No.01「小さなオリオン」
東京の地下には巨大迷宮を彷彿させるスケールの下水道が完備されている。
900万人にも及ぶ人口の生活排水が排水溝を下って流され、雨が降った際には道路が冠水しないように大量の雨水が放流される地下空間には、異なる次元の世界を思わせるような異質さがあった。
そして、そんな非現実な趣の下水道の通路を、俺は一人で歩いてる。
「ハァ……ハァ……出口はどこだよ……」
こんな目に遭うだなんて……30分前までには思わなかった。
クリスマスも間近に控えた12月20日……つまりは今日……贔屓にしている駆け出し声優のこじんまりしたイベントに出席する予定だった俺だったが、こんな日に限って電車の中で女の子が痴漢に遭っている現場に出くわしてしまった。
女の子は、スーツを着た小太りの中年に背後からお尻を撫でられてしまっていた。誰がどう見ても事案だ。
こんな時、いつもの俺だったら見て見ぬフリをしていたのかもしれない、でも今日は声優の「みまさか花音」の元へ向かっている真っ最中だったコトが、その時の俺の行動パターンに新たなフローを構築させてしまったのだ。
「ちょ……ちょっと……何やってんスカ? 」
俺は恐る恐る痴漢野郎の背後に達、そいつの肩をグイっと引っ張りながらそう言った……
痴漢されている女の子の後ろ姿がひょっとしたら花音ちゃんかも? という憶測が生まれたことが、俺にそこまでの行動力を発揮させてくれたみたいだ……
つまりアレだ……モテない男が暇な時間に妄想する「助けた女の子が憧れのあの子で、それがキッカケで俺達付き合っちゃいました!」が現実として用意されたのかと思ったんだ……(けっきょくその子は花音ではなかったけど……)
「なんだぁ? 」
俺に肩を引っ張られた痴漢男は、全く臆することなく振り向きざまに俺を睨みつけてきた。正直痴漢なんてする輩は小心者で臆病なヤツだと決めつけていたところがあったので、この反応はちょっと予想外だった。
「は……あの……あ……あ………あなた……その子……痴漢……ちかん……」
男の凄みに圧倒されてしまった俺は、自分でも信じられないくらいに吃ってしまい、マトモな返事ができなかった。
「ああん!? 痴漢だァ!? 誰が痴漢なんだ? どういう意味なんだぁ!? オイ! 」
「あなた……その……お尻……その、お尻……お尻! 触ってた……」
「ハァ? 証拠はあんのか? あとで冤罪でした。じゃシャレにならねえんだぞ!? 」
怖い……痴漢男はぐいぐいと俺に詰め寄り、冤罪を主張し始めた……ヤバい、このままじゃ俺が言いがかりをつけたことになってしまう。
「ホントです! この人の言うとおりです! 」
しかし俺が困り果てている中、車両全域に響きわたるかのような大声が発せられた。その声の主は痴漢被害に遭っていた女の子で、彼女が涙目で言葉を続けた。
「このおじさん、さっきからずっと私のお尻を揉んでました! 痴漢です! この人は痴漢です!! 」
さすがに被害者本人に声を荒げられてしまっては、痴漢男も「う……! 」とうろたえるしかない。このまま駅員さんに取り押さえられてご用になるのか……
「う……うう……」
ちょうどこのタイミングで電車は駅に到着したようだ。ドアが開かれ、乗客各が下車する動きを見せた。これで女の子は救われ、悪人は裁かれる。
めでたしめでたし……そう思った矢先だった。
「てめえ……てめえのせいで……!! 」
「え……ええッ! 」
痴漢男は顔面に地図のように血管を浮き出させて怒りを露わにしている……その矛先が自分に向けられていることは言うまでもない。
「ただじゃおかねえ! グシャグシャにしてやる!! 」
「ご……ごめんなさぁぁぁぁーい!! 」
咄嗟に電車から走り降りた俺。その後を追う痴漢男。ホームを駆け、改札を飛び越え、駅から脱出してもまだ追いかけてくる!
ヤバい、このままじゃ……本当にグシャグシャにされてしまう!!
万年運動不足の走りでは、いずれ追いつかれると判断した俺は、建物と建物の間の路地へと逃げ込み、さらにちょうど工事中で開きっぱなしになったマンホールの中へと身を投じた。
そしてそのまま下水道の暗闇を走り続け、迷宮のように入り組んだ通路を行ったり来たり……そのまま迷子になってしまったってワケだ……
「ハァ……俺は悪いことなんてしてないのに……このままじゃ、花音ちゃんに会えず終いじゃないか……」
イベント開始まで、あと一時間もなかった。それどころかこのままでは下水道の迷路から脱出することすらままならない。
「やべえな……ホントやべえな……」
スマートフォンの頼りない灯りだけを頼りに通路を進んで行くが、一向に外に出られる気配がない……そんな焦りが脳に伝わり、不安な気持ちが具現化して目に映ったのかもしれない。
俺は“妙なモノ”を目にすることになった。
グジュ……チュルル……グシュ……
それは、何かの集合体だった。不気味だったが、怖いモノ見たさの好奇心も同時に芽生えていた。
俺はゆっくりと……その集合体を刺激しないよう、そっと足を運んで近寄っていく。
「や……や……やめろ……やめろって! 」
声がした!? その集合体からは、確かに人間の声がした。
しかし妙だ。その集合体は、小さな黒い毛玉ようなモノが無数に群れて大きめの座布団程度の大きさを作っているのだが……その中に人間が混じっているというのか?
「うおおおおッ!! 」
恐怖を感じていたのか、はたまたヤケクソの行動だったのかはわからない。ただ、俺は一心不乱に大声を出しながらその集合体の方へと向かっていく!
グジュウ! チュウ! チュグチュ!
必死さを感じさせる鳴き声を発しながら、集合体の元はあっという間に散っていく……どうやらその正体はドブネズミだったようだ……都会のネズミはデカイと聞いていたが、こうして間近で見るとその大きさでネズミとは判断できないほどだった。
「た……助かったぜ……」
ドブネズミが去っていき。再び下水道内の水が流れる音だけが支配したかと思ったその時、暗闇から俺に向けて誰かが話しかけてきた。やっぱり聞き間違いではなかった……ネズミに囲まれていたのは人間だったのか?
「いやーまいったよ。“こっちの環境”にはまだ慣れてなくてね……ホントやべえな……さっきのネズミどもは」
妙だ……その声は“地面”から聞こえてきている……? しかし、性質は大人の男を思わせるし……子供だとしても、その発声源はあまりにも“下”から聞こえてくる。考えられるのは、男が仰向けかうつ伏せに倒れているとしか思えない……しかし地面にはそんな気配は感じられない?
しかも……ちょっと待ってくれよ……それよりなにより……その声にはどこかで聞き覚えがあった……
というよりも……毎日聴いてるような気がしてならない声だ。
「よう“オリオン”! こうして会えるコトは、“統括の者”から聞かされて分かってるから驚かないぜ」
俺は心臓が裏表逆転してしまうんじゃないか? と思うほどの衝撃を受けた。
なぜなら“オリオン”とは、俺の名前である「折井星音」を略したあだ名なのだから……
「おいおい、まだ俺の姿が見えてねえのか? もっとスマホの灯りを足下に向けて見ろよ? 」
「え……足下……」
言われるがままに俺はスマホの光源を自分の足に向けて照らした。そして、暗闇を裂いて露わになった視界に現れた“信じられない”モノの姿に……
「うわああああッ!!!! 」と絶叫……喉から血の噴水がピュピューっと飛び出るかと思うほどに声帯を震動させた。
「そこまで驚くことねえだろ……」
その男は……“小さかった”のだ! まるでアニメグッズ専門店のガラスケースに陳列されたアクションフィギュアのように……小さい人間がそこにいた!
「うわあああ! あ! アアッ!!? 」
そして……驚くにはまだはやい……目の前に小人が立っているというコトすら二の次になってしまうほどのショックが、駄目押しに俺の平常心を揺さぶったのだ!
「嘘……! “俺”? 俺と同じ顔? 」
そう……そのちっちゃい男の姿は、毎朝鏡の前で向かい合う“自分自身”にそっくりだったのだ!
「落ち着けって! まぁ、無理もないか……自分そっくりのアクションフィギュアが突然道ばたに落ちてたら……そりゃあまぁ怖いわな」
「ええ? ええええッ!? ななな……なに? どういうこと? なんでこんな小っちゃい人間が……? 人形? ロボ? 幻覚? 錯覚? それとも俺がでっかくなってんの? どうなってんの!? 」
パニックになる俺を気にするそぶりなどなく、“ちっちゃい俺”は首をグイっと上に向けて俺に視線を向けて話を続けた。
「お前が驚いている通り、俺は“折井星音”。つまりはお前自身だ。ただし……異なる平行世界でのオリオンの一人ってこと」
「異なる……平行……!? 」
突然ラノベじみた言葉を発せられ、目の前の現実が妙に親しみを込められたモノとなり、少しだけ心が落ち着いたようだった。徐々に目の前にいる小さい自分の姿に慣れが生じてきた。
「そうだ。俺はワケあって色んな平行世界を回って、異なる世界での俺自身……つまりはオリオンを探し回ってる」
「え……ど……どうしてそんなSF映画みたいな自体に……? 」
「それを詳しく説明してやりたいところだが……、その前に一仕事せにゃならん事案が発生したみてえだ」
「事案? 」
「後ろを見ろ! 」
小さい自分に言われた通り、180度体を反転させて背後の様子を伺うと、そこにはいつの間にか大柄の男の影がこちらにゆっくり向かってきていることに気が付く。
「お前のせいで……お前のせいで……」
寝言のように虚ろな言葉でそう呟き続ける男は、ついさっき電車内で痴漢を働いていた中年男だった。俺がこの場にいる原因を作った男。
「こ……こんなところまで追ってきたのか!? 」
「お前のせい……おまえ……おま……おまま……!! 」
何か様子が変だ!? 男の呂律は急に回らなくなり、まるで喋り方を忘れてしまったかのように見えた。
「さがってな、この世界のオリオンちゃんよ……ヤツはもう人間じゃない……“棲処”だ! 」
「ぱ……棲処!? 」
「説明は後だ! 下がってろ! ホントやべえコトになるからよ! 」
小さい自分がそう言うと、痴漢男の体の表面に、突如縦一文字の切れ目が入った! そして……なんと……切れ目から男の体の内側にある肉がめくれ、まるで靴下の裏表を裏返すような変化で、まるっきり別の“何か”に変身してしまったのだ!
「ウブシュグラァァァァッ!! 」
痴漢男はあっというまに、ゼリーと泥の中間のような体を持った二足歩行のカエルを思わせる生物に変身してしまった……これが、ちいさい自分の言う棲処なのか?
「グルアアアアアッ! 」
棲処は迷いなく飛び上がって、粘液をまき散らしながら襲いかかってきた……! このままではひとたまりもない! 早く逃げなくちゃ!! 逃走しなくちゃ!
「フン! よく見とけオリオン! 」
しかし、ちいさい自分にとって、棲処は夜の自販機に張り付いた蛾のような存在だったのだろう……なんの焦りもなく、彼は棲処の粘体へと向かい、右拳を大きく振りかぶった!
「俺の身体が小さい理由! それは!! 」
次の瞬間……柔らかい物に衝撃を与えた時の「ビタッ! 」とした衝撃音と共に棲処はレーザービームを彷彿させるスピードで吹っ飛ぶ! そして下水道の奥……そのまた奥の壁に激突したようだった……暗闇でその姿は視認できなかったけど、おそらくそのまま息絶えたことだろう。
小さい自分が、なんの変哲もないパンチで棲処をグショグショにしてしまったのだ……
「俺の世界では……重力がこの世界の10倍あった。だからその分、それに耐えられるように身体が小さくなってるのさ……」
「つまり……こっちの重力の軽い世界ではその分力も10倍に……」
「ま、そういうこった」
ちいさい自分はそう言って右拳をさすり、棲処を吹き飛ばした実感を得ていたようだった……
そして今この時、俺はもう二度と花音ちゃんのイベントに参加できなくなってしまう、スケールの大きな運命に巻き込まれてしまったことを薄々感じ取っていた。
つづく
(お題)
1「オリオン」
2「棲処」
3「排水溝」
執筆時間【2時間】
いきなり制限時間オーバーですが、長編の一話ってコトで見逃して(;´∀`)




