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第6話 あの日、あの場所で

6.あの日、あの場所で

 豆腐屋の仕事を終えた大澤が、西嶋酒店を訪れる。丁度店番をしていた勇吾の母が元気な声を出す。

「あ~ら、ひろちゃん、こんにちは。すっかり立派になっちゃって」

「おばさんこそ、お変わりなくて」

母は声高らかに笑った。

「ひろちゃんなんて呼んだら、もう悪いみたいな大人になっちゃって・・・」

そう言って、もう一度大きな口を開けて笑った。

「勇吾ね、今配達行ってんの。もうすぐ戻ると思うから、中で待ってて」

「じゃ、お邪魔します」

「夕飯食べてったら?」


 店の奥に繋がってる自宅で夕飯を一緒に食べ終えると、大澤は勇吾の部屋へと上がっていった。

「お前の部屋、変わってねぇなぁ」

「そう?」

暫く部屋の中を見回してから、大澤は床にあぐらをかいて座った。

「この前、真奈美ちゃんに会った」

「会えたんだ?」

「で、一緒に飲みに行った」

少し驚いた顔を大澤に向けた。

「良かったじゃん」

「でさ、俺思ったんだけど・・・」

机に寄り掛かって、大澤の次の言葉を待つ。

「真奈美ちゃんの事、ちゃんと振ってあげた方がいいよ」

それを聞いて、勇吾の瞬きが止まる。

「・・・どういう事?」

「だからぁ、公園で5年前か?会えなかっただろ?その時の決着をちゃんと一回付けた方が良いって事」

「・・・今?」

無言で頷く大澤に戸惑う気持ちを抱え、勇吾は机から背中を離した。

「ビール、持ってくるわ」

 一旦下に降りた勇吾が、缶ビールとつまみを持って戻ってくる。

「おっ!さすが酒屋!」

プシュッとビールのタブを開けて、一口飲むと大澤が言った。

「真奈美ちゃんの中で、まだ終わってないんじゃないかな」

「・・・・・・」

「あっ、お前も今 後ろ髪引かれた?」

試す様な目つきで、大澤が勇吾をじっと見た。

「んな訳ないだろ?そんな目で見んじゃね~よ」

「お前も薄々感じてたんだろ?何年か振りに会って、真奈美ちゃんと話して」

柿の種を2~3粒口に放り込んで、勇吾は首を傾げた。しかしその傍らの頭の隅では『好きな人がいる』と言った真奈美を思い出したりする。

「まさか・・・」

そう言葉が漏れる。

「だって俺に彼女がいる事も知ってるし、それ以上、何を言う必要があるんだよ」

「彼女がいるとか、そういう事じゃないんだよ。一旦けじめって言うか、区切りをつけるっていうか・・・」

「何も言われてもいないのに、振るって おかしいだろ」

「う~ん・・・」

「お前が何聞いてきたか知らないし、何を根拠にそう言うのか知らないけど、俺から真奈美ちゃんに何も言う事はない」

「そうやって、お前も逃げてんだよ」

「何から逃げんだよ?!」

「あの日、真奈美ちゃんが急に来られなくなったって言ってたんだよな?それ、何でか聞いた?」

「だから、具合が悪くてって・・・」

「あの時の話、ちゃんと一回して来いよ」

勇吾はぐびぐびと飲んで、缶を空にした。


 大澤が帰った後で、勇吾は携帯の画面を眺めていた。

『今好きな人がいます』

『真奈美ちゃんは一途なんだね。ここまで真っ直ぐで一途に思われる彼って、どんな人なんだろう。かなりの幸せ者だね。気持ち伝えないの?』

『実らないの分かってるから、言いません』

そんな先日のやり取りを思い出す。本当に大澤が言う通り、彼女があの日から気持ちが止まってしまっているとしたら・・・それを俺がどうにか出来るものなのか?俺自身も・・・あの日に方をつける事から逃げているのだろうか・・・。

“北沢真奈美”のアドレスが表示された画面を暫く眺めてから、大きく深呼吸を一回すると、指が動き出した。

『今度一回、会えないかな?』


 突然の勇吾からのメール、そして内容が誘いのメールに、私は返事を躊躇していた。どういう意味だろう。また大澤との機会を作る為のセッティングだろうか?でも、何故か今までのメールと少し違う気がする。そんな根拠のない勘に不安を抱いて、少しそのままにする事にした。夜の10時頃に来たメールに何の返信もしないまま、次の日がやってくる。夜の8時頃になって、再び勇吾からメールが届く。

『昨日のメール、突然で変な風に思ったかな?大澤と一緒とか、そういうんじゃないから』

それを読んで、一つの疑問が消え、また一つ新たな疑問が生まれる。“じゃ、何?”そう率直に聞きたい所だが、まさか聞ける訳もない。だから、昨日に引き続き、何て返信していいのか迷ってしまう。急にどうしたのだろう。昨日よりも大きく膨れ上がった不安を必死で抑えるように、深呼吸をしてみたりする。

『急に、どうしたんですか?』

思い切って送ってみる。すると、待ってましたとばかりに、すぐに返信がある。

『そう思うよね。急にごめんね。ちょっと、話したい事あって』

話したい事とは一体何なのだろう。・・・もしかして大澤から、この前した話を聞いてしまったのだろうか?そんな不安が勝手にどんどん大きくなる。

『話したい事、ですか?』

『仕事の後でも、会える時ある?』

約束を詰めてくる内容に、私の胸はぎゅーっと縮こまった。もはや嫌な予感しかしない。だから、卑怯だが、返信をしないで逃げた。


 南ヶ丘駅での偶然を期待した日が懐かしい。今は、悲しいかな、その偶然がない事をひたすら願っている。だから私は、仕事帰り、わざわざ駅の向こう側まで回って、反対の出口から駅に入る様にする。何と馬鹿な事をしているんだと、自分でも思う。でも、今は偶然の方が怖いのだ。

 今日も夜になって、勇吾からメールが届く。

『毎日、しつこくてごめんね。少しだけ時間作ってもらえないかな?』

きっと私がこの待ち合わせに乗り気でない事は、伝わっている筈だ。しかし、そう分かっていても、毎日諦めずに約束を取り付けようとしてくる彼の、その本心は何なのだろう。

『最近、仕事が忙しくて。ごめんなさい』

どんな理由にせよ、せっかく彼と二人で会えるチャンスを、自分から遠ざけている事が悲しい。でも、会える事だけを喜ぶ無邪気さも もうない。

『お休みの日は?』

どうしてそんなに急いで会いたがるの?そんなに重要な話なの?そんな疑問が心の中で叫んでいた。


 結局そんなメールのやり取りがとん挫したまま土曜日を迎える。今日は南ヶ丘駅に行かなくていい日だと思うと、少しホッとする自分がいる。その日夜になってもメールは無かった。そうだ。きっと彼女とデートしているのだ。だから私からのメールも送らないに限る。もっとも、何て返事をしたらいいか分からない位だから、送るつもりなど無いのだが。

 次の日の日曜日もメールはない。土日お休みの彼女との一週間に一度の大切な時間を、きっと楽しんでいるのだ。そんな当てずっぽうな想像を膨らませて、連絡が無い事に変に安心する自分と、彼女と過ごす勝手な映像が頭の中でよじれる。いいんだ。彼に彼女はいるけれど、偶然会えば笑顔で話をしてくれる。連絡先も知っている。その気になれば電話だってメールだって出来る。“高校時代の知り合い”として、立派に成り立っているこの関係を壊したくない。彼女がいるという事だけ除けば、私の理想に限りなく近い関係だ。そこに変化が起きる様な話を、彼はしようとしているのだろうか。今私が一番怖い事は・・・彼と会えなくなる事ではない。彼と連絡が取れなくなる事でもない。君の事好きじゃないとはっきり言われる事でもない。私が彼を好きでいてはいけなくなる事が一番怖い。


「でも、よ~く考えてもみてよ。好きになっちゃいけない理由なんて無くない?誰を好きでいるかなんて自由だし、妻子持ちなら分かるけど、そういう訳じゃないし。彼が呼び出して、『俺の事好きにならないで』なんて言う訳なくない?もし万が一言ったとしたら、相当のナルシだね。そんな奴ろくなもんじゃないから、さっさと忘れて次行った方がいいよ」

定時に仕事を終えて、駅までの道のり、えれながまくし立てる。しかし聞いていると、もっともだ。つい聞き入ってしまって、反対の出口へ遠回りして駅に行くのを忘れてしまう。えれなはここからバスに乗る為、こちら側のターミナルだから仕方がない。

「ま、そうあんまりビクビクしないで会ってきたら?」

そう言われれば、そんな気もしてくるから不思議だ。でもやはり、そんな風に思えていたら、逃げてばかりいない筈だ。

 駅前でえれなと別れ、駅のエスカレーターに乗る。定期を片手に改札を入ろうとしたところで、呼び止められる。

「真奈美ちゃん」

とっさに嫌な予感を感じ、強張った顔で振り返る。と、そこには私が逃げ続けてきた彼の姿があるではないか。

「先輩・・・」

とっさに勇吾が苦笑いを浮かべている。

「嫌な奴に会っちゃったなって顔してるね」

私は首を横に振ったが、やはり顔は強張ったままだ。自分でも分かる程だ。

「俺が“話がある”なんて言ったから、ちょっと身構えちゃってるんだよね?」

「メール・・・返さなくてごめんなさい」

勇吾は返事の代わりに、少しの笑顔を見せた。

「土日は彼女と過ごしたりしてるかと思って・・・メールしませんでした」

「ははは・・・。気を遣ってくれたんだね。ありがとう」

私は迷っていた。もしこれから少し話そうと言われたら、えれなに背中を押された通り、それに応じようか。それともやはり、今日は時間がないと断ろうか。

「話っていうか・・・聞きたい事があって」

“聞きたい事”?益々分からない。混乱している間に、追い打ちを掛ける様に、勇吾は次の言葉を繋げた。

「ちょっとだけ・・・ほんのちょっとだけ、時間くれない?」

一体何を聞かれるというのか・・・。私がどう返事をしたのか覚えていない。


気が付くと、夜の街を彼の後をついて歩いていた。ターミナルを通り過ぎ、真っ直ぐ歩く勇吾が向かった先は、高校の卒業式の日、一向に来ない私を待った公園だった。公園に足を踏み入れるのが躊躇われる。ここで、一体何の話を聞きたいというのだ。公園には少し落ち葉があって、時々風でカサカサ言う。ベンチの前で彼は立ち止まって、こちらを振り返って笑顔をくれた。

「ここ、座ろっか」

多分、私が警戒心丸出しの顔だから、笑顔でほぐしてくれようとしているのだろう。

 座ってから、すぐに話し出さない。言葉を選んでいるのか、それとも切り出しにくい事なのか、また私の胸はいっぱいになる。破裂寸前みたいだ。

「高校の時さ、時々電車で一緒になったよね」

「はい」

「文化祭の日も、友達と来てくれたんだよね」

「・・・はい」

思い出話に相槌を返すので精いっぱいだ。

「その後受験が近くなって、電車で会う事も無くなっちゃったけど、一回帰りの電車でバッタリ一緒になったの覚えてる?」

「はい」

「あん時、俺の好きな曲聞いてもらってさ。そしたら、真奈美ちゃんもそれ気に入ってくれて」

あの時二人で半分ずつしたイヤホンから聞こえてきたメロディーまで甦ってくる。あれからあの曲を何度も聞いて、歌詞まで覚えてしまった程だ。あの歌詞は、男の子が好きな女の子への気持ちを歌った曲で、勝手に嬉しくなっていた昔の懐かしい思い出まで掘り起こされる。

「バレンタインの日、駅の改札の前ですれ違ったの覚えてる?」

「・・・はい」

「あの日さ、学校が閉まるギリギリまで勉強して校門出たらさ、同じクラスの女子と駅まで一緒になったの。そしたら真奈美ちゃんが駅に居て・・・思わず俺 勘違いされたくないなって思った訳なんだけど・・・」

“え?それってどういう意味ですか?”と聞きたかった。でも、とても聞ける勇気は無かった。すると相槌のない私を察して、彼が補足した。

「日が日だっただけに、俺勝手にその女子と勘違いされたんじゃないかって思っちゃって」

その通りだった。しかし今更、そうとは言えない。

「で、よくよく考えたら、何で真奈美ちゃんがあんな時間にあそこに居たんだろうって思って・・・」

急にドキドキ心臓の鼓動が激しくなる。

「もしかして俺の事待っててくれたのかな・・・なんて虫のいい事考えちゃった訳なんだけど」

「・・・・・・」

「でさ、確か次に会った時に『改札に居た?』って確認したと思うんだ。そしたら『友達待ってた』って言うから、あ~何だ、やっぱりねって、うぬぼれた勘違いをした自分を恥ずかしく思ったんだけどさ。でもさ、もっと良く考えたら、誰か別の・・・好きな人を待ってたのかもって思って」

そこまで聞いて、私は首を横に振った。

「違います。そんなんじゃないです」

勇吾ははははと笑った。

「そうなんだ。じゃ、そこは俺の勘違いだったんだろうけど」

もう一度勇吾はゆっくり息を吸った。

「多分、あの時、俺真奈美ちゃんの事、好きになりかけてたと思うんだ。だから、もっと話したかったし、もっと知りたいって思ってた。だけど、卒業式までなかなか会えなくて、結局自分から誘う事も出来ないまんまで。多分、『電車で時々会うだけの人だ』ってフラれるのが怖かったんだと思う。格好悪いけど、男らしいとこ見せらんなくて」

私は黙って首を振った。

「そしたら真奈美ちゃんから意外にも、卒業式の後会えないかって声掛けてくれて、素直にすっごく嬉しかった。だから、来たら俺の気持ちを伝えようって、勝手に盛り上がってて。もちろん緊張もしてたけど、多分卒業だっていう勢いもあったんだと思う。当たって砕けろ的な」

そこで勇吾はもう一度はははと笑った。しかし一方で私は、膝に置いた鞄にしがみついて、自分の緊張と闘っていた。

「で・・・」

いよいよだ。いよいよ、来た。一体その後にはどんな言葉が続くのか、待っている時間が異様に長く感じる。

「真奈美ちゃん、その日 急に具合悪くなって来られなかったって言ってたけど・・・どうしたの?」

「・・・・・・」

「いや、来なかった事をとがめるとか、そういう事じゃなくて・・・。やっぱ俺、フラれたんだよね?」

「・・・・・・」

「それとも、来たかったのに、どうしてもお腹が痛かったとか、熱出しちゃったとかさ、そういうの一切聞かなかったから。そこんとこ、はっきりさせておきたくて」

「・・・ですよね」

勇吾がこっちを見ている。もう逃げられない。そして、もう嘘はつけない。

「私、場所間違えてて・・・。ごめんなさい!」

「え・・・?!違う所で待ってたの?」

「・・・はい」

「どこで?」

「『電車から見える』って言われたのを『線路沿い』って勝手に勘違いしちゃって・・・」

勇吾の頭の中で、線路沿いの公園を探している顔をしている。

「そうだったんだ・・・。ごめんね。俺がもっとちゃんと分かる所言えば良かった」

私は首を横に振った。そしてとうとう、勇吾が最も核心の部分に触れてくる。

「あの日真奈美ちゃんは、なんで俺を誘ってくれたの?」

「・・・・・・」

『今更、それ聞く?』と心の中で叫ぶ自分がいる。しかし、声には出来ない。すると、それを感じ取ったかの様に、勇吾が笑ってごまかした。

「今更、変か、そんな事聞くの」

そうだ、変だ。あの時ならまだしも、今は確実に『ごめんね』が返ってくる。そしたら、あの時と今とで2回フラれた感じになる。いや、今までの想い全てが粉々に散っていく感じがする。そう思った途端に、急に悲しくなって、涙が込み上げて来てしまう。やばい。このタイミングで泣くなんて、多分ルール違反だ。それに、今この流れで泣いている事がバレたら、好きだと言っているのと一緒だ。私は必死になって、感情を心の中で押し殺し、隣に分からない程度に深呼吸をしてみたりする。

  しかし、隣に座る私の異変に気が付いたのか、勇吾はこっちに顔を向けている。暗くて良かったと、この時心の底から思った。

「・・・大丈夫?」

今こんな事を言うって事は、もしかして私が答えられずに泣いてしまった事に、気が付いてしまったのだろうか。辺りは変な空気が立ち込めていた。でも、私にそれをどうする事も出来ない。

「あの日会えなくて、何となくその事も曖昧にしちゃってたけど、真奈美ちゃんは大丈夫?俺にすっぽかされたと思って、心の傷になったりしてない?」

今は駄目だ。そんな優しい言葉を聞いたら、必死で抑えている感情の蓋が緩んでしまうじゃないか。『もう過去の事だから忘れてね』とか『今はもう好きじゃないから』ってフラれる事ばかり恐れていたけど、思いがけなく優しい言葉を掛けられたら、私はどうしたらいいのだろう。涙を堪えるどころか、次から次から溢れ出してしまう。もう下を向いて、髪の毛で顔を隠すしかなくなる。そして膝に抱えた鞄に、いくつも雫が落ちた。

「変な事、ほじくり返してごめんね」

「・・・・・・」

黙って首を横に振る。それで精一杯だ。

「かえって、気まずくなっちゃったね」

「・・・・・・」

また首を振る。勇吾も黙ると、そこから一切音が消えた。そして時々公園の前を通る車やトラックの音が、薄暗い空間を走り抜けて行くのだった。

「バレンタインの日・・・先輩に会えればいいなと思って、駅で待ってました。チョコ・・・貰ってもらいたくて・・・」

勇気を出して、そう話してみる。やはり想像通り、勇吾はこっちを向いて固まった。

「・・・ごめんね」

思い切って一つ口から出してみると、次も話せそうな気になってくる。そうだ。5年前のすれ違った悲しい出来事に、一旦心の中で区切りをつける為にも 話してしまった方がいいのかもしれない。そんな風に背中を押す自分が生まれてくる。

「先輩の事、好きでしたって・・・卒業して会えなくなる前に、それだけ言っておきたくて・・・。だからどうしたいとか、そういうんじゃなくて、ただ自分の気持ちの区切りとして、言ってみようって思って・・・それであの日お誘いしました」

途中声は震えたが、言ってみると、少し清々しい気持ちすらする。安堵の為思わず笑いがこぼれて、鼻をすすった。

「・・・ありがとう」

また少し安心して、ハンカチで涙を拭いながら笑って言った。

「言ってみちゃえば、たったこれだけの事なんですけど・・・」

今まで抑えていた気持ちを解放すると、急に大きく深呼吸したくなる。背筋を伸ばして、縮こまっていた体中に酸素を送る。

「私も・・・話せて良かったです。いつの間にか、封印された開かずの扉みたいになってましたから」

「じゃ・・・聞いて良かったのかな」

「はい。ありがとうございました」

話は終わった筈なのに、じゃあと立ち上がる様子のない勇吾。私は慌てて付け足した。

「あの、ただ聞いてもらっただけでいいんで。高校時代の話なんで、返事とか必要ないですから、気にしないで下さいね」

そうだ。私は今の気持ちを告白したんじゃない。今は100%フラれるのが分かっている。だから間違っても告白なんかしない。高校時代の思い出話をしただけなのだ。だから、変に今の先輩の気持ち等言われたら困る。

「ありがとう、話してくれて。でも・・・ごめんね」

今は主語のない『ごめんね』は要らない。そこに含まれた悲しいニュアンスを感じ取ってしまうから。さっきまで装っていた元気が、秋の風に飛ばされていく様に感じる。丸裸になる前に、急き立てられる様に私はベンチから立ち上がった。

「・・・って事で、帰ります」

「あ・・・うん。ごめんね、遅くして。駅まで送るから」

「大丈夫です、一人で」

まだ笑顔でいられる。

「駅前に用事もあるから」

時計を見ながら勇吾は言った。

 駅まで歩く先輩の足取りが、何故か重い様に感じる。私の気持ちが急いているせいだろうか。ターミナルまで来ると、駅の照明が明るい。エスカレーターの下で別れた後思い出される勇吾の顔は、何か言いたそうで、何か躊躇っている様な、複雑な表情をしていた。それが心に残ったまま、私はまた単調な日常へと戻っていった。


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