閑話 『それぞれのプレリュード』
1. 一ノ瀬 慧の場合
季節は秋。あの魔法のような夜から時は流れて、一ノ瀬慧は高校二年生になっていた。放課後の自習室は、彼の指定席のようなものだった。蛍光灯の白い光が、整然と並ぶ机と、そこに積み上げられた参考書の山を照らしている。進学校での日々は、常に試験と隣り合わせだ。少しでも気を抜けば、あっという間に置いていかれる。小学生の頃、翔琉たちと真夜中の校舎に忍び込み、得体のしれないものに立ち向かった日々が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
ふと、慧はペンを止め、鞄の奥からくたびれたノートを取り出した。表紙には「極秘調査記録」と、今見ると稚拙で少し恥ずかししくなるような文字が踊っている。ページをめくれば、あの夜の音楽準備室での出来事が、当時の興奮と恐怖をそのまま閉じ込めたかのように、几帳面な文字でびっしりと記録されていた。半透明の男、蠢く黒い影、楽譜のオバケ…。論理では説明できない、しかし強烈な「現実」だった。
(…あの男は、一体誰だったんだろうか)
慧にとって、あの事件は終わっていなかった。いや、終わらせることができなかった。持ち前の知的好奇心が、あの不可解な現象の「解明」を諦めさせてくれなかったのだ。彼は時間を見つけては、古い音楽雑誌のアーカイブを漁り、ネットの海に沈んだマニアックな音楽フォーラムを巡り、そして時には、今は亡き祖父が遺した膨大なクラシックレコードの解説文を読み解いた。断片的な情報が指し示すのは、「若くしてスキャンダルに巻き込まれ、表舞台から消えた天才指揮者」の朧げな像だった。確証はない。だが、あの男が「本物」の音楽家であったことだけは、慧の中で揺ぎない事実となっていた。
思考を中断し、慧は気分転換にイヤホンを耳につけた。スマートフォンでクラシック音楽配信サービスのアプリを開き、いつものプレイリストからバッハの無伴奏チェロ組曲を選ぶ。数学のように緻密に構築された、完璧な調和。それが、常に何かに追われるような慧の心を、わずかな時間だけ解き放ってくれる。チェロの深く、厳かな音色がイヤホンを通じて静かに流れ出す。心が凪いでいくのを感じた。
―――…キィ……
「…ん?」
一瞬、音が歪んだ気がした。まるで、レコードの針が飛んだような、あるいはデータが破損したような、生理的な不快感を伴うノイズ。
慧は眉をひそめ、再生を停止し、アプリを再起動してからもう一度最初から再生する。今度は問題なく、美しいチェロの音色が流れる。
気のせいか、と彼は首を傾げる。最近、少し勉強を詰め込みすぎているのかもしれない。それに、翔琉とも最近は話せていない。あいつは今、何をしているんだろうか…。
慧は再び複雑な数式に向き直ったが、耳の奥に残る、あの僅かな「不協和音」の感触が、まるで世界に生じた小さな亀裂のように、妙に気になっていた。
2. 御子柴 蓮の場合
夕暮れの薄闇が迫る工事現場。金属の軋む音、土埃と汗の匂い。御子柴蓮は、黙々と足場パイプの束を肩に担いでいた。高校二年生という年齢。本来なら制服を着て教室にいるはずの時間だが、彼が進んだ道は違った。家庭の事情、とだけ彼は周囲に伝えている。それ以上を語ることも、問われることも望まなかった。
中学を卒業してすぐに飛び込んだ労働の世界は、感傷に浸る隙を与えてはくれなかった。黙々と体を動かし、日銭を稼ぐ。それが彼の日常だ。同年代の少年たちが謳歌するであろう「青春」とはかけ離れている。だが、蓮自身はそれを不幸だとは思っていなかった。ただ、これが自分の「現実」であると、静かに受け止めているだけだ。言葉はさらに少なくなり、現場でのやり取りのほとんどは、視線と頷き、そして最低限の単語だけで完結していた。
「蓮、そっち頼む!」
年上の作業員の声に、蓮は無言で頷き、重い鉄骨を軽々と持ち上げる。言葉はなくても、彼の仕事ぶりは確かだった。無駄のない動き、周囲の状況を読む鋭さ。それは、彼が常に張り詰めた意識の中で生きていることの証でもあった。
仕事が終わり、蓮は現場の隅にある仮設の更衣スペースで手早く着替える。汗と土埃にまみれた作業着を脱ぎ、持参した着古しのTシャツとジーンズに着替える。最低限の礼儀として、汚れたまま他人の場所に入るわけにはいかない。顔を洗い、髪を手櫛で整えると、彼は帰り道とは逆方向、古びた雑居ビルの地下へと続く階段を下りていく。軋むドアを開けると、そこは埃っぽい空気にわずかなカビの匂いが混じる、小さなリハーサルスタジオだった。
受付カウンターには、恰幅のいい店主が気だるそうに座って雑誌を読んでいた。蓮は、無言で店主にぺこりと頭を下げる。店主は、雑誌からちらりと目を上げると、「おう。空いてるよ」とだけ短く答えた。言葉は最小限。だが、そこには長年の付き合いからくる信頼のようなものが確かに感じられた。蓮は再び無言で会釈すると、奥のスタジオへと向かった。彼が唯一、自分自身を解放できる場所。
使い古されたドラムセットの前に座ると、蓮はポケットから取り出した、使い慣れたドラムスティックを握りしめた。目を閉じ、深く息を吸う。
言葉の代わりに、リズムが彼を満たし始める。
最初は、静かにハイハットを刻むだけ。チキチキと、秒針のように正確に。次第にスネアが加わり、バスドラムが力強く、しかし抑制されたビートを刻み始める。それは、日々の労働で鍛え上げられた肉体が可能にする、パワフルでありながら驚くほど繊細なリズムだった。内に秘めた激情、言葉にならない叫び、あるいは、あの夜に経験した不可思議な出来事の残響。全てが、そのビートの中に叩き込まれていく。
音楽準備室で、わけもわからずシンバルを打ち鳴らした、あの瞬間。あの時の高揚と、男の狂気が、今も彼の体の奥底で、リズムの核となっている気がした。
ドッドッ、タッ、ドッドッ、タン! ドッドッ、タタッ、ドッドッ、タン!
ビートが熱を帯び、複雑なフィルインを叩き込もうとした、その時。
―――…カツン……
「…?」
スティックを持つ手に、ほんの一瞬、奇妙な「抵抗」を感じた。いや、抵抗ではない。まるで、叩いたはずのスネアの音が、コンマ数秒「遅れて」聞こえたような…あるいは、存在しないはずの「もう一つの音」が割り込んできたような感覚。
蓮は演奏を止め、神経を研ぎ澄ます。スタジオの外の音ではない。もっと根源的な、時間そのものの「流れ」が僅かに淀んだような、言い知れぬ違和感。
彼は眉をひそめ、もう一度力強くビートを刻み始めたが、さっきまで感じていた純粋な没入感は、どこか薄れてしまっていた。何かが、世界の「リズム」を狂わせようとしている。そんな予感が、彼の背筋を冷たくした。
3. 橘 和奏の場合
夕暮れの河川敷。茜色に染まる空の下を、橘和奏は一人、ゆっくりと歩いていた。
高校二年生。新しい友達もでき、クラスにも馴染み、それなりに楽しい毎日を送っている。小学生の頃のように、いつも翔琉たち男子の後ろをついて回っていた自分とは、少し違う。今は、気の合う女子グループとカフェでおしゃべりしたり、流行りのファッションの話で盛り上がったりする時間も大切だ。翔琉とは同じ高校に通っているけれど、クラスが離れてからは、廊下ですれ違っても、なんだか気まずくて、すぐに目を逸らされてしまう。
(…翔琉くん、なんだか、私を避けてるみたい…)
寂しい気持ちがないわけではない。でも、仕方ないのかもしれない。彼にも彼の世界があるのだろう。それに、自分だって、いつまでも昔のままではいられない。
和奏は、土手に腰を下ろし、鞄から音楽プレイヤーを取り出した。イヤホンをつけ、お気に入りのプレイリストを再生する。最近彼女が夢中になっているのは、歌うことだった。
楽器はもうやっていない。トライアングルを必死で鳴らしたあの夜のことは、今でも鮮明に覚えているけれど。今の彼女が選んだのは、もっと直接的に、自分の心を表現できる「声」だった。誰に聴かせるでもなく、ただ自分のために歌う時間が、新しい友人たちとの賑やかな時間とは違う、静かな充実感を彼女に与えてくれていた。
あの夜、音楽準備室で対峙した恐怖。そして、最後にみんなで音を奏でた時の、胸が震えるような奇跡。あの経験は、彼女の中に眠っていた何かを目覚めさせたのかもしれない。ただ優しいだけではない、困難に立ち向かうための、静かだけれど確かな「強さ」の種を。
夕日を浴びて歌う彼女の声は、以前よりもずっと、透明感の中に芯のある響きを秘めていた。
「♪―――あなたの声が 遠くなる―――」
彼女が好きな、少し切ないバラード。空の色と、自分の心象風景が重なるような気がした。
感情が静かに高まり、クライマックスのロングトーンへと移ろうとした、その瞬間。
―――…グギャッ!…ザザ…―――
「!?」
自分の喉から、信じられない音が飛び出した。
まるで、壊れたスピーカーが悲鳴を上げるような、あるいは古びたテープが擦れるような、醜く、耳障りなノイズ。
和奏は驚きと嫌悪感で激しく咳き込み、自分の喉元を両手で押さえた。
「…い、今の…なに…? 私の声…?」
風邪? 声が枯れた? いや、そんな生易しいものではない。
まるで、自分の声帯が、一瞬だけ、悪意を持った何かに「乗っ取られた」かのような、背筋が凍るような気味の悪い感触。
恐ろしくて、もう一度歌おうという気にはなれなかった。
さっきまで感傷的な美しさを湛えていた夕焼け空が、急に不気味な色合いに見えてきて、和奏は逃げるように立ち上がり、早足で家路についた。
耳の奥で、あの醜い「ノイズ」が、まるで呪いのように、いつまでも反響していた。




