オルキデ男爵
『こいつか……』
薄暗い部屋の中、朧気な光を放つ水晶玉に、アンドロマリウス家の猫執事ニャトラーと男の姿が映っていた。
久しぶりにニャトラーから連絡があったかと思えば、このような何処の馬の骨ともわからぬ輩に、なぜアンドロマリウス様は伝承スキルを……。
聞けば異界の魔王だというが、とてもそんな風には見えぬではないか。
『むむむ……おのれ忌々しい……』
クッションを抱きかかえながら、水晶を覗き込む。
なぜ、こんなカスみたいな男が、私のアンドロマリウス様を憑魔できるのだ……。
『ぐおおおおーーーーーーーーっ!』
――バリバリバリィッ!
クッションが裂け、中の羽が宙を舞う。
『あぁっ⁉ このクッション気に入ってたのに……』
クソッ……! これも全部、このカスのせいだっ!
と、水晶を睨み付ける。
ん? そういえば、この家に人が訪ねてきたのは……いつ以来だったか?
思えば、先代の時代は、訪問客も引っ切りなしで、夜ごとに宴を開いていたな……。
私は壁に貼ったアンドロマリウス様の肖像画に向かって、祈るように両手を組んだ。
『アンドロマリウス様……』
――麗しき我が主君。
あの深淵の闇にも似た漆黒の黒髪、たわーんと実った二房のエデンの果実(見た事はない)……。
史上最年少でSMN72入りされた、他家のアホ共も認める一輪の華の如きオーラ!
ああ、全てが、狂おしいほどに愛おしい……!
『はぁ……来世も余裕で推せるし』
それなのに……、それなのに私は、ついにアンドロマリウス様を憑魔することが出来なかった。
高位の悪魔であればあるほど実体に縛られず、より、高次元の存在となる。
例外はあるが、72家の当主達は、そのとてつもない力を振るうために、器となる臣下を持つ。
そして、その器たる役目を担うべき私が……不甲斐ないばかりに。
肖像画に頬を当て、主君に許しを請う。
一人去り、二人去り、今ではこの屋敷に残ったのは私だけ。
アンドロマリウス様も気付いておいでだとは思うが、最早、誤魔化すのも限界に近い……。
『はぁ……』
小さく頭を振り、水晶に目を戻すと、男が玄関で突っ立っていた。
クッ、おのれ異界の魔王め……私のお嬢様を誑かしおって!
貴様なんぞに、伝承スキルを渡してなるものか!
『……よく来たな、異界の者よ』
魔法で声を変え、水晶を通して話しかける。
男がビクッと身体を震わせた。
この男、大丈夫か? こんなことでビクビクしおってからに……。
さて、どうするか。
とりあえず、洗い物が溜まっておったな……。
そうだ、こいつにやらせるか。
『クックック……愚かな。我に会いたくば、そのまま真っ直ぐに進め』
見ると、男は階段を上ろうとしていた。
チッ、馬鹿かこいつは……。さっきまで右を向いていただろうに。
『馬鹿もん! そっちではない! 右だ右!』
「真っ直ぐって言ったのに……」
男がボソッと呟く。
聞こえておるぞ、何と器の小さい男だ。
『何か言ったか?』
と、私が凄むと大人しく応接間に進んだ。
*
私は足でゴロゴロと水晶玉を転がしながら、男の様子を監視する。
よぅーし、洗い物をさせ、厨房も掃除をさせた。
意外と手慣れている感じがするが、どうでもいい。
さっさと追い返してやろうと思ったが……流石に私もそこまで鬼じゃない。
一度だけ、このカスにチャンスをくれてやろう……。
『では……そこを出て、応接間に戻れ』
さて、結論は変わらんだろうが……。
私は鏡台の前に座り、紅を引いた。
ピンク色の髪をブラシで梳かした後、クローゼットから黒を基調とした軍服ワンピースを選ぶ。
『これを着るのは何年ぶりだろうか……』
姿見の前で、戦闘準備の整った自分を映し見た。
『ふむ……悪くない』
軍帽を胸の前に当て、肖像画の主君に黙礼を捧げた後、私は応接間に向かった。
*
応接間に入った俺は自分の目を疑った。
「お、女の子……?」
目の前のソファに長い足を組んで座っていたのは、小柄で目元の鋭い、ピンク色のショートボブの少女。
軍帽を被り、臙脂色のネクタイが付いた黒い軍服ワンピースを纏っている。
てっきり、ゴリラみたいなのが出てくると思ったが……。
『お前が異界の魔王か』
キュッと目尻の上がった、猫のような碧眼で俺を見る。
さっきまでの野太い声とは違う、澄んだ美しい声だった。
「俺は魔王なんかじゃない」
『……お前が誰であれ、異界の者には変わりあるまい』
「それはそうだけど……」
『座れ、カス』
「ちょ……ま、まあいいけどさ」
俺はオルキデの真正面のソファに腰を下ろした。
『さて、茶でも出したいところだが……生憎、皆出払っていてな』
そう言って、オルキデは冷たい目を向ける。
「お構いなく。それより……俺が来た理由はわかるよね?」
『伝承スキルか、まぁ、仕方ないな、大事に使ってくれよ……って、承諾するわけがないだろうが! このカスッ! 異界人如きが身の程を知れ! ふざけんな、カス! カース!』
オルキデが飛沫を飛ばしながら、これでもかと罵ってくる。
だが、見た目が幼く見えるせいか、ちっとも腹は立たなかった。
「それについては……何も言えない。俺が違う世界の住人であることは事実だし」
『ならば、お前もわかっているだろう? 最初から話し合う余地など無いのだっ! はい、交渉決裂の介!』
オルキデが席を立ち、おもむろに軍服のスカートの埃を払った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
『何ぞ?』
オルキデはソファに座る俺をジトッと見下ろす。
「見たところ、この家には従者がいないようだけど……?」
そう訊ねると、オルキデが顔を真っ赤にして喚き始めた。
『きぃぃやぁぁぁーーーーっ! カスのくせにぃーーーっ! あ゛ぅー、いいだろうとも! この際だ、教えてやる! このオルキデ家に残ったのは、もう私一人、戦える者、有能な者は既に他家に引き抜かれて行った! アンドロマリウス様もさぞお嘆きであろう! 器たるこの私の無能さになぁ! これで満足か! き、貴様には血も涙もないのか、カスぅ……ううっ』
オルキデはヨロヨロと、もう一度ソファに身を投げ出すようにして座った。
スカートがめくれ上がり、白い太ももが露わになった。
そして突然、ジタバタと足をばたつかせ、癇癪を起こした子供みたいに叫ぶ。
『う、うぅ……、うわぁぁあああ!!! いあ! いあ! 深淵の神は不公平だぁーっ! なぜ、私じゃなく、こんなカスがお嬢様を……うぅ……うわーーーーん!! ひどいよーー!』
オルキデが、嗚咽に肩を震わせながら泣き始めた。
『うぅ、ひっく、す、全ては私のせい……。うぅ、ぜ、ぜきにんは取る、お゛嬢様でぃは……ぞう伝えろ、カス……』
ちょ、そんな泣きじゃくってまでカス呼ばわりかよ……。
でも、何だか、可哀想になってきたな。
「すまん、ちょっと聞きたいんだが……器ってことはオルキデさんも憑魔が出来るってこと?」
オルキデは何を今更と、俺の顔を見る。
ハンカチで涙を拭い、ちーんと鼻をかんだ後、深呼吸をした。
『当たり前だ! このカス!』と、前置いて続けた。
『先代とは憑魔をして、毎日のように狩りに行っていた。だが……、なぜか私には、お嬢様を憑魔させる事が出来なかった。他の家臣達もだ……。こんなにも、あの方への愛が溢れているというのに……、私の器としての力が足りぬのであろうな』
ソファの上で体育座りになり、唇を尖らせるオルキデ。
どういうことだ……憑魔術とは俺の固有スキルではなかったのか?
もしかして、悪魔は皆使えるのか?




