第5話 成人男子=ワンちゃん?
私は耳を疑いました。これが夢かと疑いました。ちなみに目は疑いません。このワンちゃんが幻なんて悲しすぎます。ゆえにその可能性は即効デリートです。
にしても、どこから見ても、目の前にいるのはワンちゃんです。成人男子ではありません。あの成人男子は人間の姿をしていましたし、こんなに素敵ではありませんでした。あれ? そもそも成人男子ってどんな顔でしたっけ。記憶を探っても出てくるのは固いパンとか美味しかった料理とかケーキとか……ああ、全然、出てきません。ということは、素敵ではなかったということです。そんな素敵でも何でもない成人男子とワンちゃんが同一の存在? 何かの間違いとしか――。
……私は今、一つの可能性にたどり着きました。
「……ワンちゃん」
「私はワンちゃんでは――」
「あなたは、本当に素敵です」
「――え?」
ワンちゃんはポカン、と大きな口を開けました。
ああっ……らぶりー。
「そのキラキラさらさらな毛並みも、鋭い牙も、綺麗な眼も……本当に、本当に素敵です」
「え……そ、そう?」
ワンちゃんは照れたように声を上ずらせました。尻尾がパタパタ揺れています。素敵過ぎる外見とのギャップに胸キュンです。
「そうです! 私は、こんなに素敵な生き物を今まで見たことがありません」
「生き物って……うん。まあ、うん。結構気を使ってるから……」
照れ隠しでしょうか。何かぼそぼそ呟きながらもワンちゃんの尻尾は風を起こさんばかりに猛スピードで右へ、左へ、と振られています。よし、もう一押し!
「だから、自分に自信を持ってください! 成人男子と同一の存在だなんて! 成人男子なんて、あなたに比べたら私が昨日村を出る前につまずいた石ころ以下です!」
「……え」
「姿かたちもいまいち思い出せないくらい存在感の薄い存在でしかもやたら失礼で、人を不眠状態に陥れる成人男子に比べれば……あなたの姿は私、死ぬまで――いいえ、死んでも忘れない自信があります!」
「…………」
「ですから、成人男子と自分を混合したりしないでください。あなたは成人男子とはもう本当に、比べようもないほどダントツで素敵ですから――ワンちゃん!」
ザァ、と風が吹きました。
ワンちゃんの口から鋭い牙がのぞきます。
「………赤ずきん」
「はい!」
私の真剣な心が伝わったのでしょう。ワンちゃんは私の言葉を隅々まで受け入れるように目をつむり、深く深く息を吸って吐きました。
吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー。
……深呼吸?
今度は口を閉じて沈黙しました。あれ?
……なんだかとても空気が重いです。
「ワンちゃん……?」
私が声をかけると、ワンちゃんはすっと、流れるような身のこなしで屋根を駆け下りました。そしてすぐ家の中へ入り、再び私の前に現れました。その口には一枚の白いシーツがあります。鋭い牙がシーツを割いてしまうのではないかと心配になりました。
はためくシーツをくわえながら、器用にもワンちゃんは言葉を発しました。さすがです。
「よく見ていなさい」
その言葉に、私はワンちゃんをガン見します。ええ、見るなと言われても私は見ます。だって、目の保養ですから!
ギン! と見開かれた私の眼からさりげなく視線をそらしつつ、ワンちゃんは月を見上げました。月を見上げるワンちゃん……なんて絵になる光景でしょう。うっとりしつつ瞬きも惜しみつつ見つめていると――周りの空気が、変わりました。
夜の暗闇の中で、一層暗く、そして青い闇がまとわりつくような重さで私たちを囲みます。そしてその闇はじわじわとワンちゃんへ引き寄せられていきます。
「……あ」
魔素の収束……それも、こんなにも重く、苦しく、強い……これは――これが、魔界の魔物の魔力。
体が震え、どくどくの心臓がうるさいほどに鼓動を打ちます。目は――逸らせません。
魔力は風のようにシーツをはためかせ、一瞬だけワンちゃんの姿を覆い隠しました。そして、再びその姿が現れたとき、そこにいたのは――。
「……えぇ?」
「これでわかったか」
おぼろげな記憶ながら、さすがに目の前に現れれば思い出せます。確信できます。そういえばそんな顔をしていました。こんな声でした。
そこにいたのは、素敵な素敵なワンちゃんではなく……確かにまぎれもなく体にシーツを纏った人型の成人男子。
……なにやら見る限りシーツの下は何も着ていないように見えます。
ああ、これは。
これは、もしかして、もしかしなくても。
「……成人男子は変態さんだったんですね」
次の日、私の朝食はパンのみでした。
うまうま。