俺を逃しちゃくれないか?
人々の間に魔物が現れる。それが収まることがない。あっちにもこっちにもだ。美波の素早い動きと俺の光の矢で被害は食い止められるが、埒が明かない。やはり、魔物化の元を立たなければならないのか。
その時、再び銀色の髪が踊った。リリィさんが人の間を縫って走っている。視線から、何かを追っているようだ。そこには同じ様に走っている男がいた。何ら特徴のない町人という風情だ。
何故リリィさんはあんな男を追っているんだ? そう疑問を抱いた瞬間だった。男が走り抜けたすぐ側の女性が見る見る姿を変え魔物と化していった。周囲の人々から悲鳴が上がる。その間にも次々に人が魔物化していった。そうか、あれが原因か。それをリリィさんは見付けたんだ。
「おっさん! あそこだ、リリィさんが追っている男だ。あれが魔物化させてるんだ!」
俺が指差す先を江崎のおっさんが見遣る。調度その時魔物化が起きている最中だった。
「おっしゃ、でかした! 元凶、この眼でしかと見たぜ!」
おっさんが瀑籠の戦斧を地面に放り投げた。そして、両拳を固め胸の前でクロスさせ、力を溜める仕草を始める。
「広がれ! 俺の慈悲!」
鼻毛の伸びた中年が両腕を広げる。それが凄まじく輝いて見えた。比喩じゃなく、実際輝いていた。それがおっさんの周囲へ、豊穣の大広場へと拡大していく。俺の顕示するような光とは違って、暖かい慈悲の籠った光だった。その光を浴びて、傷付いた者は立ち上がり、魔物が元の人へと戻っていった。慈悲の柱の力か。
「すげぇな……どんな効果範囲だよ」
「本気を出せば、この街ぐらいなら余裕だ。おそらくな」
江崎のおっさんが戦斧を拾い肩に担ぎ上げ、ドヤ顔を決めた。いつもなら腹立てツッコミの一つでもするところだが、今回ばかりは言ってやる。
「かっけぇ……」
「だろ? だが、俺を褒めるのはそれくらいにしとけ。次のターンはもう始まってるぞ」
おっさんが顎をしゃくって見るように促す。その先にはリリィさんの背があり、更にその先には男が苛立ちを顔にして立っていた。
「チッ、もう少し楽しめると思ったのによぉ。とんでもねぇスキルの持ち主もいたもんだな」
男の声はまるで似つかわしくない、低く歪んで攻撃的な響きだった。その眼が、鼻が、口が、耳が、見る見る形を変え、髪が伸びうねりを帯びていく。肉体も巨大になり、腕も脚も筋肉が漲り丸太のように膨らんだ。それは、雄獅子の顔を持つ巨躯の男、魔物だった。
「俺の名はマルバス。前はルキフグスの副官やらされたが、今は自由の身……」
美波が蹴りを放っていた。マルバスは紙一重でそれをかわすと、後ろへ跳び退いて距離を取った。流石、幼馴染だ。相手の口上途中でも隙あらば潰す。
「おいおい、とんでもねぇな。今の蹴りも凄まじい速度だったぞ。そこのお前の光の回廊といい、俺一人じゃ相手にならねぇ」
「当たり前じゃん。ルキフグスお爺ちゃんは、アタシらがぶっ倒したからね。お前、あいつよりも小物だろ?」
「あのジジイ、憂慮を取り除くとか言って消えたが……」
マルバスはアイちゃんをチラリと見て顎を摩った。魔族はアイちゃんの存在に何か感じるものなのか?
「まあ、いい。お前らがやってくれたのか。その強さなら納得だ。ありがとよ。お陰で俺は自由になれた」
マルバスは耳まで裂けるような大きな口を歪ませて笑った。自分の上司が死んで喜ぶなんて、日本のサラリーマンみたいだ。魔王軍もブラックだったのか?
「しかし、お嬢ちゃんきっついねぇ。俺ぁ曲がりなりにも魔王軍のナンバー2張ってたんだぜ」
「知らんな。魔王軍とは何度かまみえたが、お前のような奴は初めて見た。それに魔王軍の二番手はバアルだったはずだが」
「俺は自由にやりたかったしな。まあ、秘密兵器みたいな扱いだったのさ。だけど、俺はお前を知ってるぜ。魔王軍の間でも、いい女だって噂だったからな。『風刃リリィ』さんよ」
「……やめろ。そのダサい異名は。クソ、京介達に知られてしまったではないか……」
「え、カッコいいじゃん、リリィ姐。風刃さんか」
「美波、特にお前には知られたくなかった」
「ふふん」
美波が悪戯っぽく歪んだ微笑みを向けていた。あの顔、悪いクセが出てるな。きっとあいつは、このネタをしばらく擦り続けるだろう。リリィさん気の毒に……。
「さて、ダメ元でお前達に懇願する。俺を逃しちゃくれないか?」
マルバスは、両の掌を組み片膝を地面に付いて言った。なんだ、こいつは上位の魔族じゃないのか? プライドが無さ過ぎる。
「は? アタシらが逃す訳ないじゃん。舐めてんの?」
「その通りだ。貴様は人間を玩具にして弄んだ。その代償は払ってもらう」
この二人はそう言うと思った。美波とリリィさんは容赦ない。
「そこの男どもはどうだ? お前ら二人には何か通じるものを感じるぜ」
通じるものか……。確かにマルバスからはカスっぽい雰囲気を感じるな。
「ライオンさんよぉ。お前も酒好きだろ?」
江崎のおっさんが小指の指先を弾きながら言った。鼻くそほじってやがったな。
「ああ、好きだぜ。戦なんかよりずっとな。魔界には炎と水から造った酒があってな。口に入れた時はカァーっと熱くなるんだが、喉元過ぎる頃にはそれも霧みたいにスっと消えて、後には芳醇な果実のような甘味が残るのさ。たまんねぇぜ。今度お前らにも飲ませてやるよ」
魔界にもこういう奴がいるんだな。酒を語る時のこいつの眼の輝き。紛うことなき酒好きだ。同類かもしれない。少なくとも、立派な社会人様よりかは近いものを感じる。
「そいつは美味そうな酒だな。だが、俺は酒は嫌いなんだ。酒は人を狂わせる。怖くて怖くて、しょうがねぇ。俺はだからこそ酒を少しでもなくそうと、毎日酒を喰らっているのさ」
饅頭怖いかよ。そんな話初めて聞いたぞ。まあ、嘘だろうな。マルバスも拍子抜けした顔してた。
「マルバスよ。誘惑と扇動撹乱は上位魔族の常套手段だ。だが、そんなもの私達には通用せん。観念しろ。大人しく首を差し出すなら、苦しまずに死の土へ送ってやる」
「ははっ、らしいな。俺もついてないぜ。魔族は死んでも死の土へ還ってしばらく眠るだけだからな。次にこっちへくるのは、何百年、何千年後か分かんねぇが、そん時はもっと自由に楽しめるよう祈りながら眠るとするぜ。だが……」
マルバスが全身に力を籠める。すると、背と脇から腕が生え出した。六本腕。阿修羅のようだ。更に体が膨れ上がり巨大になっていく。
「こんな俺でも、魔族の矜持ってもんがあるのさ。タダじゃ死なねぇ。魔族は魔族らしく人間どもを最後まで苦しめて、死の土へ還るとするぜ!」
マルバスの体は有に二十メートルに達していた。その巨大になった喉奥の声帯から獅子の咆哮を一つ上げた。耳から抜けた音が、衝撃波を発して体の内を何周も駆け巡った。空も地も震えた。まだ豊穣の大広場に残っていた人々は、誰もその声に体を震わせて動くことが出来ずにいた。
すかさず獅子の巨人が六つの掌を、俺達の頭上へ落としてくる。空を塞ぐ大屋根のようだ。逃げ場がない。