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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

かすみ

作者: 乃土雨

 ドン ドン ドン


 深夜の静まり返った部屋にガラス戸を叩く音が響く。

 おそらく日中に聞くと大した音量でもないのだろうが、なんせ今は深夜2時を過ぎたあたりだ。時計の秒針の音も聞き取れるほどの静寂の中にあって、ガラス戸を叩かれる音はこの上なく迷惑な音量となる。

 

 私はかすみ。


 今、窓ガラスを1枚隔てて屋外にいる人物には心当たりがある。

 いわゆるストーカーというやつだ。

 まさか私がストーカーの被害に遭うなんて夢にも思っていなかった。

 1年前。

 街のスーパーでバイトをしている時によく来店する男性客がいた。私はなんとなくその男性を知っていて、街外れのレンタルビデオショップの店員だということは認識していた。名前は分からない。

 顔を見ない日はない程良く来店していて、そのうちに私の担当するレジが混んでいなければ軽く挨拶をして少しだけ世間話をするような仲になった。

 本当に他愛もない会話をする程度だったし、私自身お客さんの中の1人という認識だったから、全く意識はしていなかった。

 バイト仲間に言われて気づいたが、その男性が会計をするのは必ず私のレジと決まっていた。他のレジが空いている状況でもそれは変わらなかった。バイトの先輩から教わった通り、笑顔で応対し、お釣りを渡すときは手を添えた。いや、添えるというより触れるのだ。きちんとお釣りを渡し切るために、相手が差し出した手を包むように触れて手渡していた。

 特別な応対というわけではなく、あの店の店員は男女関係なくそういう応対をしていたのだ。

 そう教わったのだから。

 その応対に特別な感情を抱かれたのか。

 そうだとしたら、はた迷惑な話だ。

 周囲からあの男性客は私のことが好きなのだと囁かれ始め、徐々に居心地が悪くなっていった。

 結果。

 私は無職になった。

 退職した、といっても単に店に行かなくなった日の夜から。

 この男は私の部屋のガラス戸を、こうして夜な夜な叩き続けている。

 どうやって自宅の場所を突き止めたのか。

 バイト終わりの帰宅時に尾行でもされていたのだろう。

 その執念たるや。全く。

 もの好きもいたものだ。

 

 ドン ドン ドン


 自宅は古い木造2階建の一軒家だ。

 70年代に流行った住宅地の一画に建っており、建物も古びたデザインだが、この住宅地一帯が古びている。と私は感じている。

 南向きの玄関から最も遠い北側の狭い裏庭に面した角の部屋が私の部屋だ。裏庭の先にある路地との境界には申し訳程度の木板があり、路地から私の部屋は見えないようになっている。木板は戸の部分だけ切り取られていて、そこから路地に「出る事ができる」作りになっている。

 「出る事ができる」という事は、「入ることもできる」という事で、路地から我が家の裏庭には、まあ誰でも入れる環境になっているのだ。それはもう、いとも簡単に。

 

 ドン ドン ドン


 だからこうして、赤の他人であるあの男が毎夜ガラス戸の前に立って迷惑な音を立て続けているのだ。


 ドン ドン ドン


 でも、もう慣れた。


 信じられないことにこの男。


 存在しない、のだそうだ。


 ドン ドン ドン


 ねえ


 私には同居人がいる。

 母と兄だ。

 まあ私以外ちゃんと働いているので、どちらかと言えば母兄の同居人が私ということになる。

 ガラス戸を叩かれ始めてすぐのこと、それは恐ろしい事態に陥ったと思い兄に相談した。兄はすぐに自宅周辺の見回りをすると言ってくれて、それから数日深夜に起きて自宅周辺の見回りをしてくれた。

 だが。兄が見回りをしている時間帯にはガラス戸を叩く音が止むのだ。それどころか、兄はガラス戸の前も見回ってくれていたのだが、一度も男と遭遇はしていないと言う。


 ドン ドン ドン


 そんなはずはない。兄が見回りを終えると男はどこからか現れて、またガラス戸を叩きはじめる。

 そう兄に話すと

 じゃあ叩きに来たらオレを部屋に呼べ

 と提案してくれた。

 兄は苛立っていた。

 その日の夜も、男は現れた。

 すぐに兄を呼んで部屋にいてもらった。

 5分経過しても男はガラス戸を叩かない。

 こうなればもはや叩いてほしかった。

 これではストーカーに狙われていると一人で騒いでる、自意識過剰のいわゆる痛い女になるからだ。それに、兄はそこそこ怖い。学生の時は今よりもっと短気で荒い気性だった。今でもその名残はあり、付き合う友達は皆ヤンチャしそうな面々ばかりだ。

 その兄に無理を言って部屋にいてもらっていることも十分承知している。

 なのに。

 結局30分待ったがガラス戸は叩かれる事はなかった。

 さすがに兄は私を叱りつけた。

 もっともだ。散々振り回されたがどうやら妹の妄想に付き合わされただけとなれば怒鳴りたい気持ちにもなるだろう。

 

 ドン ドン ドン


 ねえ 聞いてる?


 うるさい。

 今日はいつにも増してうるさい。


 兄はそれからしばらくは私への怒りが治らない様子で、私の話は殆ど聞いてくれなくなった。

 母は昔から、私にあまり興味がない様子で、家の敷地に男が侵入していると話しても、話半分に聞いている感じだった。

 かすみは小さい頃からそういう妄想癖みたいなところがあるから

 母は必ずそう言って話を切り上げてしまうのだった。

 これでは埒があかない。

 夜まともに眠れない日々が続いていたから、体力も限界に差し掛かっていた。

 私は意を決して、警察に相談するべく近所の、と言っても最寄りの交番は自宅から2キロのところにあるのだが、その交番に出向いた。

 ことの経緯を話すと、警官は身を乗り出して話を聞いてくれた。昨今、全国で繰り返されるストーカー被害の報道を受け、私の話は警官冥利に尽きる話であったに違いない。

 夜間の巡回を強化します。

 警官はそう話してくれた。

 車を持っていないから交番までの往復4キロを歩いて帰宅した。日頃の運動不足もあってひどく疲れた。その日は帰るや否やベッドに身を投げ出してそのまま寝てしまった。おそらく正午にになるかならないかの時間であったように思う。

 警察に伝えたという安心感と日々の寝不足も手伝ってかなり深い眠りについた。もはや気絶と言っても良いレベルであったと思う。

 目が覚めた時には一瞬何がどうなっているのか分からなかった。ベッドに横になったところまでは記憶があるが、目を閉じていたのはほんの4〜5分の感覚だった。しかし気づくと明るかった部屋は暗く、もう時間は深夜になっていた。

 ああ、眠り込んでいたんだ

 とようやく状況を理解して、暗くなってしまった部屋の天井を見ていた。起き上がらなければと思ったところで、昼間に部屋のカーテンを開けてそのままになっていることを思い出し、顔だけガラス戸の方を見た。


 男が。

 こちらを

 見ている。


 ぎゃっ


 声が出そうになるのをぐっと堪えたが少し出たと思う。体も少しびくついたかもしれない。

 鼓動が大きく、早くなる。とんでもない速さで血液が体をめぐり出すのを感じた。

 男は微動だにしない。

 路地の薄明るい街灯が男の背中側にあり、男の姿はシルエットになっているが視線は感じる。

 どうやら私が起きたことに気づいてはいないようだ。

 ああ、えらいことになった。

 いつから見られていたんだ。

 警察は何をしているんだ。巡回を強化するんじゃなかったのか。

 なぜ今日はガラス戸を叩かないんだ。

 まさか寝ている私を起こしては忍びないとでも思っての事なのか。

 姿が見えていればガラス戸は叩かないのか。

 いずれにしても、起きた事がバレては命の保障は無いと直感的に悟った。

 私は男を見つめたまま、男は私を見つめたまま妙な時間だけが過ぎていった。


 その日から、私の生活は完全に昼夜が逆転してしまった。


 ドン ドン ドン


 バイトをしていた1年前からすると、体重はゆうに20kg増量している。といっても体重計に乗るのも億劫で、あくまで私の感覚によるものだが。

 今、当時のバイト仲間に会ったとしても一見して私とは分からないだろう。

 それもこれも、このストーカーのせいだ。

 夜は必ずガラス戸を叩きに訪れ一睡もさせてくれない。

 朝方、ガラス戸を叩かなくなったのを確認して、眠りにつく。起きるといつも昼はとうに過ぎている。もう何ヶ月もまともに日光を浴びていない。

 ただ、週に1回は必ず朝方眠りにつく前に交番に行き、ストーカー被害を受けていることを相談しに行っている。しつこい女だと思われているのも分かっている。当初相談に乗ってくれた警官は異動になり、今は別の警官が夜間の巡回を行っているが、その警官の応対は明らかに投げやりだった。

 家に鏡はないのか?

 そんな風体でストーカーに付き纏われている?

 まず女性として見れないって。お前なんて。

 はっきり言わないが、態度と口調で十分にそう言いたいことは伝わってくる。

 そんなこと、警官として仕事をするにあたって必要ない判断材料ではないかと思う。

 そもそも私は自分で自分を可愛いとか男受けがいい方だなんて感じたことは一度たりともない。思ったことすらない。それでも、実際にあの男は毎日家を訪れ、私とのふれあいを懇願しているのだ。

 今の私の風体しか知らない新米の警官からすればにわかに信じ難いかもしれないが、1年前は今より痩せていた。肌の血色も良かっただろうし、人並みに見た目にも気を配っていたし、もちろんメイクだってしていた。髪もきちんとセットする方だったし、艶やかで長い髪は唯一自慢できるものだった。

 今よりは

 今より少しは可愛かったんじゃないかと思う。

 いや、何を熱く語っているんだ。私は。

 

 ドン ドン ドン


 ドン ドン ドン ドン


 ねえ 聞いてる?

 どうしてお店辞めちゃったの?


 3時を過ぎた。いつものペースならあと1時間半程でこの男はガラス戸を叩かなくなる。

 そうしたら、ようやく寝れるのだ。

 もうこの音に耳を塞ぐこともしなくなった。

 警察に頻繁に足を運ぶようになり、目に見えて近所の住人の私を見る目が変わった。

 まともじゃない

 そういう声があちこちから聞こえてくる。

 また、兄の機嫌が悪くなった。

 もう警察には行くなと言われた。いもしないストーカーのことで公共の機関に迷惑をかけるなと。みんな忙しいんだと。

 どういうことだ。私は今無防備に裏庭に出ようもんなら、この男に殺されてしまうかもしれないというのに。

 

 ドン ドン ドン

 

 この音。


 ドン ドン ドン


 ねえ 聞いてる?

 どうしてお店辞めちゃったの?

 もう一度会いたいんだよ


 この声の感じも。


 すべて現実だというのに。

 どうして誰も信じてくれないんだ。


 母と兄が話している声が聞こえてきた。

 かすみをなんとかしなければ、自分たちまでこの家に居られなくなる。

 と兄。

 でも、かすみが受け入れられるかどうか。

 と母。

 それでも受け入れてもらわなくちゃ。ちゃんと話して病院に行って診てもらおう。

 

 ドン ドン ドン


 統合失調症

 そう言われた気がする。

 それが私の診断名なのだそうだ。

 病院では、それはそれは丁寧に私が置かれている状況を聞いてくれた。私は今までにあったことを残さず話した。と思う。

 今まで話してきた人の中でも一番に私に理解を示してくれて、同情し、心配もしてくれた。名前は忘れたがあのカウンセラーだか看護師だかの女の人。あの人は唯一好感が持てた。

 まあそれが仕事なのだろうが。

 薬が処方された。

 良く眠れるのだと言う。

 だから。

 そうじゃない。

 分かっていない。

 眠ってはいけないのだ。

 あの男の存在を誰も信用していない状況で、私が眠ってしまっては命取りだ。母に薬は飲んだかと聞かれるが、飲んだと嘘をついて飲んでいない。

 結局、自分の身は自分で守るしかない。

 

 ドン ドン ドン


 ねえ。

 僕はね。


 ドン ドン ドン


 君に笑いかけてもらって嬉しかった。大丈夫ですよと言ってもらえて救われたんだ。


 あの日、僕は死ぬ気だったんだ。


 突然、男は話を始めた。

 どうしたと言うのだ。 いずれにしても、今日は非常にうるさい。

 それに大丈夫ですよなんて言ったのか私。

 笑いはしていただろうが、いちいち何を話したかなんて覚えていない。

 死ぬ気だったのを救ったなんて。そんな物騒な都合に巻き込まないでほしい。


 仕事で結構大きいミスをしてしまって。かなり落ち込んでいた。

 親しくしていた友人を亡くしたばかりで気分が落ち込んでいたのもあって。

 いや、今思えばバカだったと思う。

 どうやったら楽に死ねるかをずっと考えていた。

 それで、練炭自殺が一番楽かもなって思って。

 あの日、あの店にガムテープを買いに行ったんだ。


 ガムテープ

 ああ、覚えている。

 店にある在庫分も全て購入したのだ。この男は。

 それで気になって

 なにか直すのかと私から質問した。

 今思えば、あの大量のガムテープは家中を目張りするためのガムテープだったのか。

 

 「あの、もしかして何か直したりするんですか?」

 「え?」

 「あ、いえ。ごめんなさい。こんな量のガムテープを買って領収はいらないなんて、個人的に

使うものならなにか直したりするのに使うのかなって思って」

 「ああ、いや。直さないよ。むしろ、これで終わりにしようって思って」

 「終わりに?・・・そうですか。じゃあこれで最後なんですね、お買い物」

 「ああ、終わったよ」

 「うちのお店にあって良かったです」

 「ガムテープが?」

 「はい。お客様が探していたものがうちで全部揃ったんですよね。なんだか嬉しいです」

 「・・・・」

 「あ、ごめんなさい。話し過ぎてしまいました」

 「いや、いいんだよ。それより、こんな大量のガムテープ、迷惑だよね」

 「いいえ、箱売りの分もちゃんとバーコードついてますから。

 

 大丈夫ですよ」


 ああ、言った。

 しかもとびきりの笑顔で。

 思い返せば、ゾッとするやりとりだ。


 君と話ができて。僕はすっかり死ぬ気を無くしてしまって。

 あの日のガムテープはまだ家にあるんだよ。

 二人の記念だからね。僕らが出会ったあの日の記念。なんだか使う気になれなくてさ。

 

 声がいつもの位置から下に移動した。

 ガラス戸の前に座って話しているようだ。


 いやいや。あれは特別な応対ではなく、あの店の店員はああ言う応対をするように教わっているのだ。

 死ぬ気が無くなったとは。大袈裟な物言いだ。

 二人の記念?

 私も人の事を言えたものでは無いと分かっているが、この男は常軌を逸している。

 

 それから、僕の人生は君だけに捧げると決めた。

 店にも毎日通った。

 君がバイト終わりに危ない目に合わない様に、家に着くまでずっと見守っていたんだよ。 

 こうやって家に押しかけてきていることについては謝るよ。驚かせちゃったよね。でもね、僕は君を見たいんだ。見なきゃ生きていけないんだよ。今も、こうやってガラス一枚隔てた先に君が居ると思うと、それだけで興奮してくるんだよ。

 この前はカーテンが開いていて、念願だった君の寝顔を、寝姿を見る事ができた。あれは最高の夜だったよ。


 気持ちが悪い。

 見守っていたのではなくて単に付き纏いではないか。物は言い様だ。

 寝姿を見られていたことは、ちょっと忘れていたのに。また思い出した。

 気持ちが悪い。

 それもそのはずだ。

 分かっているのだ。

 もう終わりにしよう。


 これは全部


 妄想なんだから。

 自分にとって気持ち悪いポイントを押さえた、良くできた妄想なのだ。この男の存在は。

 皆からそう言われて私も薄々気づいていた。

 ガラス戸の先に男はいない。男の話も私が無意識に頭で考えたストーリーに他ならない。よくよく考えてみたら、今まで述べてきた事も、細かい部分の辻褄は合っていない。つまり、一割の記憶を使って残りの九割を補完してストーリーが成り立っているのだろう。


 ならば。

 例えば、殺したって構わないんじゃないか?

 むしろ、妄想だとしたら。脳が見せている幻覚幻聴だとしたら。存在を殺めてしまう事で脳もちゃんと理解できるのではないか。

 だったら。

 殺さねばならない。


 魔が刺すとはこう言うことなのだろう。

 ふと思ってしまったら気持ちはどんどん高揚していった。

 殺してみたい。

 実態のないキャラクターを殺すのはなんの罪にも問われないだろう。

 そして、存在を脳から抹消できれば、また以前の様にはつらつとした日々を過ごせるのではないか。

 そうに違いない。

 殺してしまおう。


 ドン ドン ドン


 私は部屋を出て廊下の奥の物置から工具箱を取り出した。そしてまだ新しいハンマーを手に取った。

 兄がこだわって買ったハンマーで、釘を打ち付ける時は重さが大事なのだとそれっぽい事を言って買った物だ。ずっしりとした重さがある。結局兄はハンマーを買ったらDIYに飽きてしまい、1〜2回使ってここにしまい込んだのだ。

 勝手口から裏庭に出た。

 妄想なのだから、おそらく男の姿はないと思う。

 まあ、ハンマーを片手に持っている私がいうのもおかしな話だが。

 私の部屋のガラス戸に近づくと、ガラス戸の前で座っている男を確認した。

 月明かりで衣服の感じや顔もはっきりと分かる。

 ほう。脳とはよくできたものなのだと思う。こんなにくっきりとした存在ならそりゃ本物だと思ってしまう。

 騙されるものか。

 この身勝手な脳の勘違いのせいで、私は全てを失いかけているのだ。

 男はまだ私が近づいている事に気づいていない。

 右手に持ったハンマーは腕を背中に回して隠した。

 「あの・・・」

 声をかけた私に驚いて男がこちらに振り向いて立ち上がった。

 「か・・・かすみちゃん。やっと来てくれたんだね。嬉しいよ」

 「いえ、あの。

 本当にいるんですね」

 「え?本当にいる?

 そうだよ。僕はずっとここにいるんだよ。今もかすみちゃんの目の前にいるよ」

 「触っても・・・いいですか」

 「ああ、もちろん、いいよ」

 私は左手で男の右頬に触れた。

 短い髭が生えている。

 少しベタついた肌で生温かい。

 なんとも

 気色が悪い。

 「かすみちゃんが・・・僕に触っている。ああ、今死んでも悔いはないよ。かすみち」

 ゃんと男が言い切る前に右手のハンマーを男の左こめかみ付近に打ち付けた。

 かなり力を込めた。

 男はふぅとかうぅみたいな声を出してよろけた。

 その拍子に左の膝が曲がってバランスを崩した。

 男は両膝をつく格好になった。

 男の頭部が私のお腹の辺りにある。

 今だと思いハンマーを両手で持ち男の頭部めがけて思い切り振り下ろした。

 頭部にハンマーが当たって少し跳ね返りを感じる。

 腕や手に振動がダイレクトに伝わって痛い。

 2回目に振り下ろした時には余り跳ね返りは感じなかった。突き刺さる感じと何かが削れるような感じだった。

 今のは釘抜きの方が頭に刺さったのだと思った。手元は良く見えないのだ。


 それから数十回ハンマーを振り下ろし続けた。


 さすがにもう男は動かない。

 やっと。

 やっと終わったのだ。


 私はハンマーを動かなくなった男の横に投げ捨て、勝手口から家に入り、自分の部屋に戻った。

 これで静かに眠れる。

 男はもう現れない。

 思い知ったか。

 私の脳よ。

 あの男は死んだのだ。殺した。私がこの手で。だからもう分かってくれ。私の脳よ。

 ベッドに仰向けになり額に右手の甲を乗せた。汗をかいている。息も上がっている。

 ハンマーの振り下ろしはかなりの体力を消耗させた。

 目を閉じる。疲れた。でもどこか達成感とか爽快感に似たものを感じている。

 気分がいい。


 良く眠れそうだ。

 


 ドン ドン ドン

  

 ん?


 ドン ドン ドン


 またガラス戸を叩かれているのか。


 ドン ドン ドン


 おい、かすみ


 いや違う。

 叩かれているのは私の部屋の扉だ。

 声もあの男の声ではなく、兄の声だ。

 目を開けてみると、もう朝になっていた。

 すごく穏やかな気持ちだ。


 「かすみ、入るぞ」

 兄は私の返事を待たずに部屋の扉を開けた。

 私は起き上がらずに兄に聞いた。

 「なに、お兄ちゃん」

 「・・・お前、その・・・」

 「ん?」

 「や・・・や・・・


 やったのか」


 あの男のことか?


 「うん、やったよ。やっとゆっくり眠れたよ

 脳がね。やっと分かってくれたみたいで」

 「あ・・・あぁ・・・かすみ・・・悪かった」

 「え?なに?どうしたの?」

 「・・・・」

 兄は私の部屋に入ってガラス戸のカーテンに手をかけた。

 兄は泣いているのか怯えているのか。肩が小刻みに震えている。

 カーテンを開けると一気に部屋の光量が上がり、目からの刺激がズキンと痛みに変わって、咄嗟に目を閉じた。

 ゆっくり目を開けると裏庭に


 男の死体があった。


 「え?」


 いや、妄想だ。

 妄想なのだ、あの男は。

 私は・・・

 妄想であるはずだ。

 いや、妄想だったのだ。

 妄想?

 私は・・・

 妄想ってなんだ?

 現実は

 妄想なのか。

 私は・・・

 妄想が

 現実なのか。

 私は・・・

 どこからが

 妄想で

 私は・・・

 どこまでが

 妄想なのか。

 私は・・・




 妄想




 私は・・・




 現実




 私は・・・





 どっちの私だ




 私は・・・







         



        







私はかすみ















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毎夜ガラス戸を叩く男も怖いけど、体重が20kg増えたかすみがハンマー持ってる姿は想像するともっと怖い……。
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