自己犠牲
テレビの中の芸能人が自信に満ちた顔で、まるでそれが世界の全てだとでも言うような顔で言った。
"誰かの犠牲の上にある幸せなんて、私はいらない。"
そう豪語できるのも誰かの犠牲の上に立っているからだ。伝えるすべもないから言わないけど、そう思った。
「ボスが呼んでます。冬馬さん」
きちっとしたスーツを着てネクタイを締めて街を歩くサラリーマン。
ふざけながらふらふらと道を歩く学生たち。
交わることのない表の人間たちを横目に車に乗り込んだ。
「せっかく治ってきたのに。」
パリッとした灰色のスーツの上から労わるように自分の脇腹を撫でた。
「相当機嫌悪そうでしたよ。」
「今日確か会合があったはず。なんか言われたんだろ、もうやめてくれよ。」
車を運転してるのは俺の側近の玖賀 光輝。名前の通り太陽の光に当たると俺の勧めで色を抜いた金髪がキラキラと輝いている。
見た目とは裏腹にかなり優しい丁寧な運転をする光輝のおかげであまりこの車では酔わない。
心地よいエンジンの振動にウトウトしていると光輝のケータイが声をあげた。
運転中の光輝は戸惑っていたが一声かけ代わりに俺が応答した。
「篠崎です。光輝今運転中なので後でかけ直させます。」
電話の相手はディスプレイを見て知っていたためいつもより丁寧に壊れ物を扱うように話す。
「もうすぐ着きます。ボスから電話を受けてすぐ車を走らせてます。」
電話口から聞こえてくる声は憤りや八つ当たりの色をたくさん含んでいた。
通話終了のボタンをタップして大きなため息を一つ。
「ああ、行きたくねぇ。」
光輝のジャケットのポケットにケータイを戻し座席に凭れ二度目のため息と一緒に本音が溢れる。
「もうこのままどっか高飛びしますか?」
含み笑いで冗談を言う光輝は少しだけ本気に見えた。
「高飛び、ね。まぁするとしたらあの世になるだろうな。」
半分冗談、半分本気な皮肉で返すと乾いた笑い声とそうですねという諦めが聞こえた。
この地球上に逃げ場なんて存在しない。漫画やドラマのように都合よくヒーローなんて現れない限りずっと。
「着きました。部屋で救護バッグ持って待ってます。」
「やばそうだったら電話するよ。」
ヒラヒラと手を振って車を降り俺らを縛り続ける監獄。表向きは外資系の企業ということになっている高層ビルの中に足を踏み入れる。
入ってすぐのエレベーターの中にある指紋認証機に人差し指をかざすと従業員以外は登れない15階より上の階のボタンが収納されている扉が開く。
すぐに最上階の25というボタンを押す。
静かに天に昇りゆっくりと止まる。スライドして開く扉に促されるようにエレベーターから降りる。重い足に鞭を打ち、このビルの中で一番豪華な扉を3回ノックする。
「遅くなりました。篠崎です。」
「入れ。」
短い返事ではあったが最高にイラついているのが顔を見なくてもわかる。
嫌々ながら重い扉を押し開け中に入る。
「遅かったな、何してた?」
「なるべく急いで来たんですが...」
弁明の言葉は体内に響いた衝撃に打ち消されそこからはなにも喋れなかった。
短く呻くことしかできなくて、息をするのが精一杯のままその場にしゃがみこむ。
「お前俺に呼ばれてんのになるべく急いだなんて言い訳よくできたな」
うずくまる俺の頭上で話している声を聞く限りもう目の前にボスがいることは明白だった。
布が擦れる音が聞こえた。ああ、蹴られる。そう思った時にはつい最近完治したばかりの左の脇腹に鈍い痛みと衝撃を受けた。
ついにしゃがんでいることもできなくなりその場に倒れ咳き込む俺を労わるどころか無言で容赦なく蹴りをいれてくる。顔を蹴られたんだろう。口の中に鉄分が広がっていく。
全身が痛くて呻くこともままならなくなっていく。今日は長くなりそうだ。今日の革靴はいつもより痛いな。ワイシャツに血が垂れたら面倒だな。なんて他人事のように考えながらこの長い地獄に耐えることしか俺にはできなかった。
そこからどれくらいだろうか。髪を引っ張られ上を向かされたと思えば床に叩きつけられ。少しヒールのある革靴の踵で踏まれ。無理矢理立たされ殴られ。もう1日中そんなことをされたような気がしたが、きっと1時間やそこらしか時間なんて経っていないんだろう。絶望に塗れ天井を見ながら必死に意識だけは保っていた。
足でうつ伏せに転がされ俺の背中にどかっと腰をかけて一息つくボスはカチッと音を鳴らし、いつのまに咥えていた煙草に火をつけた。
これはまずいな。と満身創痍になりながら僅かばかりの抵抗を試みるが自分より体格も身長も大きい男が乗っているのだ、抵抗など無意味だった。
フーッと煙草の煙を吐いたと同時に俺の背中で物が燃える音が聞こえた。
俺の背中に煙草を押し付けている。だが、ジャケットとワイシャツが煙草の火を俺の皮膚に到着する前に鎮火した。
それが気に入らなかったのか舌を打ち俺の上から立ち上がる。
「新宿の店、納期を過ぎてる。お前明日行ってこい。」
全身の痛みに耐えゆっくり立ち上がり短く了解した。
意識もふわふわと浮いた状態で扉まで歩きなんとか外に出る。
「革靴、いてぇよ。」
一生懸命足を動かすが一向に前に進んでいる感じがしない。エレベーターまでの距離がひどく遠く感じる。だんだん目の前が霞んできて急いでケータイを取り出し履歴の中から光輝に電話をかける。
ワンコール鳴る前に電話が繋がり今すぐ行きますんで、そこから動かないでください。と早口に指示された。
壁に身体を預け床に座り込む。
目を開けているのも辛くなってきて目を閉じるとすぐに身体が宙に浮いた。
仮にも上司を担ぐなんて失礼なやつだと思うが担がれないと帰れない俺を毎回迎えにきてくれる部下に感謝して大人しく担がれる。
「ボス、今日革靴新調したらしいです。だから電話くると思ってました。」
すげー痛かったと心の中で呟く。車の運転同様俺の体に負担をかけない歩きが回を重ねるごとに上達している気がする。懸命につないできた意識も安心と痛みと倦怠感により途切れてしまった。
目を覚ました時には自室のベッドで手当てをされ丁寧に着替えまで済まされた状態で寝ていた。いつものことながら優秀な側近だと感心する。
ベッドから身を起こそうと腹に力を入れたがひどい痛みにより再びベッドに身を沈める。
「骨は折れてないですけど、しばらくは日常生活にも支障があると思いますよ。」
「悪いな。」
大丈夫ですか。とペットボトルを差し出しながらベッドのそばの椅子に腰掛ける光輝に感謝の気持ちも含めて謝罪した。
「...いつまで続けるんですか。こんなこと」
「死ぬまで続くだろうな。」
3回に1回はこの会話をする。光輝はいつになく真剣に俺の体を労ってくれる。
「今何時だ?新宿の店に行かなきゃならない。」
ボロ雑巾のような姿で床に倒れてる俺に次の仕事の話をするなんて悪魔のすることだが、当たり前のことのようにそれをやるのがうちのボスだ。光輝も驚いた様子は見せない。
「まだ22時ですよ。今日は呼び出しがいつもより早い時間でしたから。」
「明日店がオープンする前に行く。車出してくれ。」
「わかりました。腹は減ってますか?なんか作りますか?」
お前は母親か。と喉まで出かけた言葉をペットボトルの水と一緒に飲み込み、晩御飯の用意とベッドから起き上がる手伝いを頼んだ。
壁に手をついてリビングまでゆっくり歩く。
やっと辿り着いたソファに腰をかけ一息つく。いつまで続くんだろうなんて疑問は結構すぐなくなっていたことを思い出す。
「いつ頃だっけな....」
口から出た疑問はあまりにも小さすぎてそのまま空気に紛れて見えなくなった。
「あり物で作ったんで豪華さにはかけますが、どうぞ」
食欲を刺激する香ばしいいい香りが湯気に乗って漂う。
「いや、充分すぎる、ありがとう。」
いただきますと手を合わせて口に入れるとほどよく食感の残った野菜と肉汁が溢れる豚肉が空っぽの胃を満たしていく。
「多めに作ったんで腹一杯になったら残していいですよ。俺が食べるんで」
たしかに一人分にしては多い野菜炒めは半分も食べないうちに俺の胃の上限に到達しそうだった。
「うまかった、ご馳走さま。」
再び手を合わせ食事を終わりにした。
「残すのは全然いいんですけど、そんなちょっとで腹一杯になったんですか?」
食事の時光輝はいつも聞いてくる。俺はしっかり食べてると何度言っても少食だと心配される。
「食べてるよ、お前がいつも食いすぎなんだよ。太るぞ」
「運動してるんで太らないです。」
嘘つけ、この間鏡の前で自分の体型を気にしていたのを見たぞ。と思ったが、不毛な言い合いが目に浮かんだので言葉にするのはやめた。
「じゃあ俺はもう一眠りするから明日6時には起こしてくれ。」
「朝一で新宿に行くんですか?」
「いや、明日は元々六本木の店と城田組の組長さんにお呼ばれしてる。」
「その状態で行くんですか?」
「怪我してるから行けませんなんて言えないだろ。運転頼むよ」
1日に3件も仕事があるなんて健康体でもそれなりに体に応えるのにこの状態だ、うまくこなせるか不安要素は残るが与えられた仕事をやらなければ痣が増えるだけだ。やりきる以外に道はない。
ベッドに寝転がるのも一苦労でスプリングマットに身を沈めてからも少しの間は傷が痛んだ。よく生きてたなと思った。
瞼を閉じるとすぐに眠気に襲われそのまま眠りについた。