右向け右
右に左に踊らされた経験ありますか?
木の葉散る音が聞こえ始めた秋の夕暮れ、西日の差しこむ職員室で斎藤陽一はひとり佇んでいた。職員室の窓からグラウンドを見下ろせばサッカー部が、もう何周目だろうか?、ランニングにいそしんでいる。突然鳴り響く笛の音に、一糸乱れぬ正確さで彼らはサイドステップを踏み始め、次の笛に合わせてランニングに戻る。
「まるでマスゲームだ。」
自嘲気味に呟く斎藤の手には、今春の新聞記事の切り抜きを張ったスクラッチブックがお守りのように握られていた。今でも宝物のように大事にしている。その新聞の地方欄にはこうあった。
[日の丸・君が代 強制反対の高校生 卒業式で起立拒否。貫き通した信念、支配からの卒業。]
歌謡曲の一節を抜き出したようなサブタイトルに、当時は気恥ずかしさが先に立ったが今となっては誇らしい。文中にはこうあった。
[桜薫る春、強制と支配から真の解放を得た、卒業生たちが次々と誇らしげに巣立っていった。]
斎藤の勤務する清風高校での出来事だった。
「卒業も近い君たちにひとつ学んで欲しいことがある。」
大学受験等の進路も決まった二月の教室、三年生たちに斎藤は話し始めた。この時期、進路が決まった三年生は殆ど登校せず、それを学校側も黙認していた。しかし斎藤は生徒から慕われており、持論を交えての講義は人気があり、この時期には珍しく半分以上の学生たちが斎藤から近代史の講義を受けていた。
斎藤の一言に教室はにわかにざわついた。また斎藤先生の持論が始まった。そんな期待感が教室を包んだ。
「歴史を学ぶ理由ってなんだ。」
問いかけた斎藤の目に数人の挙手が見えた。斎藤はその一人を指差した。その学生は淀みなく答えた。
「受験のためです。」
どっと教室が沸いた。斎藤の授業では珍しいことではない。この発言は斎藤の人柄と懐の深さを理解しているから出るものであり、授業光景はフランクなものだった。
「なるほど、この回答は僕の力不足からくるものだな。」
斎藤は苦笑しながら次の学生を指した。
「教養?っていうか一般常識を身に付ける為ですか?」
斎藤はなるほど、といったふうに頷いた。
「他にはないかな?」
斎藤が問いかけると、生徒たちは自分たちの回答に斎藤が求める答えがないことを悟った。
「・・・。出てこないか。うーん。」
生徒たちは斎藤の答えに期待した。斎藤はいつも持論を展開する際に、こういった質問をする。生徒の意見を聞いてそれを吟味した上で、自分の意見を述べるスタイルを貫いていた。それが人気の元でもあった。
「飽くまでも自分の考えなんだが、歴史を学ぶというよりも、歴史に学ぶというのが先生の考え方だ。」
予期せぬ回答に教室は静まり返ったままだった。斎藤は続けた。
「いくら科学が進歩しても、制度や法律が変わっても、社会を作っていくのは同じ人間だと思う。そして人間は同じ過ちを繰り返す。」
「だからこそ人間は歴史に学ぶべきなんだ。自分の先祖達が犯してしまった過ちを繰り返さないためにも。」
生徒たちはなるほどと頷いた。
「これから話す日本の近代史は特に重要だ。第二次世界大戦を知らないものはいないだろう。」
「日本人はこの戦争をいろいろな呼び方で呼ぶ。例えば・・・。」
すると静まっていた生徒たちが手を挙げ始めた。斎藤の指名を待たずに
「太平洋戦争。」
と誰かが答えた。
「他には?」
斎藤が問いかけると挙手は半分以下になった。斎藤はそれでも残った学生に発言を求めた。
「大東亜戦争ですか?」
その答えに斎藤は深く頷いた。
「この大東亜戦争という言葉は、戦争自体を讃美する良くない言葉だという人がいる。しかし先生はこの言葉こそ日本のした戦争の真実を伝える言葉だと思うんだ。」
斎藤は太平洋戦争と黒板に記した。
「この言葉を聞いて、日本はどこの国と戦ったと考える?」
またしても挙手が続いた。
「アメリカ。」
「イギリス。」
「オランダ。」
「旧ソ連。」
「ドイツ?・・・は味方か。」
次々と国の名前が挙がった。斎藤はそれをしばらく黙って聞いていた。発言と挙手がなくなるのを待ってから、斎藤は黒板に大東亜戦争と記した。生徒たちは無言のままだった。他に戦った国などあったか?そんな雰囲気が漂っていた。その空気を感じながら斎藤は重い口を開いた。
「中国とも戦争しているんだよ。いや中国に関しては侵略と言ったほうが良いかも知れない。中国の前には朝鮮半島、今で言う朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国も併合しているんだ。東アジア地区に侵出していたことを考えればこちらが正確にこの戦争を表していると言えるかもな。」
生徒たちは無言のままだった。
「その結果は多分君らも知っている通りだよ。一時期よく報道されていただろう、南京大虐殺や強制連行、従軍慰安婦の問題もこの戦争の中で行われたことだ。」
教室内に重い空気が流れた。無論生徒たちも知らないわけではなかった。ただ戦争した相手と言えばアメリカやイギリスのイメージが彼らにとっては強かった。敵わぬ強大な敵アメリカやイギリスに立ち向かったという誇らしげな歴史に対し、日本近代史に暗い影を落とす中国侵略と朝鮮半島の併合。日本人なら誰でもなんとなく目を背けたいテーマだった。
重い雰囲気を察しつつ斎藤は続けた。
「我々の先祖、君たちにしてみれば曾祖父母だ?昔の日本人は残酷で非情な人間しかいなかったのだろうか?誰一人他国を侵略して他国民の人権を蹂躙するのを咎めた人間はいなかったのだろうか?」
生徒たちは誰一人口を開こうとはしない。
「先生は当時の日本人全員が悪いとは決して思わない。一部の指導者や権力者が日本を悪い方向へと扇動した。そして日本にとって都合の悪い情報は一切国民に入ってこなくなった。その結果当時の日本人はこの戦争を含めたすべての行為は正しいものだと思い込まされた。例え正しくないと思う人間がいても、それは弾圧の対象となり、最終的に多くの人々が自分の考えを持つことを諦めた。」
歴史の暗部を、自分たちの先祖の過ちを初めてこのような形で聞かされた生徒たちは、身動きすら咎められたかのように斎藤の話に耳を傾け続けた。
「考えることを放棄させられた人間ほど扱いやすいものはない。彼らは指導者たちを疑うことすら忘れて・・・。あとは君らの知っての通りだ。」
斎藤はやや熱くなり過ぎた自分を律するかのように大きく深呼吸をした。
「今の君らはどうだろうか?自分の頭で考え、行動しているか?先生を含めた大人たちの言葉を盲信していないか?」
ここで終業のチャイムが鳴った。しかしこの重いテーマに誰一人席を立つことはおろか、一言も発せなくなっていた。斎藤は優しく微笑みながら言った。
「過去の過ちは我々の背負う十字架であるが、財産でもある。過去の歴史は不変の教科書だ。知れば知るほどそれが自分の考え方を作る材料になる。春に卒業するみんなはもう立派な大人だ。自分でものを考えて行動できる人間になることを願ってやまない。」
「・・・・。」
一部女生徒がすすり泣いている。えも言われぬ感情が教室内を渦巻いていた。斎藤は余韻に浸ることなく教室を後にした。
「斎藤先生っ。」
廊下で呼び止められ振り返ると先ほどの講義に出席していた生徒たちの大半が整列していた。
「・・・・。」
生徒たちの行動に声を失った斎藤は踵を返して生徒たちに向きなおった。
「有難う御座いました。」
生徒たちは深々と頭を下げた。その声には男女を問わず、泣き声が混じっていた。思わずもらい泣きしかけた斎藤は、熱くなる目頭をこらえつつ抱きついてくる生徒たちを抱きしめた。
動きはあの講義から一週間ほどで始まった。斎藤の講義を受けた生徒たちが学習会なるものを結成し、それはあっと言う間に全校生徒へと広まった。彼らは近代史を読み返し、それを討論し続けた。特に惰性のように登校していた三年生にとっては、卒業前の最後の一大イベントになっていた。
「斎藤君っ。すぐに校長室へ。」
初老の教頭が珍しく興奮気味に斎藤を呼んだ。禿げあがった頭まで真っ赤に染まっており、まるで茹でダコだ。頭の先からつま先まで怒りに染まった教頭に斎藤は校長室へと連れていかれた。
連れて行かれた校長室でもヒステリックに話し続けるのは茹でダコのみ。校長は斎藤と視線すら合わせようとしない。事なかれ主義の校長である、さもありなんと斎藤は自分の立場を忘れて苦笑した。彼らが怒っている原因は今から一時間前に遡る。
「校長先生、私たちからの提案です。」
元生徒会長を中心に三年生が突然校長室に現れた。それも二三人ではない、元生徒会役員を始めとして十数人が校長室の前に並んでいる。ただならぬ雰囲気に戸惑いながらも校長は彼らの差し出した封書を開けた。そして内容に固まった。内容は次の通り
・一週間後に控えた卒業式で日の丸の掲揚と君が代の斉唱を中止して欲しい。
・どうしても日の丸と君が代が必要なら納得のできる理由を説明して欲しい。
・説明が得られなければ、我々の要求が通ったものと考える。
・それでも日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるなら、我々は不起立を貫く。
校長の額に冷や汗が浮かんでくるのをみて、梨絵たち生徒一同は勝利を確信した。校長は返答を避け、生徒たちが立ち去ったのを確認してから子飼いの教頭を呼び出した。
「君がやった講義から始まった話らしいじゃないかっ。」
顔に茹でダコの唾が、もとい教頭の唾が飛沫のように次から次へと飛んでくる。斎藤は話の内容よりもこの男とその唾が不快でならなかった。10分ほどこの不快な男に耐えたあと、ようやく校長が口を開いた。
「生徒たちを説得してくれないか?斎藤君。国旗の掲揚や国歌斉唱を不起立なんて考えられんよ。」
目の前では茹でダコが怒りに息を切らしている。そしてその眼で答えろと促した。斎藤は素直に答えた。
「お断りします。」
斎藤の言葉に目の前の茹でダコの赤みが徐々に抜けていく。校長は冷静を装っているがその肩は怒りに震えていた。それでも校長は取り乱すことなく
「僕は頼んでいるんだが、業務命令という形のほうが良かったかな?」
と続けた。
「どちらにしろお断りします。」
斎藤がきっぱりと断った。先程までの茹でダコは完全に色を失い、校長室の床にへたり込んだ。それを合図にしたかのように、とうとう校長が怒りを露わにした。
「いい加減にしろ、PTAや教育委員会の御偉方も卒業式には出席するんだぞ。事の重大さがわからんのか。」
「・・・・」
斎藤は珍しく感情を剥き出しにした校長が滑稽でならなかった。PTAやら御偉方に怯えるその姿が哀れにさえ見えた。校長は続けた。
「生徒に妙な知識を吹き込んで・・・。学校はな、君の思想や信条を生徒に押し付けるところじゃないんだ。」
「わたしは日の丸掲揚・君が代斉唱については一言も講義中に述べておりませんが。」
「国旗掲揚・国歌斉唱だっ。」
このような押し問答が続くと思われたが、斎藤は意外にも教頭によって救われた。床にへたり込んだ教頭はそのまま白目をむいて失神したのだ。これにはさすがに激論を交わしていた斎藤・校長の両名も慌てて救急車を手配した。幸い教頭は命に別条なく、十日ほどの経過観察入院で済むらしい。気の小さい教頭にとっては問題の卒業式に出なくて済むことのほうが幸いだったかも知れない。
救急車を見送りながら、校長は斎藤の耳元で呟いた。
「斎藤君、当分の間謹慎を命ずる。」
しかし動き出した事態はもう止まることはなかった。校長室でも一歩も引かず、生徒の考えを尊重した斎藤はもはや生徒たちのカリスマだった。生徒たちはこの事件を機に一層の団結を深め、町に出て斎藤の謹慎を解くべく地域住民に署名を求め始め、地元の新聞やローカルニュースでも話題になった。学生たちの熱意は住民を動かし、ついには教育委員会の御偉方を交渉のテーブルへと引っ張り出した。
「斎藤先生、斎藤先生。」
謹慎四日目に体育の菊池修教諭が斎藤の家を訪ねてきた。斎藤にとっては筋肉自慢と昔は不良だったことを誇るような口癖が苦手な男であった。何で菊池君が訪ねてくるんだろう、そう思いながらドアを開けた。
「先生、生徒たちがついに教育委員会を動かしました。」
菊池の舌足らずな言葉よりもその興奮が、生徒たちの成功を告げていた。
運命の卒業式まであと二日、斎藤は教育委員会の面々の前にいた。もちろん議題は日の丸と君が代、その場では孤立無援な斎藤ではあったが、生徒たちの固い結束と、なによりあと二日しか日にちがないことが彼の交渉を有利に進めていった。
「思想・信条の自由は認めましょう。あなたの謹慎は取り消させます。」
御偉方は負けた交渉でさえ上から目線でものをいうものだ。斎藤は呆れながらも言葉を返した。
「日の丸掲揚と君が代斉唱は認めましょう。それを望む人もいるでしょうから。ただし不起立も生徒たちの立派な権利です。」
斎藤は学生時代にデモや学生運動で味わった高揚感を思い出していた。
卒業式まで職員室のムードは険悪そのもの。斎藤に話しかけてくるのは体育の菊池くらいだった。しかしこの菊池も斎藤にとっては疎ましかった。菊池はこの生徒たちの熱気に酔っているだけで、純粋な気持ちで行動している生徒たちに、
「お前らの気持ちわかるぜ。体制に反逆してこそ若さだ。俺も昔は悪かったからなぁ・・・。」
と吹聴して歩くのは止めて欲しかった。自分の過去、暴走や違法行為を今の生徒たちの無垢な行動と重ねられると、生徒たちの思いが汚れるとさえ思っていた。しかし生徒たちも味方してくれる教諭が一人では心もとなかろうと、彼の行動を許していた。
生徒たちの中心はいつの間にか二年生に移っていた。当初は元生徒会の三年生を中心として行っていた行動だが、送られる立場の人間が中心で卒業式を動かすのはどうか?という意見から二年生を中心とするようになっていた。その中でも中心となっていたのは手島香だった。香は弁舌達者な優等生でありながら色白ですらりと長身の美少女、革命や政変の際民衆は必ずアイドル的な存在を求めるというが、香はその条件を完全に満たしていた。彼女を中心としたこの動きをとうとう職員室は止めることができなかった。
ついに卒業式当日、険悪な雰囲気のなか開会の辞が述べられた。演壇の左には校旗、右には日の丸が申し訳なさそうに掲揚されていた。そしてついにその瞬間がやってきた。司会の女性教諭は消え入りそうな声で述べた。
「続いて国家斉唱を行います。・・・出席の皆様はご起立賜りますようお願い申し上げます。」
それは奇跡的な光景だった。起立したのは斎藤・菊池を除く教職員と卒業生の親のみ、生徒は在校生、卒業生ともひとりも起立しなかった。何より斎藤を感動させたのは、生徒たちは座ったまま正面を見据え、誰一人微動だにしなかった。その立派に自分たちの意思を貫き通す姿、斎藤は涙を禁じえなかった。
在校生代表の送辞は、当然のように手島香が立った。彼女は言った。
「・・・先輩達が教えてくれた信念の大事さ、そしてそれを貫くことの尊さ。私たちは決して忘れません。」
苦虫を噛み潰したような表情の校長たちを尻目に、会場からは割れんばかりの拍手が沸き上がった。
この出来事は賛否両論を呼んだが、新聞などでは好意的な意見も多かった。斎藤は記事をすべて切り抜き、スクラッチブックに貼り付けた。無論反対意見もすべて貼付した。これが斎藤にとってなによりの宝物になっていた。
新学期を迎えて、斎藤は学習会の中心、手島香の訪問を受けた。香は上気した頬を紅く染めながら
「先生、ぜひ学習会の顧問になって下さい。」
と斎藤に頼んだ。斎藤は生徒一同から尊敬を集め、カリスマ的な存在になっていた。しかし斎藤はその申し出を固辞した。学習会は飽くまでも生徒たちの自由な発想で運営するべきで、自分の考えを押しつけたくなかった。しかし会の運営上、顧問がいないと困る。香の提案に斎藤は体育教諭の菊池を推薦した。あの男なら大した思想もないだろうし、お飾りにはちょうど良い。斎藤は香を諭して、顧問の任を逃れた。
斎藤が固辞したことで学習会のシンボルは斎藤から手島香に移った。そしてそれを盤石とさせる出来事が起こった。ある日近所の男子校からボロボロになった学生服に足駄という現代では古いというより絶滅が危惧されるバンカラ服、額には日の丸の鉢巻きを巻いた時代錯誤というにはあまりにも滑稽な集団が押し寄せた。
「売国的な意見を撤回しろ。」
「日本人として恥ずかしくないのか。」
「代表者出てこい。」
清風高校の校庭で座り込みを始めた他校生達に、学校中が騒然とする中学習会会長の手島香が立ちはだかった。
「私が代表者です。」
罵声をあげ続けていた男子学生たちを黙らせる迫力がそこにはあった。怯んだ敵対者たちに思わず口元を緩めた香は放課後清風高校の体育館での公開ディベートを告げ、有無を言わさぬ迫力で踵を返した。その瞬間鵜の目鷹の目で事の成り行きを見つめていた清風高校の学舎の至る所から歓声が上がった。他校生がその勢いを失い静まり返ったころ、清風高校の学生たちは自分たちの勝利に賑わい始めた。そして香に自分たちの信念を預け、一緒に闘っている錯覚に酔い痴れた。香自身も高揚していた。ようやく自分と意見を違える集団と出会い、そして論破すべく考えを巡らす自分に酔っていた。
そして放課後勢いを失いつつある他校の男子学生たちは、生贄の如く体育館の壇上に集められた。彼らには最早乗り込んできた時の迫力はおろか、彼らを清風高校へと足を運ばせてた信念そのものも失われているかのように見えた。無理もない、放課後の体育館には清風高校の学生たちの大半が詰めかけ、形勢不利な侵入者達が断罪されるのを今か今かと待ち侘びているのだ。そして何より体育館に足を運んだ清風高校の学生たちは断罪者たる学習会、その象徴である香を待っていた。
「あたし出るのやめよっかな?」
香は体育館の壇上で怯えた様に肩を寄せあう他校生たちを見て呟いた。彼女が求めたのは勢いを失った彼らではなく、正々堂々対等にディベートできる敵対者であった。最近の香は常に敵対者に飢えていた。学習会での集会を行っても聴衆たちはプレゼンターの話に耳は傾けてもなんら異論を示すことはなかった。ただ思慮深げに頷きメモを取る程度、あげく香が発言すればプレゼンターすら自説を変えて香に阿る始末。そこには香の求める高揚はなかった。あの卒業式での校長や教頭を凹ませ、勝利を勝ち取った時の胸の高鳴りこそ香が求めたものだったはずなのに。折角学習会に異を唱える敵対者が現れたと思えば、香の迫力に出鼻を挫かれ、今にも己の今置かれた境遇を嘆き始めかねない。学習会幹部たちに背を押され、何より自分が出なければ収まらない雰囲気に屈した形で香は壇上に上がった。
すでに勝敗が決したディベートなど香はまっぴらだった。顔色を失った他校生を尻目に壇上に上がった香は体育館に集まった清風高校の生徒たちに一方的なアジテートを行った。無論他校生たちは何一つ発言することなく、香の演説が終わるのを震えながら待っていた。10分ほどで気の乗らない演説を終えた香が他校生たちを一瞥すると彼らは我先にと壇上から飛び降り、そのまま逃げるように体育館を去って行った。途端に勝利を確信した清風高校の生徒たちは歓声に包まれ、その勝鬨にも似た歓声の中香は壇上を去った。香を取り巻く生徒たちに笑顔を見せつつも香は
「あんな人たちじゃ相手にならないわ。ダイオキシンが人類には必要だってテーマでディベートしても勝てるわよ。」
と誰にも聞かれぬように毒づいた。
この出来事以来学習会はその勢いを増し、職員室の介入すら許さない自治を勝ち得た。その許された自治は更なる熱気を生んだ。雰囲気に流されて入会するものも少なくはなかったが、全校生徒の大半が何らかの形で学習会に関わっていた。実際入会したものは「課題」なる学習会が推薦する書籍を貸与され、それに対する感想を求められた。その感想の内容によっては学習会からの退会を命じられるため、生徒たちは必死になった。入会した後も学習会にそぐわない言動が見られたものには「自己批判」と呼ばれる、一週間の参加禁止期間が設けられた。中にはその厳しさに嫌気がさして退会を考える者もいた、しかし皆が認める学習会からの離脱者というレッテルが怖くなり、それこそ自己批判をした上で殆どが学習会へと戻った。
学習会は活動の幅を更に広げるべく、自分たちのホームページを立ち上げた。自分たちの考えを広く伝えるのに、インターネットほど最適な環境はないと彼らは考えていた。しかし彼らは自分たちの甘さに気づいていなかった。
「ちょっとこれ見てよ。」
ホームページ立ち上げ直後からアクセスが殺到し、コメント欄は読む暇もないほど更新され続けた。喜ぶべきことであろうが、内容は惨憺たるものだった。パソコンを覗き込んだ生徒たちはその顔色を失った。
[売国奴]
[厨房]
[氏ね]
悪性コメントでホームページはあっという間にパンクした。しかも御丁寧にウィルスまで感染させられ、学習会のパソコンは使用不能に陥った。学習会の生徒たちはショックを隠しきれなかった。もちろん自分たちの考えに反対する人たちがいることくらい、彼らも想像はしていた。しかしながらコメントのほとんどが意見ですらない悪口のオンパレード。今まで自分たちのしていることは正しいと信じ、称賛ばかりを聞いてきた彼らには耐え難い苦痛だった。そして残念なことにこれは悲劇の幕開けにすぎなかった。
見えない襲撃者たちは攻撃の手を休めることはなかった。高校のホームページは当然のように荒らされ、生徒たちの個人ブログさえも攻撃対象となり次々に炎上した。香や学習会の主だった面々は、どこから入手したのか自分たちの顔写真をあらゆる掲示板に張り付けられ
[ゆとり教育の弊害]
[ブサヨ]
[売女]
と悪口雑言が並べられていた。学習会のなかに深刻なムードが漂い始めた頃、一人この状況を喜んでいる生徒がいた。学習会会長手島香である。やり方はともかく、ようやく求めていた敵対者が現れたのだ。他生徒たちが泡を食っている中で、香の胸はまだ見ぬ論戦相手に高鳴っていた。
「血が滾るってこういうことなのかもね。」
とはいうものの香もこの状況には手を焼いていた。自分たちのやっていることは正しい、誰が相手でも自分たちの考えを貫こう。会員たちを諭したところで実際の敵対者には自分たちの思いは通じない。混乱の当初はSNSや慣れない匿名掲示板に香自ら自分の意見を述べ、時に挑発し、自分の持っている話術のすべてをぶつけてみても、まさに暖簾に腕押し・糠に釘の状態であった。一つの質問に答えれば十の質問と百の罵声が書き込まれ、一つでも答えそびれると
[はい逃亡決定]
[涙目www]
などど数倍のコメントで埋め尽くされる。こんなものは香の求めるディベートではなかった。いかに拳を振り上げても、振り下ろす先が見えない。むしろ以前のコメントとのちょっとした相違を取り上げられ、揚げ足を取られる始末であった。やむをえず生徒たちはホームページを閉鎖して、ブログへの書き込みを禁じ、ツイートには一切応じないと決め、批判の声から耳を塞いだが香の気持ちは収まらない。自分の主義主張なんかどうでもいいから批判者たちと納得いくまで議論をぶつけ合いたい。香の苛立ちがピークに達したころ、ようやくディベートへの賛同者が現れ始めた。賛同者たちはチャットルームを立ち上げ、ディベートに応じることを約束してくれた。香は嬉々としてこれを承諾した。彼女はやっと拳を振り下ろす場所を得た、そう信じた。
ついにその日はやってきた。香の戦いが始まろうとしていた。香の敵は6人それに対して香は一人、状況は圧倒的に不利と思われた。しかし相手は六人と限定されており、香一人であっても彼らに反論することは可能と考えられた。彼らはLeviathan、Satan、Belphegor、Mammon、Beelzebub、Asmodeusと名乗った。そして香にはLuciferという名前が与えられた。
Leviathan[YORO]
Belphegor[よろ]
Mammon[よろ]
Asmodeus[よろしく]
Beelzebub[挨拶なんていいからさっさと始めようぜ]
Satan[じゃ始めましょうか、一応ルールです。Luciferさんはチャット関係にあんまり慣れてないみたいだから、ネト語とかなしで。あと言葉乱暴すぎる人は退室して頂きますよ。]
Lucifer[よろしくお願いします。]
ついに香の戦いが始まった。香は鏡を見て顔を引き締め、自分の行為に吹き出した。お互いの顔を見ることのないディベートなのだ、どんな顔をしてもディベートには影響しないはずなのに・・・。思わず舌を出した香は、自分で思っている以上にこのディベートを待ち焦がれていたことを思い知った。
Leviathan[まず、なんで日の丸とか君が代嫌いなの?]
Mammon[ていうか、日本嫌いなの?]
Beelzebub[なら日本から出てけ]
Satan[Beelzebub、退室させますよ。]
Beelzebub[スマソ]
Leviathan[Beelzebub、それをやめろ]
Beelzebub[・・・]
Lucifer[答えていいですか?]
Satan[どうぞ]
Lucifer[私は日本が嫌いなわけではありません。むしろ好きです。だからこそ過去を曖昧にして、反省できない国にはなってほしくありません。]
Leviathan[どういうこと?具体的に]
Lucifer[まずは教科書の記載です。私たち学生は教科書から知識を得ますが、ほとんどの教科書には第二次世界大戦での日本の侵略が書かれておらず、あっても数行です。しかし日本に侵略された国の教科書には未だに癒えない傷として描かれています。これは明らかに、事実の隠蔽です。]
Leviathan[それと日の丸や君が代となんの関係があるの?]
Beelzebub[他の国の教科書がなんで正しいって思うの?]
Satan[Beelzebub、Luciferさんが答えてから発言してください。]
Beelzebub[・・・]
Lucifer[お答えします。まずLeviathanさんの質問ですが、日の丸はいまだにアジア諸国から侵略の象徴として受け取られています。君が代は読んで字の如く天皇を崇拝する歌です。特に昭和天皇は戦争の最高責任者でありながら、その責めを負うことなく部下に詰め腹を切らせた張本人です。そんな旗や歌を国旗や国歌として認めるわけには行きません。]
Lebiathan[日の丸がアジア諸国のなかでそんなに嫌われてるのかな?]
Lucifer[はいそうです。]
Lebiathan[日本が進出した国々の殆どが、欧米列強の植民地だったことは知ってるよね?]
Lucifer[はい、知ってます。]
Lebiathan[じゃあ、戦争が終ったあとにその国々が次々と独立したのは知ってる?]
Lucifer[はい、でもそれがなにか?]
Lebiathan[第二次大戦前アジアと欧米では圧倒的な力の差があったのはわかるよね。日本はその支配国を排除して、独立のきっかけを作ったとは考えられない?日本に感謝している国もあるんじゃないかな?]
Lucifer[侵出された国が感謝するわけないじゃないですか。自分の国で戦争されて喜ぶわけがありません。]
Leviathan[それは俺達日本人じゃなくて、その国の人が考えることじゃない?実際大戦当時の日本人を英雄として崇めている国もあるんだよ]
Lucifer[それは日本人の思い上がりだと思います。]
Leviathan[・・・なるほど、一応Beelzebubにも答えてあげて]
ディベートは続いた。
Lucifer[他の国の教科書が正しいかって質問ですけど、事実は一つですよね?侵略した国はその歴史を恥として扱い、侵略された国はその歴史を屈辱としてあつかいますよね。恥を隠すことはあっても、屈辱を誇張して書くことはないと思います。]
Satan[Beelzebub、答えますか?]
Beelzebub[じゃあ教科書ってLucifer何冊くらい読んだの?]
Lucifer[・・・実際に読んだのは数冊です。]
Beelzebub[他の国の教科書って読んだことあるの?]
Lucifer[・・・ありません。]
Beelzebub[話になんね。]
Satan[Beelzebub、退室しますか?]
Beelzebub[失礼。Luciferもしかして教科書そのものじゃなくて、教科書について誰かが書いた本や記事を読んでない?]
Lucifer[はい、ただ内容はしっかり転載されていましたよ。]
Asmodeus[正直な人だなw]
Beelzebub[Asmodeus邪魔スンナ。その本が正しいかどうかは別にしてだ、Luciferカレー好きか?、一応ちゃんとした質問だよ。]
Satan[・・・いいでしょう。Lucifer答えてあげてください。]
Lucifer[好きですけど、それがなにか?]
Beelzebub[おれ大嫌いなんだよね。例えば俺が嫌々カレーを食ったとしよう。その味をLuciferに伝える。Luciferにはどう伝わるかな?]
Lucifer[そりゃまずそうに聞こえると思います。]
Beelzebub[でしょ。カレーは例えだけど、その本書いた人が日本嫌いだったらどーよ。]
Lucifer[・・・言いたいことはわかりますが、納得できません。]
Mammon[例えがわりーよ]
チャットを用いた会議は香が思っていた以上に和やかに進んだ。多少暴走気味のものもいたが、質問と回答という形式が守られていた。もうひとつ香を驚かせたのは、香が反論しても彼らは必要以上に追い詰めてこない。「なるほど」とか「意見の相違かな」などと決して香を頭ごなしに否定してはこなかった。香は自分の旗色が悪いのも忘れ、彼らに持っていた不信感が徐々に薄れていくのがわかった。
討論会を始めてあっという間に二時間が経過した。結局香も彼らを論破出来なかったが、言い負かされることもなかった。主催者の仕切り上手も手伝って、ディベートは成功裏に終了した。
Leviathan[お疲れ様、またね]
Mammon[楽しかったよ、また会おう]
Beelzebub[乙]
Belphegor[お疲れー、またね]
Asmodeus[Belphegor、お前一言も発言なかったなw。それじゃばいばーい]
次々に挨拶しながらチャットルームから落ちていくメンバーたち。その言葉には今まで香がネット上で浴びせられ続けた罵詈雑言の欠片もなかった。皆純粋にディベートを楽しんでいたのがよくわかる。香は何とも言えない充足感に包まれていた。一方通行に浴びせられていた言葉が、ようやく会話になった。そして自分の意見に相手が反論し、その反論に回答する。香が飢えていたディベートがここにはあった。この心地よい空間が香には惜しく思われた。
Lucifer[Satanさん有難う御座いました。]
Satan[いえいえ、Luciferさんこそ孤軍奮闘でお疲れ様でした。]
Lucifer[もう終わります?]
Satan[はい、Luciferさんが落ちたらチャットルームを閉じます。]
Lucifer[あのですね、良かったら、その]
香はとまどいを隠せずに書き込んだ。
Satan[?]
Lucifer[またこういうのやってもらえませんか?]
Satanと名乗る主催者は、喜んでその提案に乗ってくれた。お互いにメールアドレスを交換し、次のディベートの約束が出来たあとようやく香はチャットルームから落ちた。ベッドに横になった香は心地よい疲れの中、満足感に溢れているであろう自分の表情を想像しながら眠りについた。
このディベートが終わった後、彼ら学習会への攻撃はぴたりと止んだ。香の頭には、あのディベートした連中がその他大多数の暴挙を抑えてくれたのでは?という考えが浮かんだ。本当に彼らが抑えてくれたのか、それとも匿名の襲撃者たちは新たな獲物を見つけてそちらに食いついたのか、それはわからなかった。しかし香にはあのディベートこそがきっかけであった。そう思えてならなかった。
一時期その勢いを失った学習会ではあったが、見えない敵からの攻撃が止んだあとその勢いを取り戻し始めた。香や幹部たちはややお仕着せがましかった学習会の態度を改め、自由に発言できる雰囲気を大事にし始めた。そして今までの考え方への反対意見、その殆どは香がディベートの出席者から得た物ではあったが、これを多く取り入れそして議論を戦わせた。今までのややぎすぎすした学習会のイメージが、本来彼らの望んだ自由に思想や信条をディベートする会へと変貌を遂げたのだった。
香は騒動がひと段落してからもSatan(前回のチャット・ディベートの主催者)達とのチャットが何よりの楽しみだった。残念ながら学習会の誰一人、香をディベートで満足させられる弁舌の持ち主はいなかった。本を読み漁っても知識は増えるがそれに対する自分の考えは誰も聞いてくれない。授業さえも、斎藤先生を除けば、教師たちの押し付けがましい自己主張にしか見えなくなっていた。しかし彼らとのチャットは違う、自分の意見を述べられる、そしてそれに対して反論してくる。更に反論を踏まえた上で、それに答えることができる。チャット上の彼らは紳士だった。香が高校生であることを知らぬものはいないだろう、しかし彼等は香を大人として扱っていた。からかい口調が混じることはあっても、けっして頭ごなしな批判はなかった。香自身も名前はおろか顔も知らない相手だからこそ、自分の考えを素直に話せた。チャットは香が唯一素直な自分自身に戻れる空間だった。
学習会が以前の勢いを取り戻したころ、清風高校は秋の文化祭に向け慌ただしさを見せ始めていた。無論学習会もなにか発表をと皆が考えていた。しかし問題は方向性だった。自由な意見を尊重するあまり、学習会自体のこれといった方向性が完全に失われていた。識者を集めての公開討論会も考えたが、所詮人前で行う討論会では本音など出る筈もない、特にチャットという自由な空気に触れていた香には一瞥の価値もないものに思われた。そこで香は考えてみた。学習会は自由な意見がでるようになったとはいえ、未だ反対意見が圧倒的に少ない。ここで自分が今までのテーマ、過去の戦争への贖罪、これに真っ向から反対してみてはどうか?ディベートや討論会は反対意見が出てこそその盛り上がりを見せる。ならば自分が反対意見を述べて、論議を戦わせれば人の目を引くしなにより盛り上がる、これだ。香は自分の考えに興奮し身震いした。
さっそく香はSatan等にこの決断を報告した。議論好きな彼等は大賛成、是非やるべきだと背中を押してくれた。香はもう止まらなかった。
香は翌日学習会の皆に自分の考えを告げた。無論自分が反対派に立つとは一言も言わず、反対意見の生徒が来るとだけ話した。学習会がそれらを論破出来れば、それこそ自分たちの意見をさらにアピールできるチャンスだと。香自身が拍子抜けするほど香の提案はあっさりと通った。学習会の幹部で誰一人反対する者はいなかった。まだ見ぬ反対派を同論破するか、それだけで学習会全員が盛り上がった。ようやく秋の文化祭でのテーマが決まり、誰もが熱意を振う中香はひとり心の中で舌を出しながら呟いた。
「頑張ってね。貴方達の敵は手強いわよ。」
この討論会の話は瞬く間に広まった。噂は噂を呼び、まだ見ぬ反対派に皆が夢中だった。そしてその反対派という生贄を、学習会会長手島香がどの用に論破し断罪するのか?それが話題の中心だった。
無論この話は斎藤にも伝わった。斎藤は自分がきっかけとなった運動がここまでになったかと誇らしげだった。斎藤は現実を教える辛さと残酷さを知っている。誰もが暗い過去には目を背けたがる、だからその過去は風化されてしまう。しかし彼らは違った。日本人であることに誇りを持ち、過去の過ちへ真剣に向き合っている。彼等は斎藤にとって誇りだった。無論討論会には聴衆の一人として参加するつもりだった。万が一反対派が手強い時には陰ながらも可能な限り力を貸してやりたい。斎藤は討論会を心待ちにしていた。
あっという間に文化祭も最終日を迎え、学習会による公開討論会が始まった。体育館は討論会の始まりを待つ生徒たちで埋め尽くされ、教師たちも数名聴衆という形で参加していた。壇上には学習会側の椅子が六つ並べられ、それに向き合うように反対派の座る椅子が置かれていた。準備は万端に整っていた。まず司会を務める生徒が開会を宣言し、学習会会長の手島香が壇上に立った。香は挨拶を簡単に済ませ、一度皆の元に戻る。学習会の者たちが口々に話しかけてきた。
「ねえ、反対派の人って本当に来るの?」
香は何も答えずににっこりと微笑み、
「もう来てるから大丈夫。討論会始めよう。」
とだけ答えた。香は自分の仕掛けに意気揚揚としていた。
一人づつ司会の学生に名前を呼ばれ、学習会の幹部たちが討論席に着いた。そして最後に香の名前が呼ばれ、会場には声援と拍手が響いた。しかし壇上に上がった生徒はおろか、会場に来ていた全員が度肝を抜かれた。香は学習会側の椅子に座ろうとせず、それに向かい合った反対派の椅子に座ったのだ。しばらくの沈黙のなか、香が司会を促した。
「さあ、始めましょ。」
学習会の幹部たちは動揺を隠せなかった。まさか香が討論会の相手になるなんて・・・。誰しも考えつきもしなかった。しかし会場はこの予期せぬサプライズに盛り上がった。動揺を隠しきれない司会が震える声でテーマを発表すると聴衆たちは固唾を飲んで成り行きを見守った。
「始めのテーマは戦時中の日本軍の行動です。」
香はSatan等になりきったつもりで、戦時中の日本軍の行動の正当性を堂々と述べ始めた。彼らとのチャットのお陰で香は一端の愛国論を語ることができるようになっていた。凛とした声で日本の当時の状況、やむにやまれず戦争に突入したこと、そしていまも美談として残る進出した日本軍の秩序ある行動について語った。
「・・・私たちの先人は不当に貶められ、その名誉を傷つけられています。これでは日本のために戦い、そして散っていった英霊たちは浮かばれません。」
我ながらよく言うな、と思いつつ香は発言を締め括った。そしてひっそりと呟いた。
「さあ、論破してみて。」
ここで香にも予想外のことが起こった。いつもならこの手の話に慣れている学習会のメンバーが反論してこないのだ。司会に促されて渋々答えるものもいたがどれもしどろもどろ、人前という緊張感も伴ってか内容も稚拙なものだった。香は戸惑ったが、ディベートという高揚感はむしろ彼女を勢いづかせた。自分でも気づかないほど熱くなっていた香は、次々と学習会の考えそのものを論破していった。会場の聴衆は香の変説に驚きはしたが、むしろ歓迎していた。学習会の連中が話すことと言えば、戦前の日本を思い出せとか、日本のしてきたことへの反省が足りないなどの説教臭いものばかり。大半の学生がこの手の話に飽きていた。香の弁舌もさることながら、自分たちの先祖を誇らしく思える内容は学生たちにとって小気味よいものだった。討論会は続いた。
「続いて日本の戦後教育の功罪です。」
次のテーマに移ると討論会はその体を成さず、香の独演会と化していた。香自身自分の話すことに違和感を感じつつも、聴衆たちの盛り上がりと熱気に浮かされたように、愛国論を次々と展開していった。
「・・・私たちは誤った教育に洗脳されてきました。これからは違います。堂々と自分の思想を持って、胸を張って日本の真実を語ろうじゃありませんか。」
この言葉を境に聴衆たちの熱狂は頂点へと達した。
「にっぽん、ばんざーい。」
どこからか声がした。それは会場中に伝播し、気が付けばほぼ全員が両手を高々と挙げて、万歳を繰り返していた。
斎藤は自分の見ているものが信じられなかった。まさかこんな展開になろうとは夢にも思っていなかった。止めなければ、斎藤は行動に出た。
「おい、やめなさい。やめるんだ。」
しかし斎藤の声など熱狂した生徒たちには全く通じない。仕方なく最後尾にいた学生の肩を掴んで振り向かせた。
「おいっ、お前たち自分らが何をしているかわかってるのか。」
しかしその生徒は斎藤の制止を振り払い、熱狂の渦に戻った。何人かに声をかけても同じことの繰り返し、体育館中の生徒たちが万歳を連呼している。しかたない、斎藤は壇上に上がろうとした。その時すごい力で壇上へと続く階段から引きずりおろされた。後ろにいたのは学習会顧問の菊池だった。
「駄目ですよ、先生。学生たちの自由な意見を邪魔しちゃ。」
熱に浮かされたような顔で菊池は述べた。
「彼等は自分たちが何を言っているのか分かってないんだ。止めなければ、放せ。」
斎藤が菊池の腕を振り払おうとしたその時、斎藤の腹部に菊池の右拳がめり込んだ。
「先生、俺は生徒たちを守るぜ。」
惨めにも床に倒れこんだ斎藤は、繰り返し聞こえる万歳の声と興奮した生徒たちの足踏みを体に感じ、最早手遅れであることを痛感させられていた。
斎藤はひとり職員室に佇んでいた。討論会は終わったが生徒たちの熱狂は醒めることは無さそうだ。このあと生徒たちがどんな活動を始めるのか?斎藤は不安でならなかった。香の弁舌は確かに見事だった。そして自虐的とも言える歴史観に飽き飽きしていた生徒達はそれを簡単に受け入れた。集団の熱狂は団結を生み、シュプレヒコールはその団結を堅固なものにする。斎藤自身学生運動中に何度も見てきた光景だった。
斎藤は手に持っていた大事なスクラッチブックを読み返していた。あの頃とは180度違う意見に染まった学生たち、いったい何をしでかすやら。しかし自分にはもう止める術はない。彼らの誤った考えを修正するのは不可能だ。
「ピー。」
グラウンドでは相も変わらずサッカー部が笛の音に合わせてステップを繰り返していた。その一糸乱れぬ行動に、斎藤は思った。これだと。ある程度認められた扇動者が意見を言えば、誰もがそれにならう。人の考えを自分の考えとすり替えて、脳みそを預けたように扇動者を盲信する。学生に限らず、大衆とはそういったものなのかもしれない。去年は自分が左を向くように号令をかけ、今度は香が右を向けと号令をかけた。ただそれだけのことなのかも知れない。
「左向け左っ。」
斎藤は窓越しに呟いた。しかし今の斎藤の手には号令者の笛はなかった。