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「うーん。うまくいくのかなー?ものすごく心配。」
「私もです。はあ、これはある意味戦時よりも緊張しますよ。」
夜の中庭は、殺風景で暗い。
もしもこれが19世紀の貴族の邸宅のしわならば、これでもかというほどロマンチックな気分を盛り立ててくれる。
ほんのりと灯る外灯。
それに照らされてほんのりと色を浮かべる夜に咲く花々。
屋敷の中からは静に聞こえてくる、楽しげな話し声と優雅な音楽。
紳士は色鮮やかなドレスに身を包んだ淑女をベンチへエスコートし、皺のない絹のハンカチの上に彼女を座らせ、傍らで愛を囁く。
ところがここにはそのどれひとつもない。
あるのはところどころに立つ松明の火と、少し離れて歩く男女の姿だけ。
「ねえミュラー。本当に大丈夫なの?お兄様に女性が口説けるのかな?」
「あの方は今まで女性に声を掛けなくても、女性のほうからやってきていましたからね。とても気の利いた台詞なんか言えると思えないですが。でも、ガーディアさんにアドバイスをされたみたいなんで大丈夫だとは思いますが。」
「ああ、あの人は女の心をもてあそぶのにかけては天才的な能力を発揮するからね。」
「なんでももともといたところでは、女性に優しい言葉をかけるのは紳士のたしなみだとかで。」
「あたしは優しい言葉なんかかけてもらったことない!」
ビビとミュラーは、小さな藪の影から身を縮めてぼそぼそと話していた。
実はさっきの夕食の後、ウォルターがブリギッドを夜の散歩に誘ったのだ。
やっと食事の席に顔を出すようになったブリギッドだが、未だに二人は顔を合わせれば喧嘩をしていた。
ウォルターが誘ったときもけんか腰だったので、食後の一戦になるかと思われたが、ミュラーのナイスフォローによって、この散歩が実現していた。
「おふたりとも徐々に打ち解けてきてらっしゃるんですが、やはりお立場上心のままに行動することができないのでしょうね。」
「ふたりとも好き合ってるように見えるもんね。」
「奥方様はわかりませんが、将軍は確実にあの方に惹かれてますよ。私も長年お仕えしていますが、あんな少年のように照れ隠しをしているのを見たことがありませんよ。」
「もう、素直じゃないんだから。」
押し黙ったままの二人がビビたちの前にやってきて、立ち止まった。
息を飲んで二人の様子を見守る。
「どうだ、少しは城での生活には慣れたか。」
「え、ええ。」
「何か不便なことはないか。」
「いまのところは、なにも。」
「そうか。」
そのまままた黙り込んでしまった。
「な、なにあれ。」
「うーん。硬い!硬いですよ将軍!もっとこう楽しげに笑顔などを見せなくては!」
「いつもはあんなに皆にどうでもいい話ばっかりしてるのにね。」
「将軍!がんばってください!」
二人の距離も、相変わらず離れたまま。
月の光だけが二人を照らしている。
「今日は、月が綺麗だな。」
ビビは思わずこけてしまった。
「いきなり何言い出すのー?」
「話題に詰まったときの天気の話ですね。しかし、将軍の口から綺麗だとかいう単語が出てきただけでも大きな進歩ですよ。」
「もしかして、でも、月よりも君のほうがもっと綺麗だ、とか言い出すんじゃないのかな。」
一抹の不安がよぎる。
「綺麗だが、俺は月というものは、どうもすかん。夜に光を放って何になる。」
いきなり何を言い出すか!
案の定ブリギッドは激怒している。
自分たちが祀っている神を嫌いだといわれたのだ。
「なんですって!私たちを侮辱するつもり?」
「まあそういきり立つな。」
「そういうならば、私だってあんなに傲慢な神をあがめているあなたたちのこと、一生好きになることはないわよ!」
そういい捨てると、ブリギッドはきびすを返し去ろうとする。
「だが、美しいな。」
ぽつりとつぶやいた声に、ブリギッドは立ち止まった。
「俺は今まで月をこんなにまじまじと見たことがなかった。こんなに美しいものだとは、知らなかった。」
「あなた、夜にゆっくりと外を眺めることもしなかったの?情緒のない人ね。」
「戦いにあけくれていたのでな。地上を見るので精一杯だ。」
いつもの調子じゃないウォルターに、ブリギッドは両手を組み合わせて俯いてしまった。
「おまえのおかげだ。礼を言う。」
「な、なにを言ってるの?私はなにも、、、。」
「お前たちがあがめている月というものがどういうものか興味があってな。おかげで見る機会が出来た。」
「そ、、、、そう、、、。」
「それに、キルトの姫君との婚礼によって休戦状態だ。色々と見聞を広げる暇ができたしな。これからは月を見上げるノーマンの兵士も増えることだろう。」
ウォルターは、もじもじしているブリギッドをやっと見ると、いつもの人を食うような顔で笑いかけた。
「本当にそうやって立っていると、月の女神そのままだな。」
これは計算にない、本心からでた言葉だった。
みるみるブリギッドの顔が赤く染まる。
だが暗くてそれは誰にも見えなかった。
「あ、あなたも、まるで太陽のようなひとだわ。いつも光輝いていて、、、。」
ぽつりとつぶやく。
「え?なんだって?すまん、よく聞こえなかった。」
ずんずんとウォルターが近づいて来る。
「いいえっなんでもないの!」
「なんだ?おかしなやつだな。」
うつむいたままのブリギッドを、じっと見つめている。
「ちょっとー!いい感じだよー!ロマンス小説を読んでるみたい!お兄様もやればできるじゃない!」
「将軍!私はいま、猛烈に感動しています!」
ミュラーはぐすんっと涙を袖で拭いた。
「どうやらうまくいったみたいですね。」
「ぎゃあっ。」
後ろから突然声が降ってきた。
「ガーディアさん!来てらしたんですね。」
「ちょっとー!びっくりするじゃない!突然わいて出てこないでよ!」
「人を害虫みたいにいわないでください。」
両手でばしばしと腕を叩いているビビをそのままにさせて置いて、真剣に夫婦の様子を眺めている。
「いやーよかったよかった。これもひとえにガーディアさんのご助力のおかげですよ!」
ミュラーは男の両手を握り締め、ぶんぶんと振りながら、ありがとう!ありがとう!と叫び続けた。
それからのふたりは見ているこっちが恥ずかしいほどの熱々ぶりだった。
それはそれで扱いにくい。
ガウディ曰く
「三文芝居を見てるみたいな展開」
だった。
相変わらず手厳しい。
ウォルターが仕事中は、ビビがブリギッドの部屋に行って遊ぶことが多かった。
今日も例によって部屋に行くと、ブリギッドは嬉しそうに小さな白い花を花瓶に挿しているところだった。
「うわあ、かわいい!このお花どうしたの?」
「ウォルターがくれたのよ。」
恥ずかしそうに顔を赤らめながら答えてくれた。
「えー?お兄様が?信じられない、、、。」
すごい状況の変化だ。
今度うさちゃんりんごをどっちから食べるか試してみよう。
絶対後ろから食べるよ!
「私、怖くて逃げてたのね。」
「え?」
「あのひと以外の人に惹かれるのが怖くて、逃げてたの。」
嬉しそうに、ぽつりとつぶやいた。
なぜかわからないけれど、その何気ない一言がビビの頭の中で何度も流れた。
「本当は好きなのに、嫌なことから逃げてたの。弱虫よね、わたしって。」
「ううん、そんなことないよ!」
「そう?ありがとう。」
逃げている。
あたしもそうだ。
またガウディに嫌なことをいわれるのが怖くて、彼から逃げている。
あの時だって、自分から逃げ出したんだ。
ずっとガウディのせいにしてたけど、、、。
そうでもしなければ、忘れた振りをしていなければあまりにもつらすぎた。
それなのに、彼がそばにいると、嬉しいと感じている。
そして、心の中のもう一人の自分が、自分のことなど何とも思っていない、これ以上傷つく前に早く離れろ、といっている。
この世界での自分という存在も、心で大きく揺らいでいるというのに。
一つ大きなため息を、人知れずついていた。
ブリギッドが、そっと肩に手を置いてきた。
「ねえ、ガーディアと何かあったみたいだかど、彼のこと許してあげてね。」
「え?」
「あなたがいなくなった後、もう大変だったの。今にも死にそうな顔をしてたわ。」
「はあ、、、。」
なんの話だろう。
わけがわからず、首をかしげる。
「おおかた彼が何か言ったんだろうけど、その報いは十分受けてるわ。」
そう言うと、軽くウインクをされた。
「ま、今も苦労してるみたいだけどね。彼の努力しだいかしら。」
もうすっかりいつものメンバーでの夕食がお馴染みになってきた。
いつものメンバーとは、ウォルター、その隣にブリギッド、ウォルター側にはビビとミュラー。ブリギッド側にはガウディが座っている。
必然的にビビの目の前には、ガウディが座っている。
まるで自分が城主かのような堂々たる態度だ。
おかげでついつい目がいってしまう。
石のように硬いパンを優雅にちぎるのも。使い古されて黒ずんで変形しているスプーンで、味のないスープを口に運ぶのも。塊のままテーブルに出された肉のローストを、短剣ほどあるナイフで切り分けるのも。
全く、どこに出しても恥ずかしくない帝国紳士っぷりといったら!
彼の食事をこんなにまじまじと見たことは今までなかった。
同じ席に着いたとしても、大抵近くには家族が座り、向かいにはなんとか公爵とか、ほにゃらら伯爵夫人とかが座っていたからだ。
自分はどこででも飲んだり食べたりしていたが、彼が何か食事の席以外で口にしているのは、パーティーや晩餐会でもグラスを傾けているぐらいだ。
一言で言えば、珍しい。
本当に人間だったんだなー。などと、口にしたら間違いなく10倍返しで跳ね返ってくる言葉を、胸の中でこっそり呟いた。
しかもお世辞にも美味しいといえないこの時代の食事を表情一つ変えずに食べている。
この前までは世界一贅を尽くした食事を口にしていたというのに。
それはビビも同じこと。
同じことなのだが、どの19世紀のアンゲリア帝国貴族よりも、貪欲な食欲を持っているビビでさえさすがに飽きてきた。
そろそろスパイスや砂糖をふんだんに使った料理を食べたい。
胡椒や香草がたっぷりかかっていて、濃厚なバターと芳醇なワインで作られたソースが添えられた牛のフィレステーキ。たくさんのコーンと生クリームがこれでもかと入ったコーンスープ。歯茎の神経がおかしくなりそうなほどの砂糖がかかったプラムプティング。リキュールが滴りそうなスポンジに分厚いチョコレートがコーティングされたケーキ。
ああっせめてサイダーぐらいだけでも飲みたい!浴びるほどに!
「お嬢様、香辛料がこの大陸の西の果ての島国にやってくるには、これより約500年、砂糖に至ってはそれよりさらに約100年待たねばなりませんよ。サイダーなど、もっててのほか。」
心を読んだように、ガウディが食事の手を止めて話しかけてきた。
ビビは慌ててよだれを手で拭った。
「それくらい知ってるもん!」
「そうですか。」
いつもならば、本当に知ってるのか疑わしい、とか、そういうことばかりでなく経済史や政治史をきちんと学ぶべきだなどとうるさいのに、じっと見てくる。
いつもより視線が強く感じられるのは、あの銀縁の眼鏡をかけていないからだろうか?
あまりにみつめてくるので、居たたまれなくなって皿の上の肉をフォークで刺した。
それはそのままビビの口に運ばれるはずだったのだが、力が入りすぎていたのかフォークから逃げ出すと、テーブルを飛んで横切り、あろうことかガウディの顔面に着地してしまった。
「あわわ。」
どんな怒声が響くかと身構えたが、ガウディはその冷たい肉を右手で掴んでぺろりと食べてしまった。
「たったったべちゃった、、、。」
その後も何事もなかったかのように、布巾で顔を拭いた。
「ご、ごめんなさいっ。」
立ち上がって、頭を下げた。
「いえ、こちらこそ貴重な食料をありがとうございます。」
「お、、、おこってる、、、?」
「私がまだお屋敷に仕えて間もない頃、とある令嬢が、あのヒステリックで有名なハンバーガー伯爵夫人に晩餐会の食事の席でロブスターを投げつけた、という話を聞いたことがありましてね。」
ビビは両手で口を押さえ、顔を真っ赤にして弁解した。
「ちがうのっ!あれは事故なんだよー!ナイフがすべってロブスターが飛んでいったの!」
それに対して、口元をニヤリと歪ませて言ってきた。
「私はそれで1週間は笑いを堪えるのに必死でしたよ。想像しただけで、実におもしろい。」
「人事だと思って!あの後伯爵夫人は、顔をロブスターに挟まれたまま失神しちゃって大変だったんだから!」
「心中お察ししますよ。」
まだにやにやしながら言ってくる。
この人、こんなに人が悪かったっけ?
「おーい。何か知らんが随分盛り上がってるな。」
とうに食事を終えていたウォルターが、テーブルをこつこつと叩きながら言ってきた。
「随分と仲が良いみたいだな。ふたりは。」
「ええ、そりゃあ、もう。ねえ、お嬢様。」
まだ笑ってる。
たぶんまだ色んな失態が、ガウディの耳に入ってるんだろう。
そういえば、ガウディが現場に居合わせた時も何度かあった。
一度も助けてくれたことはなかったけどね!
「いーえ!お兄様。全く仲は良くありません!むしろお互いを心のそこから疎んじあってます!」
「それは嘘。とても仲が良いですよ。共に時代を超えるほどに。」
「あたしはあなたに怒られるかしかられるか説教された記憶しかないんだけど。」
「単なる照れ隠しですよ。シャイで臆病者なもので。」
「みんな!この人の言うこと信じちゃだめ!だいたい、貴族に仕えてるのもコネのためだし、自分の出世のことしか考えてないし、友達少ないんだよ!それにすぐ人のことをだしに使うしこの人!」
びしっと人差し指で指しながら、他の三人に必死になって訴えた。
「おや、良くご存知ですね。」
「なにが、良くご存知ですね。だよ!あ、もしかしてこの前もパーティーから抜け出すためにっむぐっ!」
ぎゃあぎゃあわめいて大きく広げていた口に、何かが放り込まれた。
口中に脳を蕩けさせる甘い味が広がった。
「あーおいしいー。これこれ、これなのよー!あたしが欲しかったのはっ!」
ビビの悪い癖だ。
さっきまで怒っていたのに、食べ物が口に入るととたんに機嫌が直ってしまう。
それが甘いものだとさらに効果は絶大だ。
「実はまだあります。」
あのビビの赤い帽子のなかに、色鮮やかな包み紙にくるまれた飴玉やチョコレートがたくさん入っていた。
「なんで持ってるの?全部ちょうだい!」
「私が抱えていたものが一緒にこちらにきたようですね。祭壇の下に散らばってました。
もう子供ではないのですから、一つずつ召しあがってください。」
「けちーっ。」
帽子ごとさっと袂に隠したガウディを唸りながら睨んだが、全く効果はない。
あくまで涼しい顔のガウディと、それを睨むビビ。
やっと食堂が静になった。
「珍獣と調教師に見える。」
ウォルターがポツリとつぶやいた。
「あんな男、あたしじゃとても飼いならせないよ。」
「いや、おまえが珍獣。」
びしっと指を指された。
「あたし、珍獣なんかじゃないよね!ね?ミュラー?。」
「ええっ?そ、そうですね、珍獣、、、というか、えーと、、、野生の猿、、、あ、いえっえーっと、、、。」
いままで口を開くまいとしていた善良で平凡なミュラーは、慌て過ぎてうっかり本音が出てしまった。
「あたし猿じゃないよー!」
しかし、彼女以外は心の中で、ああ、ミュラーはうまいこというなー。と思っていた。
食後にはウォルターとブリギッドが出て行くとそのままそれぞれ部屋に戻っていくのだが、今日はウォルターは一服していくので部屋に戻っていろ、とブリギッドにいっていた。
ミュラーはそそくさと食堂を出てしまった。
そして、珍しく酒を飲んでいるウォルターと、それに付き合っているガウディと、ガウディの持つ菓子の山を狙うビビが残った。
ビビがここに来てからウォルターが酒を飲んでいるのは初めてだ。
結婚の祝いの席でさえ、彼は酒を飲んでいなかった。
いつもは多くの兵士たちを束ねる総大将だという責任と誇りが薄れ、本来の陽気で人懐こい人格が開放されたのだろう、ガウディに向かって楽しそうに話している。
「おい、お前は全然顔色が変わってないじゃないか。もっと飲め!」
ガウディの銀のコップに無理やり酒を注いでいる。
ガウディはその酒をいっきに飲みほすが、水でも飲んだようにけろりとしている。
「お前ザルだなー。おもしろくない。」
「私は強い酒を飲んでも酔わないんですよ。そういう体質のようです。」
「なんだそれは、もったいない。お前はもう飲むな。よし、ビビアン、お前が飲め!」
ガウディの横の席を陣取り、じっと菓子が隠された懐を見つめていたビビに、コップをぐいと差し出してきた。
「えー。お酒きらい。おいしくないもん。」
「なんだ?まったく、どいつもこいつも付き合いが悪いぞ。」
ぶつぶつ文句を言いながら、二人を睨んでくる。
そのとき、ガウディが懐中時計を取り出し時間を確認した。
時計の針はすでに10時になろうとしていた。
「おい、なんだその金色の丸いものは?」
「これは時計です。といってもこの時代にはこのような時計はありませんね。良くて日時計か。」
「時計?そんなもの何に使うんだ?」
興味がわいたのか、身を乗り出してくる。
「今この瞬間が一日の中でどの位置にあるのかを確認するんです。」
「面倒だな。日が昇ったか、沈んだかで事足りるだろう。」
「800年後は忙しいのですよ。分刻みで行動しなければなりませんので。」
「えー、あたしは時計は必要ないかも。」
「そうでしょうとも。」
「なによそのとげのある言い方は。」
「まあ、面倒な道具だというのはわかった。しかし、その金に輝く姿は美しい。俺にくれ。」
「そうそう、もうここでは必要ないし。そしてあたしにはお菓子ちょうだい。」
両方からくれくれと4本の手を差し出されて、親鳥のような気分にさせられる。
「いけません。これは差し上げられないのです。」
「なんだよ。けちだな。親の形見か何かか?」
「これは本来、この空間に存在してはならないものです。これ一つでこの後の歴史が変わってしまう恐れがあります。」
「何を大げさな。それくらいのこと。」
ウォルターは、今回はおとなしく未来から来たという話を受け入れているようだ。酒で頭もぼんやりしているのだろう。
「そもそも、われわれ二人がここへ来ている時点で、未来が変わってしまっている可能性が発生しています。」
「はあ?」
「どのように時間軸が形成されているかが問題でして。物質が移動したとすれば、800年後の空間から我々二人分の穴が埋まっているのか、いないのかも大きな問題で。」
その後も一人で質量がどうこうだとか、意識の転換がどうこうだとかいうことを聞いてもいないのに説明しだした。
「ともかく、今まで私は極力時代の流れに大きな影響を与えないように行動をしていました。その結果私が知っている歴史と大幅にずれていることはないのでわれわれはここにいても問題はないのだろうと推論をしていますがね。まあ、推論の域を超えることはないのですが。」
ウォルターは聞こえないふりをして、ビビはうとうとしていた。
「教会の坊さんの説教よりわけがわからん。」
突然ウォルターが立ち上がり剣を抜いた。
「やはりお前はわけがわからん。そういうやつを、この城から生きて出すわけにわいかん。ここで死んでもらおうか。」
さっきまでとは正反対の、無慈悲な表情でガウディに向かって剣を振り下ろした。
「ガウディ危ない!!」
ビビが驚いて飛びついた。
アンガリアの貴族の血だ。
大事な者のためなら、喜んでこの身を捧げてしまう。
しかしビビがかばうより先に、ガウディが懐の銃を抜き、ウォルターの鼻先に突きつけていた。
ウォルターの剣もまた、ガウディの首筋に今にも噛み付こうとしたまま静止していた。
「ガウディ!」
左腕にかばわれたまま、身動きが取れない。
二人はしばらく睨み合っていた。
「なんだその金属の塊は。それで俺を殴り倒すのか?」
「どんなにあなたが剣を振り下ろすのが速くても、私が撃ち殺すほうが速いでしょうね。」
確かにこのにらみ合いは、ガウディのほうが優勢だ。
「ガウディだめ!撃っちゃだめ!」
血の気が引くのがわかる。
必死で訴えたが、全く聞いてもらえない。
「っぶっあっはははははははっ!!!」
ぽかんとするビビとガウディを置き去りにしたまま、ウォルターは反り返るほど高笑いすると、剣を鞘に直してしまった。
「それがなんの武器なのかは知らんが、それだけの実践的な瞬発力と戦闘能力があるならば、大丈夫だろう。」
ガウディは未だ銃を下ろさないまま、眉間の皴を寄せた。
「お前たちは、ここにいるべきではない。近いうちに出て行くがいい。」
「どういうことだ?私をキルトの間者とでも思っているのか?」
「お前は、キルト族にしては切れ者過ぎる。かといって、ノーマン人にしてはがつがつしていない。」
ウォルターは椅子に座りなおすと、テーブルの上に長い足を投げ出した。
この緊迫した状態にも関わらず、ガウディの眉がピクリと反応してしまった。
「この嬢ちゃんときたら、全く警戒心がない。食料に関しては野生の獣並だが、中身は飼いならされた籠の中の鳥だ。」
「あ、あたし?」
突然話が自分に向いてきてきょとんとしている。
「お前たちが本当に800年後からやってきたのかは、知らん。だが、ここら一帯の人間じゃないことは確かだ。何か事が起こる前にもっと安全な場所へ行くといい。」
ガウディは小さく一息つくと、銃を元に戻した。
「別に、ここに居られると嫌だと言ってるんじゃない。むしろとどまってくれればと思っている。」
ウォルターが、まるで親が子供を慈しむような目で二人を見た。
「お前たちを見ていると、戦いのない世界の人間はこんな風なのかと、いつも思っていた。」
「お兄様、あたしたちはっ。」
「だがここは戦場だ。それも第一線のな。俺たちは死ぬのは怖くない。生まれたときから死が横に寄り添っているんだ。太陽神の御許へ行くことは覚悟ができてる。」
ビビが言いかけたことも、有無を言わせぬ口調で遮られてしまった。
「だが、お前たちは違う。わかるんだよ。」
ガウディが困惑を隠そうともしない声で言った。
「では、先のふざけた行為はなんです?私の腕でも試されたんですか?」
「お前がいくら獣のような目をしていようと、自分のために人間を殺せないだろう。だが嬢ちゃんを守るためならどうかと思ったのさ。さっきは本当に殺されるところだった。」
それから、ガウディの左腕にしがみついているビビにも目をやった。
「お前も、迷いが晴れただろ?」
「え?」
「ここに来たときから、ずっと何か思い悩んでいただろう?だが、お前はその男を守ろうとした。もう、大丈夫だ。」
ウォルターはガウディの本能と、ビビの本心を一度に試したのだ。
信じられなかった。
あれほど悩んでいた、ガウディのこととか、自分自身のことが、すとんと胸のつっかえから落ちていった。
「お前たちは、ここで死ぬな。もっと暮らすに足りる場があるはずだ。」
ウォルターは立ち上がると、なんというべきか困っている二人を笑い飛ばした。
「なんだ、そんなに神妙な顔をするな。俺がいじめたみたいだ。」
「あなたとは、もっと違う所でお会いしたかった。」
それはガウディの本心と、偽りのない感謝の言葉だった。
「俺たちはまたすぐ会える。この世での仕事を終えれば、後は天に昇るだけだ。」
ウォルターは一つ大きな伸びをすると、じゃあ、俺は可愛い女房が待ってるので、とやに下がった顔で出て行った。
ガウディは、深々と頭を下げた。
それは女王陛下にするような、最上級の敬礼だった。
そしてビビの目からは一筋の涙が流れた。
それは温かい涙だった。