ポータル
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
俺はデスクを片付けた後、オフィスを出た。
エレベーター前の通路で石井さんに会う。
「あら、お疲れー。あ、瀬名くん、その……あんまり気にしない方がいいわよ」
「え、何をですか?」
「何って……、いや、何でもないわ、じゃ、お疲れ」
小さく手を振りながら、石井さんはオフィスに戻っていった。
「お疲れさま……です」
エレベーターに乗っていると、さっきのシーンが頼んでも無いのに、何度も何度も頭の中で繰り返し流れた。
頭の奥が痺れてくる。
冷や汗が滲み、気を紛らわそうと取りだしたスマホの画面を見る目も定まらない。
駄目だ、何も考えるな、海馬破裂しろ。
忘れろ、全部忘れてしまえばいい。
頭の中で数字を数えたり、昨日の夕飯を思い出しながら早足でビルを出る。
何を見るわけでもなく、スマホのアイコンが並ぶ画面を、親指で行ったり来たりさせながら俺は駅に向かって歩いた。
「はぁ……」
こういう時、誰かに相談できる性格なら、少しは俺の人生もマシになったのだろうか……。
親もいない、友人もいない、普通に話をする知り合いはいるが、向こうから連絡が来る事はない。恋人なんて夢のまた夢だ。
そもそも、人付き合いが苦痛だと感じる低スペック男に、誰が魅力を感じるというのか?
もし、俺が女だったとしても、生涯の伴侶に俺を選ぶなんて……、うん、やっぱりあり得ないな。
今更、人生に期待はしていない。
だが、今の人生に悔いが無いかと言えば……強がりになる。
そりゃあ、俺だって生まれ変われるもんなら、誰もが羨むような人生を送ってみたい。
覚醒者……か。
「ふ、子供じゃあるまいし……」
自分で考えておいて、少し馬鹿馬鹿しくなった。
もっと現実を見ないと……このままじゃ老後も大――――
「え……⁉」
――その時だった。
突然、ふわっとした浮遊感に包まれた。
次の瞬間、大気が揺れ、全身に爆音が浴びせられた!
「なっ……⁉」
思わず目が眩む程の音圧、音で気が飛びそうになるなんて初めてだった。
どうにか持ちこたえ、ふと前に目を向けて言葉を失う。
いつもの見慣れた商業ビルが崩れたのだ。
砂煙と石が混ざった突風が吹く。
慌てて停車していたトラックの陰に隠れた。
飛んで来た石がボンネットや車体に当たって、派手な音を立てる。
遠くから誰かの悲鳴や叫び声が聞こえてくる。
「な、なんだ……⁉ 何が起こってる?」
トラックの陰から崩れたビルの方を覗くと、そこには見たこともない巨大な『黒い穴』が開いていた。
「あれは……?」
同じ車の陰に隠れていたスーツ姿の男性が震えながら言った。
「……ポ……ポータルだ……」
「ポータル……」
あれが……ダンジョン・ポータルなのか。
信号機と同じくらいの高さがある『半円状の黒い空間』がそこにあった。
「に、逃げないと……」
男性がバッグを抱えて、逆方向へ走り出した。
俺も後を追おうとするが、T字路に差し掛かったところで男の首が飛んだ。
「ひっ……⁉」
な……なんだ⁉ どうなってる?
まるでB級ホラーだ。
噴水のように血を吹き上げた男性の身体が横に倒れた。
その後、曲がり角の死角から姿を見せたのは、全身が緑色の巨人だった。
少なくとも二メートル以上はある。
「な、何だよ、あれ……」
二本の腕がある、二本の足がある、二つの眼、鼻と口が付いた顔がある。
基本構造は人間と同じだ。
だがあれは、人の形はしているが、決して人では無い何か――。
口から突き出した牙、金色に輝く瞳孔、禍々しく尖った黒い爪。
異常に発達した筋肉に覆われた巨躯は、圧倒的な存在感を放っている。
「あ……」
それは俺を見た。
自分ではどうしようもないほど膝が笑い、立っていられなくなった。
その場にへたり込み、気付くと俺は泣いていた。
巨人が近づくにつれ、鼻を突く凄まじい獣臭が恐怖心を煽る。
俺は必死に助けを求めようとした。
だが、もう声さえ出せないほど、恐怖に打ちのめされていた。
「はっ……あが……」
巨人に身体を掴まれ、真上に放り投げられた。
いとも簡単に宙に浮く――。
次の瞬間、アスファルトに叩き付けられ、目の奥に黄色い火花が散った。
口の中に血の味が広がる。
不思議と痛みは感じなかったが、体中の皮膚が引っ張られるような感覚があった。
「ぐ……がはっ!」
生まれて初めて吐血した。
凄い、こんなに鮮明な赤なのか……。
「ゲホッ! ゴホッ……!」
――下半身が動かない。
自分の血で噎せながら、俺はアスファルトに頬を付けたまま、近づいてくる大きな足を見た。
何だったんだ、俺の人生って。
頭ではわかってる、人生は自分が選んだ選択の積み重ねでしかないことを。
そう思って、色々と挑戦したこともあった。
きっとまだ見つけていない、俺だけの才能や特技、特別な『何か』があるんだと信じていた。
だが、その『何か』に辿り着く前に、俺の心の方が持たなかった。
結局、何者にもなれなかった。
いや、何者かになるのを……諦めたのだ。
もう、巨人の足は目の前にある。
段々と視界が狭くなってきた。
足が上がった。
このまま踏み殺されるのだろうか?
圧死は嫌だな……。
でも、病気で苦しみながら孤独死するよりはマシか……。
そんなことを考えていると、目の前が真っ暗になった。
……。
……これが死――か?
何も聞こえないし、何も見えない。
そうか……、死後の世界なんて存在しないのか。
残念なような、ホッとしたような……。
もしかしたら、アニメや漫画みたいに異世界転生なんて、考えてみたりしたこともあったけど……、ま、現実なんてこんなもんだよな。
そう思った瞬間、俺の奥で火花が散るように何かが弾けた!
熱い! 全身の毛細血管が焼き切れそうだ!
が……こ、こめかみが……破裂しそうに……ぐっ……。
「あがっ……ぐあぁあああーーーーーっ!!!!」
次の瞬間、閃光が迸るような強烈なエネルギーが体内を駆け巡った――。