満ちる水 神山探偵事務所
雨音が歌のように聞こえる。
神山結城は白い雲と青い空から視線を外し、デスクの上の報告書を眺めて、ふと気づく。報告書の最後の一文「水が私を呼んでいる」という言葉は、自分で気づかないうちに書き加えられていた。慌てて削除しようとして手を止める。
これもまた、真実の一部なのだから、と思い直す。
報告書は今回の依頼主、高林泰三宛に送付する。
神山探偵事務所。彼にとって今回の調査は、初めて逃げたいと感じる、薄気味の悪いものだった
耳の奥で微かに水の流れる音がした。
雨音とは違う、もっと深い場所から響いてくる音。
幻聴だ。
元刑事としての理性が断じた。しかし、その音は日を追うごとに鮮明になっていた。
*
「次の方、どうぞ」
看護師の声に促され、神山は診察室へと入った。御子柴精神科クリニックは歌舞伎町の雑居ビル3階にある。警察時代、犯罪心理の講義で知り合った御子柴鏡介は、今では都内でも評判の精神科医になっていた。
「久しぶりだな、神山」
「ああ……すまない、急に」
「構わないさ。で、どうした? 電話の声が尋常じゃなかった」
御子柴は相変わらず端正な顔立ちをしていた。白衣の下のネクタイも、きっちりと結ばれている。神山は深く息を吸い、奥多摩での体験を語り始めた。調査の詳細、湖畔での異常体験、そして今も続く「水の音」について。
御子柴は一度も話を遮ることなく、時折頷きながら聞いていた。
「なるほど。極度のストレス下での体験が、潜在性の強いPTSDを引き起こしたと考えられる」
「PTSD……か」
「幻聴は珍しくない症状だ。特に、水音のような環境音は、脳が危険を察知した時の記憶と結びつきやすい」
御子柴は処方箋を書きながら説明を続けた。
「まずは薬物療法から始めよう。強めの精神安定剤と睡眠導入剤を処方する。ただし、絶対にアルコールとの併用は避けること。記憶障害を起こす可能性がある」
「分かった」
「それと、週に2回はカウンセリングに来てもらう。君の場合、認知の歪みを修正する必要がありそうだ」
「認知の歪み?」
「ああそうだ。刑事をやめた経緯、離婚の経緯、両方聞いてるからな」
「……あんまりズバズバ言うな」
「余裕があるように見えない。だから、はっきりさせてるだけだ」
「……そうか」
薬局で受け取った薬の量に、神山は少し驚いた。これほど多くの薬を飲むのは初めてだった。
*
効果は劇的だった。
薬を飲んで10分もすると、あれほど悩まされていた「水の音」がぴたりと止んだ。久しぶりの静寂に、安堵のため息をついた。
しかし、副作用もまた強烈だった。
薬を飲んだ後の記憶が、ところどころ抜け落ちている。最初は数分程度だったものが、次第に長くなっていく。ある朝、目が覚めると、前日の午後からの記憶が完全に失われていた。
デスクの上には、自分の筆跡で書かれたメモがあった。
『西へ』
背筋が凍った。
さらに数日後、もっと恐ろしいことが起きた。薬を飲んだ後、ふと気がつくと、見知らぬ山道を車で走っていた。カーナビを見ると、目的地は「奥多摩湖」に設定されている。
いつ、誰が。
答えは明白だ。記憶を失った自分が、無意識のうちに車を走らせていたのだ。
「アホくさ……正気を保つための薬で、正気を失っちゃ意味ねえだろ」
路肩に車を停め、リュックサックから薬のシートを取り出した。多い。束にして輪ゴムでとめてある。それをしばらく眺めた後、窓から投げ捨てようとして、思い直す。「うーん」と呟いたあと、彼は大切なお守りのようにリュックサックに戻した。
*
断薬から3日目の朝、再び「水の音」が聞こえ始めた。
以前よりも鮮明だった。頭骨の内側で波が打ち寄せている。そう、波そのものが頭の中に住み着いた。同時に、西へ向かいたいという衝動が、理性では抑えきれないほど強くなっていく。
気がつくと、また車を運転していた。今度は意識がはっきりしているのに、体が勝手に動いている。ハンドルを握る手が震え、額に脂汗が滲む。
カーナビの画面には、やはり「奥多摩湖」の文字があった。
「やめろ……やめろおおっ!」
叫びながら、路肩に車を寄せた。震える手で胸ポケットから薬のシートを取り出し、規定量の3倍を口に放り込む。水なしで無理やり飲み下した。
薬が喉に引っかかる感覚を最後に、彼の意識は遠のいていった。
*
目を開けると、見慣れた天井があった。
自宅マンションのベッドの上。カーテンの隙間から差し込む光の角度から、夕方だと分かる。どうやって帰ってきたのか、記憶は完全に欠落していた。
枕元の携帯を確認すると、5月3日の午後6時。車で暴走したのが5月2日の朝だったから、丸一日以上が空白になっている。
着信履歴には、御子柴からの電話が何度も残されていた。明日の診察予約を思い出し、とりあえず無事を知らせるメッセージを送る。
シャワーを浴び、着替えを済ませると、急に脱力感に襲われた。怪異に屈しかけた自分への嫌悪感と、それでも生きて帰れたという安堵感が入り混じる。
「一杯だけ……一杯だけなら」
御子柴の忠告が頭をよぎったが、部屋を出た。行きつけの居酒屋まで、歩いて10分。この緊張を解かなければ、正気を保てそうになかった。
カウンターの定位置に座り、熱燗を注文する。
「お久しぶりですね、神山さん」
「ああ、ちょっと仕事が立て込んでてね」
店主との軽い会話を交わしながら、猪口を傾けた。爽やかな香りと共に、アルコールが胃に落ちていく。薬との相互作用など、今はどうでもよかった。
5本目を注文しようとして、やめた。すでに4合も飲んでいる。これ以上飲めば、本当に自制が効かなくなる。会計を済ませ、千鳥足というほどでもない足取りで店を出た。
5月の夜風が心地よい。マンションまでの道のりを、ゆっくりと歩く。エレベーターで7階まで上がり、自室のドアの前に立った時、微かな違和感を覚えた。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。用心深く押し開けた。
靴を脱いで廊下を進む。リビングに入ると、白装束の若い女性が立っていた。
歳の頃は10代後半。いや、高校生か。長い黒髪を背中に流し、純白の着物に緋色の袴。神社の巫女と同じ装いだが、どこか異質な雰囲気を纏っている。
何より異様なのは、その無表情な顔だった。人形のように整った顔立ちなのに、そこには人間的な感情が一切読み取れない。
「見つけました」
女性の唇が動いた。声は澄んでいるが、抑揚がない。神山は後ずさりしようとして、体が動かないことに気づいた。薬とアルコールのせい、あるいは金縛りか。
「あなたは適合していない」
「何を……言って……」
舌が回らない。女性が一歩近づく。その動きは滑らかで、足音が聞こえない。
「小河内で、皆が待っています」
女性の手が、神山の額に触れた。
氷のように冷たい。
その瞬間、脳裏に映像が流れ込んできた。暗い水底、沈んだ鳥居、無数の人影——。
彼の意識は深い闇に沈んでいった。
*
御子柴鏡介は腕時計を確認した。午後2時。神山のカウンセリングは今日だ。すでに予約時間を1時間も過ぎていた。
昨夜のメッセージ以降、連絡が取れない。何度電話をかけても、呼び出し音が続くだけだった。
胸騒ぎを覚えた御子柴は、予定をキャンセルし、クリニックを早めに閉めた。神山のマンションの住所は、初診時のカルテに記載されている。
タクシーでマンションに到着すると、ちょうど住人がオートロックを開けるところだった。その隙に滑り込み、エレベーターで7階へ。
廊下に出た瞬間、異臭が鼻を突いた。
水の腐ったような、生臭い臭い。
神山の部屋——704号室に近づくにつれ、臭いは強くなる。ドアの隙間から、水が廊下に染み出していた。
「神山……?」
ノックをしても返事はない。ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
恐る恐る押し開けた御子柴は、目の前の光景に言葉を失った。
部屋中が水浸しだった。
どこから流れ込んだのか、床一面に水が溜まっている。そして壁——白い壁一面に、赤黒い何かで「七」という漢字が無数に書き殴られていた。発狂した人間が最後の力を振り絞って書いたとしか思えない、狂気の文字群。
「神山!」
土足で水浸しの通路を進む。リビングを抜け、寝室を確認し、最後に浴室のドアの前に立った。ドアは半開きになっている。
中を覗き込んで、御子柴は凍りついた。
バスタブの縁から、人の腕が力なく垂れ下がっている。
青白い腕。見覚えのある腕時計。
震える足で近づき、バスタブの中を確認した。
「ゔっ……」
御子柴は口を押さえながら後ずさった。
医師として、これほど動揺するとは思わなかった。
震える手でスマートフォンを取り出す。救急車? いや、これは——。
アドレス帳から、神山の元同僚の名前を探す。黒岩健吾。警視庁捜査一課の刑事。
「もしもし、黒岩刑事でしょうか。御子柴と申します。神山の——」
『ああ、御子柴さん。神山がどうした』
低い声が電話の向こうから返ってきた。事情を掻い摘んで説明すると、黒岩は短く言った。
『神山の自宅は知ってる。すぐ行く。それまで何も触るな』
*
黒岩健吾が現場に到着したのは、通報から20分後だった。
50代半ばの、いかにも叩き上げといった風情の刑事。御子柴を一瞥すると、無言で浴室へ向かった。
しばらくして戻ってきた黒岩の表情は、石のように硬い。
「先生、あんた医者だろ。あれを見て、どう思う」
「どうって……私は精神科医なんで……」
「人間にできることか?」
「いや……」
黒岩は煙草を取り出して火をつけた。
「胴体で輪切り。断面がなめらかすぎる。それに……本来なら中身がこぼれ出るところだが、それすらない」
「ありえない……ですよね……」
「これで187人目だ」
御子柴は耳を疑った。
「187人?」
「ああ。関東一円で、同じような死に方をした奴らがな。どいつもこいつも、最後は水場で見つかる。風呂場、プール、湖畔……そして全員、胴体で真っ二つ」
黒岩は壁の「七」の文字を見上げた。
「現場は必ず水浸し。それと、この数字だ。7人目の犠牲者で止まると思ってたが、違う。17人目も、70人目も、107人目も、みんな死んだ。この「七」の意味がまったく不明だ」
「なぜ公表されないんですか?」
「できるわけないだろ」
黒岩は苦い顔をした。
「人間にできない殺人が、187件。第三者の痕跡は一切なし。防犯カメラに黒いパーカー姿の不審人物が写っていることもある。が、なぜか画像が途切れている。あれでは、な。そして、凶器が不明、物証も指紋もなし。つまり、捕まえたとしても、立証不可ってこった」
「では、警察は――」
「集団幻覚による連続自殺。それが公式見解だ。もちろん未発表だがな」
黒岩は吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。
「先生、あんたも何も見なかったことにしろ。これは俺からの忠告だ」
「しかし、神山は私の――」
「友人だったんだろう? なら尚更だ。これ以上首を突っ込めば、あんたは188人目になる」
黒岩の目は本気だった。この老練な刑事が、何かを恐れている。
「神山は優秀な刑事だった。探偵業も順調だった。だが、奥多摩の件に首を突っ込んだのが運の尽きだ」
「奥多摩……?」
「失礼……しゃべりすぎたな。もう何も聞くな。何も調べるな。忘れろ」
やがて、黒岩の部下たちが到着した。防護服とゴーグルに厳重なマスク。彼らは、手際よく現場を処理していく。その動きは手慣れていて、同じ作業を何度も繰り返してきたのだろう。
御子柴は呆然と立ち尽くしていた。
神山が語っていた「水の音」は、単なる幻聴ではなかった。友人を救えなかった無力感と、人知を超えた何かへの恐怖が、心を押し潰していく。
窓の外では、5月の青空が広がっていた。
カラスが飛んでいる。
飛行機雲が見えている。
あまりにも平和で、あまりにも日常的な風景だった。
「奥多摩……少し調べてみるか」
御子柴は小さく呟いた。
(了)
お読みいただきありがとうございます!
なんでみんな怖いところに行くんですかねー!
面白かったならブクマしていただいたり、下のほうの★マークポチポチしていただいたりするとうれしいです!
よろしくお願いします‹‹\(´ω`)/››‹‹\(´)/››‹‹\(´ω`)/››