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~日食~
つまり、こういったばか騒ぎが出来るというのは、この国が平和だという証拠なのだろう。
今日は聖暦1866年8月13日。一年に一度の皆既日食の日だ。唯一絶対神である太陽神だけを祀っている、エウロパ大陸の諸国や、その大陸の西に位置する小さな島国、我がアンガリア帝国でも、ご神体である太陽が一時であれ空から消えるという現象はかつては最悪の事態だった。
昔の人々はパニックに陥り、王侯貴族、神官達は半狂乱で拝みまくっていたらしいが、現代では科学によって「ただの天体の重なり」と周知されているので、ちょっとしたイベント、とでもいったところだ。
神の神聖性が薄れてしまっているといえる。
で、こんなときには何があるかといえば、祭りだ。
恐らく各都市や農村では、それぞれの趣向を凝らしたどんちゃん騒ぎが行われているのだろう。
王侯貴族、官僚、役人達はといえば、こうやってバブルガム宮殿に集まり、野外で食べて、飲んで、踊って、しゃべって、朝まで過ごす予定だ。
こんなことが出来るのは、大陸広しといえども我が国だけだろう。
なにせ奇跡の100年といわれるほど、他国との戦争を行っていない。
そんな状況を作り出したのは、他国とはちょっと違う支配体制が基盤にある。
それは、上に立つものが徹底的に下のものがしたことに責任を負う、というものだ。下に位置するものは、思い切って何でもでき、そのおかげで国は様々な面で発展し、上に立つものはその失敗の責任を負うことで、普段は偉そうにふんぞり返っていられるし、その立場でいられることに誇りを持っている。
そのシステムによって強大な経済力と軍事力を手に入れたアンガリア帝国は、大陸の他国に対し、手を出さないから、お前たちも手を出すな、という内容の条約を(半ば強引に)結ばせた。今から約100年前のことだ。
この国には、「国王は、君臨すれども統治せず、ただその首を捧げる」という言葉がある。
もちろん、現国王であるヴィルザベス女王もその精神をしっかりと受け継いでおられる。
若干18歳で王位についた際、臣下や官僚たちに自身のことを「この国で一番高貴な生け贄」とたとえ、暗に女王の首がかかるくらいのことを死ぬ気でやれと言い、気を引き締めさせたという。
それから42年。今年で御年60歳になれれる女王陛下は、今だだっぴろい中庭の中央を陣取り、パーティーに呼ばれた者たちから挨拶を受けている。彼女は一言で言えば、女傑だ。平民風にいえば肝っ玉母ちゃんだ。見た目は上品な細身の女性なのだが、何ともいえない威圧感がある。ここで彼女の武勇伝を紹介できないのは非常に残念だ。
この国では、太陽神は男神なので、女王が立つと喜んで加護をするので、国が栄える。という俗信があるが、まあ、あながち嘘でもなさそうだ。事実、わが国は歴史上類を見ないほど栄えている。
何はともあれ、平和とはいいものだ。
「おーう、ガウディ。楽しんどるかー?」
「ああ、旦那様。」
私はうやうやしく腰を折った。
「何だね何だねー。いい若いもんが何やら難しい論文について考えているような顔をしおって。よし、わしが可愛い娘さんを見繕って紹介してやる。」
あんたが若い女としゃべりたいだけだろう。
なんて、口が裂けても言えない。
すでに酒類を大量に摂取し、できあがってしまっている彼は、ホット・ビタミン伯爵。
私が今仕えている名門貴族だ。
いい人だ。いい人なんだが・・・。
その後、ガウディは卵のお化けみたいなビタミン伯爵に連れまわされた。
何人もの結婚前の淑女に対して「ビタミン伯爵にお仕えしている、執事のガウディ・ニトロと申します。本日はあなたのようなお美しい方とお会いできたことを、心から神に感謝します。」と心にもないことを言わされた。
最初はガウディの整った外見に頬を染めていた乙女たちが、執事と聞いて目を血走らせ身を乗り出してくる。昔は執事といえば高貴な家の中の家事や事務を監督する職だったが、現在では貴族自身に代わって事業をする、金銭面での実権を握るもののことをいう。もちろん平民出身だが、階級意識というものもこの国では大分薄れてきているため、未婚のレディには優良物件なのだ。ビタミン伯爵にも2年前に「うちの娘の婿になってくれ」といわれたが、丁重にお断りした。あんなわけのわからん小娘と結婚するなら、壊れた蓄音機と結婚したほうがましだ。動かないし、しゃべらない。
つい昨日は、客間のソファに貴族の令嬢にあるまじき格好で寝そべり、下級労働者が食べるようなふ菓子をむさぼりながら、「あー、人魚姫になりたい。」などとほざいているのを目撃したときは、心底人を絞め殺す権利が欲しいと思った。
思い出して拳をぐっと握りしめる。
すっかり目の前の女性の存在を忘れていたら
「あのう…、ガウディ様、お給金はいくらほどいただいてらっしゃるの?」
と、身をくねらせながら、まぶたを秒速で動かし、斜め下から見つめてきていた。
なんで初対面の税金食いつぶしにそんなことを教えなくてはいけないのだ。それから馴れ馴れしくファーストネームで呼ばないでほしい。
なんだこれは。なんの我慢大会なんだ?
私はこの貴重な休みをこんなことをしながら朝まで過ごす気など毛頭ない!
急いでビタミン伯爵に助けを求める。
いつの間にかいなくなってるじゃないか!
卵のお化けは遥か彼方で誰かと一気飲みの競争をしていた。
奥様!奥様をダシに使おう!
痩せた狐を思わせるビタミン伯爵夫人は、ライバルの貴婦人たちと自慢合戦の最中だった。目が笑ってない。あの中に飛び込むのは、猛獣の群れに飛び込むようなものだ。まだ死にたくない。
タルト坊ちゃまは?!
あの親達から生まれたとは思えないほどの美少年である次期ビタミン伯爵は、これまた中身もあの親達から生まれたとは思えないほど聡明で頭脳明晰だ。
目を引くのですぐに見つけた。中央の噴水で、将来の税金食いつぶし達に取り囲まれている。ここと状況は変わらない。却下!
ということは、必然的に脱出に使えるのはビタミン家最後の一人しかいない。
あの人には関わりたくない!が、これが朝まで続くよりはましか・・・!
ガウディは、広場の端の、食事スペースに目をやった。彼女を探すとき、食べ物があるところを探せばまず間違いない。
いた!
18歳にしては小柄な身長。貴族的な素晴らしい金髪は完璧な縦ロール。プティングのような滑らかな肌。そこまではいい。眠たそうなオレンジの瞳。だらしなく開いたピンクの唇。出るところも、出てないところもない寸胴。そして、よりによって深紅のドレスに同色の幅の広い帽子がこの上なく似合っていない。淑女の必須アイテム、傘も差していない。慣れないヒールの高い靴を履いているのだろう、赤子のようにおぼつかない足取りだ。
最悪だ。本当に貴族か?
彼女は子供のように人差し指で唇を押さえ、テーブルに並んだ菓子を眺めると、何を思ったのかおもむろに帽子を脱ぎ、その中にザバーっと菓子を流し込んだ。
そしてそのまま、誰もいない宮殿の中へ急いで、しかしよたよたと入っていった。
おいおい!何やってんだ!?
その意味不明な行動も、年に1度は役に立つ。
「おおっと、ビビお嬢様が立ち入り禁止区域に入っていかれた。お止めしなければ。申し訳ございません。私はこれにて失礼いたします。」
大げさに深々とお辞儀をすると、大股でその場を立ち去る。もちろん相手には何も言う暇を与えない。残されたレディはしばらく呆然と立ちつくしていた。
「あーもうっ!足が痛い、頭が重い、ウエストが苦しい、ガウディが相手してくれないっ!」
せっかくおしゃれしてきたのに!
先週の晩餐会で、ガウディがカプリチョ男爵令嬢に、
「お召し物が大変よく似合っておいでですね。」
とか、
「私は赤いドレスが一番好きですよ。」
とかをとろけそうな笑顔で(男爵令嬢は事実とろけていた)言っていたから、いつものウエストだぼだぼじゃない、流行ものの赤~いドレスを着てきたのに!
あれ、全然気付かないぞ?と思って周りをうろうろしてたのに!
気付いてくれるどころか、他の女の子にでれでれして!
2年前、お父様に「ガウディと結婚せんか?」といわれて、あたしはすっかりその気になってた。
最初は、そっけない態度にもう~照れちゃって~、かわいいんだから~と思ってたけど。
半年前から、もしかしてガウディってあたしと結婚する気ない?と思い始めた。
そして最近、彼が親しい友人に「伯爵家で働いているのは役人になるためのコネ作りだ。」といっているのを盗み聞きしてからは、あたしを騙したのね~っむしろ最初からその気なんて全然ないの?と思ったが。
時すでに遅し。
「好きになっちゃってるんだもんな~。」
そうとわかってからも、他の令嬢同様に、自分なりにガウディの気を引こうとがんばってきた。
なのに、全く相手にしてくれない。あたし、結構イケてる方よ?
「こうなりゃやけ食いもしたくなるってもんよねー。」
どうせするなら普段入れない豪華な部屋で、
と思ったのに、どの部屋も鍵がかかっている。
「くそー。宮殿のメイドもなかなかいい仕事するじゃない。」
おかげでこっちはもうへろへろ。
もう、どこでもいいかも、と左手を壁につけて一休み。
と思ったら。
「おううあ~~。」
そこだけ鍵がかかっていなかった。
吸い込まれるようにその部屋に倒れこむ。
「いった~い。あ、お菓子こぼれちゃった。」
いそいそとお菓子をかき集め、帽子に入れなおして、辺りを見回す。
「うわ~。ここ、なんだろ?」
ドーム型の天井には、鮮やかな色彩で天体図が描かれている。円形の室内には様々な珍しい調度品がおかれている。そして、薄い大きなガラス窓からは柔らかな光がもれてきて、なんとも居心地の良い雰囲気だった。
「あたしって、こういう場所を見つけるのって、昔からとくいなんだよね。」
窓にへばり付き、外を眺める。皆が集まっている広場がずいぶん遠くに見える。
「ここって、もしかして離れの開かずの塔の最上階?」
バブルガム宮殿は天におわします太陽神に近づくように、空高くそびえているが、向かって右端に中世の城の名残がある。貴重な文化遺産ということでそのままにされているが、なんとも薄気味悪いのであまり近づく人はいない。とはいえ未だに宮殿の一部ではあるので、ビビもいつのまにやら入り込んでしまっていた。
「えへへ。見晴らしいいなー。風が入ってきて涼しい!」
遠慮なく、窓を全開にする。
さっきまでのガウディへの不満はどこへやら。上機嫌で窓際の大きなソファに寝そべると、戦利品のお菓子に取り掛かる。
「うふふふふふ。やっぱり宮殿のパーティーで出されるお菓子は一級品!まったりとしていて、それでいてくせがない!」
ビビは、両生類みたいに、にぱーっと笑うと、欠食児童のようにむさぼり食った。
帽子にこんもりと盛られていた菓子も無くなりかけたころ、ビビはつい、うとうとし始めてしまった。
どこでも寝れるというのは、ビビの数少ない特技の一つだ。
右に、左に、首が振り子のように振れる。
意識が無くなりかけたころ、右側に大きく首が振れ、その勢いでそのままゴトっとソファから落ちてしまった。
「痛い・・・・。もう朝・・・・?」
なぜか強打した腰を老婆のようにさすっていると、頭上から何かがぱらぱらと落ちてきた。
「あっ。お菓子―。ラッキーラッキ―。」
急いで天からの恵みものをかき集めていると、右手が黒い物体にぶつかる。
大きな黒い、磨き上げられた革靴。
それも、超一級品の。
つむじあたりに感じる視線が痛い。
視線が刃物なら、ビビはすでに死んでいる。
とてつもない、無言の重圧。
それだけで、そこに誰がいるのかわかってしまった。
こんな芸当ができるのは、ビビが知る限り、女王陛下か、あの男しかいない。
おそるおそる靴の先を辿っていく。
「ガ、ガウディ……。ハロー。」
なんでここにいるのっ!?
その男は、確かにそこに立っていた。しかも仁王立ちで。
きっちりと撫で付けられた真っ黒な髪。形のいい眉毛はぴくぴくしている。これまた真っ黒な瞳は静にビビを見下ろしている。その瞳を覆うのは銀縁の眼鏡。一分の隙もなく着こなされた、またまた真っ黒なタキシードは180cmを超えるすらりとした長身を包み込んでいる。
胸元にはいつもの一秒の狂いも無い懐中時計。
そして、なぜか両手いっぱいのお菓子。
ああ、これから起こることは確実に予言できる。
断言しよう。
私は今から怒られます。
「…お嬢様、人の家に勝手に入ることは犯罪です。」
説得力のある感情を抑えた低い声が降ってくる。恐らく他にも言いたいここはいろいろあるんだろう。
ここで、その家にガウディも入ってきてるよ。それに家っていっても宮殿だよ。女王陛下は別のお城に住んでるよ。なんて反論しようものなら徹底的かつ、論理的にやっつけられる。
こういう時は話題を変えるに限る。
「よく居場所がわかったねー。あ、匂いをたどってきたとか?」
「ヘンゼルとグレーテルという童話をご存知ないですか?それから、話題を変えないでください。」
どうやら、ここに来るまでずっとお菓子をこぼしてきていたらしい。
それを拾う仏頂面のガウディ。
想像すると、なんか微笑ましい。
「何をにやにやしてらっしゃるんですか。気持ち悪いですよ。それに、よだれが垂れてます。」
乙女に向かって真顔で気持ち悪いなんてよく言えたものだ。
袖口で急いで口をぬぐう。
あ、お菓子のくずもついてた。
次は、盛大なため息が落ちてきた。
「あなたは本当に500年の伝統ある名家、ビタミン家の一員なんですか。もう少し、自覚を持たれてください。」
「ほいほい。」
「もっとしっかりとした言葉遣いをされてください。」
「イエス、サー!」
「あなたに貴族の自覚を求めた私が愚かでしたよ。」
そういうと、ガウディはバサっと抱えていたお菓子をビビにぶちまけた。
起き上がるのに、手も貸してくれない。
ああ、ほんと、なんでこんなきつくて、不機嫌な顔しか見せない男が好きなんだろう。
でも、怒った顔もかっこいい…。
複雑な乙女心だ。
仕方なく、自分ひとりで立ち上がる。
「あ、どっこいせっと。」
ガウディは、その様子を腕を組んで野良犬でも見るような目つきで眺めている。
が、次の瞬間ビビを見ていたことを後悔したようだ。
ビビはスカートの裾をむんずっと掴むと、上下にバッサバッサとまくりあげた。おかげで、太ももまで丸見え。シルクの靴下も丸見え。全く似合わない黒いハイヒールもおまけに見えた。山や海で働く乙女もしないようなはしたない行為だ。
ガウディがあ然、呆然としていると、ビビは視線に気付いて、えへへ、と笑った。
「お菓子のクズがいっぺんに取れるんだよ。」
ガウディは、あー嫌なもの見た、と、右手で頭を抑えるとまたしてもため息をついた。
次の一手が繰り出されないことに安堵すると、ビビはガウディが何か楽しい話題、例えば今日のドレスをほめるようなことを話しかけてくるのを期待した。
しかし、悲しいことにこの非情な男は、静かな一室に男女二人きりという最高なシチュエーションにも関わらず、ビビを無視して部屋を見渡したり、変なおっさんの彫刻に見入って、
「ほう、これは非常に興味深い。」
とかつぶやいている。
なんでそんな半裸のおっさんが興味深いのよ。ここにぴちぴちの若い乙女がいるというのに!
「それ、何?」
「おや、お嬢様もこの彫刻に興味がおありですか。」
興味など、全く無い。
ただ、なんでガウディが半裸のおっさんに惹かれているのかが気になる。
「この彫刻は、通称『憤死のガーリック人』と呼ばれるもので、聖暦前1世紀ごろ極東で起こった米騒動を、旧ルネッサンス期に活躍した巨匠ミケネコ・ダ・ヨーダがその米に対する情熱を称え、死ぬまで制作を続けたものの完成に至らなかった呪われた作品です。まさかこの目で拝める日が来るとは。神よ、この幸運に感謝します。」
「ふ、ふーん。」
よく見ると、なるほど東洋風の格好で、米俵を担いでいる。何がすごいのか結局わからなかったが、とにかくすごいらしい。
何となく気がそがれ、しばらくは珍しく饒舌なガウディのそばをうろちょろしていたが、全く相手にしてくれないので、諦めてビビも置かれている様々な調度品を見ることにした。
ふと、一つのタピストリーの前で立ち止まる。
特に綺麗だというわけではない。というよりも、ところどころほつれているし、色もくすみ、モザイク調に編みこんである絵柄は、兵士が馬に乗って異国風の格好をした人々を追いかけており、あまり気持ちの良いものではない。
右端には、一段と大きく描かれた人物が太陽を背に仁王立ちしている。その反対の左端には三日月が多数の矢を刺され、兵士に踏み潰されていた。
「ああ、これは太陽王ウィルハム1世のヘルスライディングの戦いを象徴的に編みこんであるタピストリーですね。」
「あ、知ってる。ハムの人。」
「あなたの知ってる、は非常に疑わしい。本当に知ってらっしゃるんですか?」
「知ってるってば。ほら、あのー、99年戦争のときの黒太子でしょ。いやー、彼は実に勇敢な青年であった。」
「それはエドモンド3世です。約300年の違いがありますね。太陽王は今から800年前の人物で、99年戦争は約500年前の出来事です。」
「あ、そうだったっけ?」
「もう少し我が国の歴史を勉強されてください。あなたは、500年の歴史を持つ、わが国でも、有数の名家である、ビタミン家の血を受け継がれている、高貴な方なのですから。」
ガウディは嫌味のように、一言一言をゆっくりと子供に言い聞かせるように言った。
いや、間違いなく嫌味だ。
こういう時は、話題を変えなくては。
さっきはうまくいかなかったので、慎重に話題を考える。
「この追いかけられている人たちはキルト人…だよ…と思う…けど。」
「確かにキルト人です。彼らはこの戦いによって完全にノーマン人に支配されましたからね。長年行われた同化政策によって今は存在していませんが、月の女神を祀る勇猛な民族だったようです。」
見事に食いついた!
作戦成功!
その後も一人でキルト人の文化について延々と語っている。
これでしばらくはお小言を言われなくて済みそうだ。
それにしても、ちょっと肌寒い。
いくら夏の正午とはいえ、窓から容赦なく入ってくる風に当たり続けていると体温調節がうまくいかない。なんせ今日は背伸びして少し大人な露出度の高いドレスを着てきたのだ。
やば、くしゃみでそう。
こらえろ!
がんばれビビ!
だが、りきんだのが良くなかった。
「ぶういぇくしゅんっっ!!」
ビリッ!
ゴンッ!
ドタッ!
一瞬のできごとであった。
くしゃみした勢いで、両手でタピストリーをつかみ、そのまま引きちぎり、壁に顔面を打ちつけ、反動で後ろに倒れた。
そこにあったのは、貴重な歴史遺産(無残に引き裂かれている)の上に死んだ蛙のように横たわる令嬢(一応)の姿だった。
ガウディは人生でこれほどどうしようもない事態に直面したことはなかった。
「神よ、この世界一腹の立つ小娘の上にどうか天罰を落としたまえ。」
ガウディ・ニトロという男は、神に感謝することはあるが、何かを願うというということはしたことがなかった。
だが、この瞬間初めて神の力を借りることを願った。
とはいえ、天の神というのはえてして気まぐれで。
ほとんどの場合は、自分で何とかするしかないのだ。
「大丈夫ですか、タピストリーは。」
「わたひわしんぷあいひなくても、へーきらよ。」
「なんと痛ましい。ああ、しかしこのくらいの裂け具合ならば、修復可能でしょう。大事なタピストリーが、一応無事でよかった。」
鼻を強打したのか、両手で顔を押さえて笑いかけてくる令嬢を完全無視して、タピストリーをなでる。
ぽたっ。
全体的に茶系のタピストリーに、何故か深紅の染みが出来ている。
その染みは、みるみるうちに広がり、人の顔ぐらいの大きさになった。
顔をあげると、ビビの両手の間から赤い液体がどんどんこぼれている。
「は、はにゃじがとまんないよ~っ。しんじゃう~っ。」
「頼むからそのまま永遠の眠りについてくれ!」
そうしているうちにも、染みはどんどんひろがっている。
「やら~っ。まらしにたくない~っ。」
「鼻血ぐらいでは死にませんっ!ほら、手をどけてください!」
無理やり両手を引き剥がすと、右の鼻から赤い血脈が流れ出ていた。
未だかつてこれほどまぬけな人間を見たことがない!
怒りに任せて、綿のハンカチをその源泉の穴に突っ込んだ。
「いひゃい~っ!」
「あなたは黙っててください!」
なんとかこのタピストリーの染みを消さなくては!
そうだ、今のうちに洗い落とせばいい。
さっそく作業に取り掛かろうとした瞬間。
世界がゆっくりと闇に包まれてゆく。
「しまった。日食が始まったか。」
「ふえ~がうでーどこー!まっくららよー!」
中庭のパーティー会場の方からは、楽しげな歓声が聞こえてくる。
あそこならば、かがり火ぐらいは焚いているのだが、あいにく室内は何の用意もされていない。
いそいでビビの腕らしきものを掴む。
「わわわっ。」
世界は暗黒になった。
しかし、なぜだろう。
ゆっくりと体が沈んでゆくようなこの感覚は。
ばか騒ぎの声達も、だんだんと遠ざかっていないか?