86話 忙しさは極まれり
明海十三年 3月30日 高須賀 某病院 控室
「相坂さん、お子さんが生まれましたよ」
産婆……もとい女の助産師が声を掛けて来る。
「愛奈の方は?」
「安心してください。大丈夫ですよ。確かに女性としては小柄な方ですが、今回は安産でした。それに、陣痛から生まれるまでの時間としては、私の経験から短い方だったとも思います」
「そうですか……」
自分は相槌と共に、安堵の息を漏らす。
「まあ、後は奥さんの方に行って、労ってみては?お子さんの方も、助産師が付いていますし、心配は無いかと。無事に生まれましたので、色々と準備があります。そちらの方も追々説明いたしますが、とりあえずは、出産を喜ばれては?」
「お気遣いありがとうございます」
「奥さんは産後疲れから数日入院してもらう予定ですので、その病室に行ってください。部屋番号は……」
こうして、愛奈が休む病室へと向かった。
某病院 病室
「ア……、慎太郎サン……」
病室には、いつものような朗らかな様子ではなく、弱弱しい雰囲気を漂わせた、
「愛奈、大丈夫か?」
「少し、大変でしたガ、問題はナイデス」
「そうか……」
「慎太郎サンは、イロイロな手続きをお願いシマス。名前のコトはまた後デ……。今ハ少し、休ませてクダサイ……」
「分かった。じゃあ、ゆっくりと」
「ありがとうゴザイマス……」
愛奈はそう言って、薄目がちに開けていた目を閉じ、そのまま寝息とともに眠りに堕ちて行った。
「では、相坂さん、手続きの方を先にするということで?」
傍に居た助産師がそう言って、声を掛けてきた。
「ええ、お願いします」
「では、書類の方はこちらである程度は用意していますので」
「お手数をお掛けします」
「いえ、この病院ではこれが普通ですので。なにせ軍関係者が多く、場所や時期によっては役所が出産や引っ越し、殉職やらでてんてこ舞いに成りますので、病院で出生届や死亡届の手続きができる病院が少なくないんですよ」
そんなことがありながらも、無事に先に出せる書類などを片し、その日を終えた。
翌日 病室
「愛奈、体調は良くなったか?」
「快調と言う訳ではアリマセンが、昨日に比べるト、大分良くなりマシタ」
愛奈は昨日生まれたばかりの娘を抱きかかえながら、微笑みを返した。
「今話すのは大丈夫かい?」
「ハイ……。コノ子の名前のコトデスネ?」
「ああ」
昨日の今日のことだから、愛奈も察してくれたらしい。
「まず、どちらが主体となって考えるか、だけど……」
「私ハ、慎太郎サンに決めて欲しいト思いマス」
「自分が?」
「長子ハ、家長が決めた方が良いトキキマス」
「自分は別に、本家の人間ではないから、そういうことは気にしないけど……」
「シカシ、新聞に載るマデになった人ナラ、そう言う訳ニハ……。……ソレニ、恥ずかしながら、私はアマリ、浜綴人の名前に疎いノデ、ソウイウコトを踏まえても、私ハ慎太郎サンに決めて欲しいと思ってイマス。……駄目でショウカ……?」
「駄目って訳ではないけど……」
話には、大成帝国の本土では今、女性人権運動やら、女性の主導権がどうのこうのと言う話が盛り上がっていると、新聞で見たことがある。
そのことに加え、家の階級と言うか、そのことも考えると、愛奈の方が優先することを気にしそうなものだが。
そのことを話すと、「コノ国ニハ、『郷にいては郷に従え』という諺がアリマス」と、さして気にしていないようでもあった。
また、早くから浜綴に居り続け、ここの文化の方が馴染んでいる、とも言っていたが。
「モシ、気になるのナラ、次子についてハ、私が名付けてモイイデスカ?今回は、次子の為に、参考にさせてモライマス……」
言ったときにほんの少し、愛奈が頬を染めたのは、次子の為の子作りのことでも考えていたのだろうか。
「分かった。ええと……」
そのような下世話な考えを止め、名付け本を開く。
「うぅむ……」
乱雑に本を開き、目に留まった名を見る。
「凪」……か……。
なぜかこの名前が目に留まった。
「凪」、海風と陸風が入れ替わる時の海辺の穏やかな状態、又はその時間。
自分は元々田舎の農家生まれで、そして愛奈は海外から親に連れられて来た。
そして何の因果か、海辺の街で出会い、互いに喧嘩の一つもなく、いつの間にか夫婦の関係となっている。
互いに不満が無い訳ではないが、その都度話し合いや譲り合いで折り合いを付けて来た。
自分の人生で、最も穏やかな関係だろう。
家族や倉田との間でも、小さくとも喧嘩の一つはしたことはあるし、彼らと同等以上の関係で喧嘩をしたことがあるのは愛奈、彼女だけだろう。
彼女との家庭で、この穏やかな空気を続けて行きたい。
この文字を見たとき、そう頭にその考えが巡った。
「ええ、良い響きだと思いマス」
今この瞬間、相坂家の長子にして長女の名前が、「凪」に決まった。
同年 4月15日 戸部県立高須賀高等女学校 校門
「結局、ここで働くのハ、一年ダケになってしまいマシタネ……」
子育てのこともあり、愛奈は働くことも辞めてしまった。
「……」
自分は何も言えず、凪を抱く愛奈の方を見るしか出来ない。
しかし、愛奈の国籍が浜綴に移ったことにより、「外国人枠」として雇うのも疑わしいということもあり、この結果はある意味当然とも言えた。
「どうしようか……」
暫しの無言が堪らず、愛奈に曖昧な質問を投げかけてしまう。
「暫くは子育てに専念するノデ、慎太郎サンはアマリ深刻に考えなくても大丈夫デスヨ?」
少し寂し気ながらも、安心感を与えようとするその目で何も言えなくなってしまう。
それを更に察したのか、愛奈は続けた。
「イツカ、ずっと一緒に居れるような職業に成れると良いデスネ」
「こんな職だから、迷惑や心配を掛けてしまっているな……。すまない」
「謝らないでクダサイ。そんな貴方が大好きで、結婚したんデスカラ。そこまで卑下しないでクダサイ」
本当は大変なのに、そこまで気を遣わせている。
新聞などでは時たま戦果の多さを取り上げられる自分だが、女の一人も大きな苦労と心配を掛けてしまっている。
いつか、楽をさせてやりたいと、そう心に誓うのであった。
同年 5月 相坂家
「なんだ、家にまで呼んで」
そう言うのは倉田栄治である。
「いや、何、私事だからな。それに前に子育てに困ったら呼べって」
「確かに言ったが……」
「うちの子は早生まれでな、しなければならないことが短い時間に沢山あるからな。流石に第一子で全て助けもなくやり切れるとは思わなかったんだ。情けないことだが……」
「まあ、仕方ないさ。うちの初めての方も、実家の支援があって初めて上手くいったようなもんだもんな」
「うちの実家は近くに無いから、頼めるのはお前くらいしかいないんだよ。流石に上官に頼むのは忍びないし、部下には頼めるような事柄でもないからな」
「確かに」
「それに、去年生まれた……」
「明枝だな。うちのところの次女の名は」
「そう、その子もうちの子と同じ学年になるらしいから、やっぱり、そういうところで連携がとれていたら互いに助け合うことが出来ると思って。まあこちらが助けられることの方が多いと思うが」
「それはいい。誰でも初めてはあるし、そこで困ることもあるもんだ。それに俺は、出産には立ち会えなかったから、事実上初めてみたいなもんだ。気にするな」
「有り難いな」
「いいってことよ」
「しかし、勝手に引き受けて良いのか、そっちの奥に話は……?」
「先にしてある。良いってよ」
「本当、何から何まで助かるな」
「お前がいなけりゃ俺も居る意味は無いんだ。これくらいなんてこともない」
こうして、忙しい子育ても、倉田家の助けもあり、なんとか大きな失敗無く、育てることが出来たのであった。
しかしながら、忙しいことに変わりはなかったが。
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