊が、なぜかオレの部屋の真ん中に、部屋の隅で埃をかぶっていたはずの、あの「タクト」を手に持ち、それを自分の手のひらにペシペシと苛立たしげに叩きつけながら、仁王立ちになっていた。 その顔は、心底不機嫌そうだ。
「―――――ッ!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥で凍り付いた。
なんで、ここに!? どうして!? しかも、オレのタクトを勝手に…!
男は、オレの驚愕など意にも介さず、ペシペシとタクトを叩くのをやめると、はぁ、と深いため息をついた。その表情は、怒りというよりは、心底うんざりしている、といった方が近い。
「……あー…最悪だ…」
彼は、けだるそうに、タクトでこめかみを押さえながら呟いた。
「なぜ、また貴様の前に出てきてしまったのか…こっちが聞きたいくらいだ。勘弁してくれ…」
その声には、小学生の頃に聞いたような激昂はない。ただ、ひたすらに迷惑そうで、疲れていた。まるで、二日酔いの朝に叩き起こされたみたいに。
オレは、そのあまりに「普通」な反応に、逆に混乱した。
パニックで頭の中が真っ白になる。
怒鳴られるよりも、恨めしそうに睨まれるよりも、今のこの状況の方が、よっぽど理解不能で、怖かった。
「ひっ…!」
ようやく絞り出した声は、情けない悲鳴になった。
オレは、考えるよりも先に体が動いていた。
部屋に背を向け、廊下を転がるように駆け出す!
「おい、待て、クソガキ!」
背後で男の声がしたが、振り返る余裕なんてなかった。
玄関のドアを蹴破るように開け、外へと飛び出す!
なんで!? どうして!? あいつは、あの音楽室にいたはずじゃ…!?
頭の中が「?」で埋め尽くされる。
あの夜の記憶が、怒涛のように押し寄せてくる。狂ったピアノ、楽譜のオバケ、頭にめり込んだ指揮棒、罵詈雑言の嵐…。
あれは夢じゃなかった。本物だったんだ。そして、あいつは、今、オレの部屋に…!
誰か! 誰かに言わないと!
でも、誰に? なんて言えば? 幽霊が部屋にいたなんて、信じてもらえるはずがない!
オレは、ただ無我夢中で町を駆けていた。
夕暮れの商店街、家路を急ぐ人々、自転車のベルの音…。日常の風景が、やけに遠くに感じられる。
そうだ、慧なら…! あいつなら、何か分かるかもしれない!
いや、でもあいつは違う高校だし、最近連絡も取ってない…。
蓮は? どこで働いてるんだ?
和奏は…?
考えがまとまらない。ただ、この混乱と恐怖を誰かにぶつけたくて、オレは走り続けた。
角を曲がった、その時だった。
ドンッ!
「きゃっ!」
「うおっ!?」
誰かと、正面からぶつかった。
尻もちをついたオレの目の前に、同じように転んだ、見慣れた姿があった。
長い髪、少し困ったような優しい目。
「…和奏…?」
「翔琉くん…!? もう、急に飛び出してきて…危ないよ!」
そこにいたのは、橘和奏だった。
偶然の再会。だが、今のオレにとっては、まるで砂漠で見つけたオアシスのように思えた。




