第1話 プロローグ
1.
あれは5年前の、私が丁度高校に入学して電車通学にも慣れてきた頃だった。春から通い始めた高校は、家から電車で30分位の所にある。小学校も中学校も家から5分位の所だったから、寝坊して7時半頃慌てて起きても大抵間に合っていた。しかし高校はそうはいかない。受験を控えた私に母親が、
『近い所がいいんじゃない?』
と言った位だ。そうなのだ。私の一番の弱点は、朝が弱い事。目覚ましを幾つもかけてるのに、聞こえないのだから不思議だ。かと言って、お休みの日 遊びに行く約束の為には起きられるのだから、親が小言を言うのも無理はないと思う。
そんな私が何故電車で30分も掛かる高校へ入ったかと言うと・・・。簡単に言えば近所の高校に落ちたからである。これが私の、滑り止めで受けた私立の女子校に通う様になった経緯だ。
毎朝目覚ましとの闘いで・・・というよりは、自分との闘いだ。あと5分、あと3分・・・が命取りになる。たまに自分が どうしようもなく駄目な人間の様に思える時もある。皆当たり前に出来ている事が出来ないのだから、ほとほと自分に嫌気がさしてしまう。
そんな私が最近は朝ちゃんと起きられている。母親もびっくりしている位だ。なんたって毎朝恒例行事の様になっていた母の、
『遅刻するよ~!いいの?』
という怒鳴り声を聞く事もなく、自分から起きていくのだから。弟なんか、
『どうせ三日坊主でしょ』
と期待もしていなかったみたいだが、一週間続くと母が気持ち悪がったりした。
「どうしちゃったの?何かあったの?」
朝ご飯を座って食べている私の顔を、恐る恐る覗き込んでみたりする。
「高校生にもなったし、気持ちを入れ替えようと思って」
私はそう言ってにっこり笑ってごまかした。そうだ、そんな意気込みは入学当初にとっくに試し済みだ。そんな意気込み位で朝起きられていたら、楽なものである。
いつもの時間の電車に、いつもの車両に乗って二駅過ぎる。朝のラッシュは自分の居場所を確保するのも容易ではない。しかし、いつものドア脇に必死でへばりつく。ここだけは譲れない。乗り換えの多いこの駅では、沢山の人がドッと下りて、またドッと人が乗り込んで来る。その中に紺のブレザーを着た背の高い男子高生がいるのだ。そう、私の朝起きられる原動力となっている人だ。彼は私の通う女子校と、同じ駅にある公立の高校に通う生徒だ。もちろん名前も学年も知らない。別に挨拶する訳でもない。しかし必死にドア脇に陣取るのには理由がある。そこに居ないと、彼の姿が見えないのだ。彼は多分、私の存在に気が付いてはいない。しかしいいのだ。朝、ひと目姿を見られるだけで元気が出る。今日も頑張ろうという気持ちになれる。何だかいい事がありそうな気持ちになれる。
いつも朝しか一緒にならないのだが、学校からの帰り、駅で一緒になった事がある。その時は、どこかで見た事ある人だなぁ位に思っていたのだが、友達と楽しそうに話すその笑顔がとてつもなく無邪気で屈託がなかった。友達とじゃれ合っていた彼が、勢い余ってこちらに飛び出してきて私にぶつかったのがきっかけだ。
「あっ!ごめんなさい!」
「いえ・・・」
それだけの会話だ。たったそれだけ言葉を交わしただけなのに、私のスイッチが急に入ってしまって、その日から私の心の中に彼がいる。急にドキドキしてしまって 気まずいから、わざと離れた車両に乗って帰ったのを覚えている。私と一言会話を交わしたと言っても、きっと彼は私の顔なんか覚えているとは思えない。だから私は安心して、毎朝同じ車両に乗れるのだ。
「東高の人~?どの人~?」
「今度見掛けたら教えるね」
友達に聞かれ そう答えたが、多分教えるつもりはない。友達にばれた途端に、見掛ける度 ソワソワコソコソ不審な動きをして気付かれるのはごめんだ。
梅雨が過ぎ、夏を挟んで秋がやってくる。毎年当たり前の様に巡ってくる季節なのに、今年は少し違って見える。あれから彼にまつわる情報が大して増えてはいないが、毎日が楽しかった。毎朝電車でこっそり彼の姿を見て喜んでいるなんて ちょっと根暗な片思いにも思うけれど、これ位の距離感が傷付かなくていい様な気もしていた。
そんな事をぼーっと考えながら、満員電車の中の彼の横顔を遠巻きに眺めていると、彼がこっちを振り向いたから驚きだ。目が合って固まる私を怪訝な顔つきで見ている。きっと視線を感じて振り向いたら、じーっと私が見ていたのだから、気持ち悪く思ったに違いない。同じ車両に乗る朝の楽しみは、もうこれでおしまいかなと肩を落としたのだった。
「白岩学園の人だったんだぁ。どっかで見た事あるなぁと思って・・・」
電車を降りてホームを歩く私に、彼がそう話し掛けてきた。
「あ・・・私も・・・」
とっさにそう口をついて出た言葉に、危機を救われる。もしかして、改札を出るまで少し話なんか出来ちゃったりするのかと、急に心が浮足立った所で現実の冷静な風が 私の一瞬の期待と空想を奪って吹き抜けていった。
「おう!おはよ」
後ろから声がして同時に振り向くと、彼の友達が近付いてくる。何も無かったかの様に、私はすっと彼の隣を離れ いつも通りに登校していったのだった。
次の朝、ほんの少しの期待を胸に いつものドア脇に陣取りながら、二駅先の駅を待つ。電車のドアが開いて、いつもと同じ様にドッと人が下りて ドッと車内に押し寄せる。その中に彼がいた。少し離れた所だけれど、背の高い彼は頭一つ分飛び出しているから すぐ分かる。彼が私に気が付いたのは、電車が動き出して少ししてからだった。ふと視線を感じて彼に視線を投げると、少し驚いて会釈をしてきた彼に、私はまるで今気が付きましたと言わんばかりの精一杯の演技を顔一面に広げ、会釈を返した。次の駅で、人が動いたと同時に彼が近くに寄って来た。
「いつもこの電車?」
「はい」
「へぇ~、気が付かなかった」
「私も」
「どっから乗ってくるの?」
「高野台です」
「へぇ~」
私だって、『どこに住んでるんですか?』って聞きたい。しかし、上手く頭の中で会話が組み立てられず、無言になってしまう。すると、やはりその間を繋ぐのは彼の方だった。
「何年生?」
「一年です」
「この時間の電車にいっつも乗ってるって事は・・・運動部じゃないね?」
「はい」
「何か部活やってる?」
「吹部です」
「へぇ~。っぽいね」
「そうですか?」
そういって少し笑うと、彼もつられて笑った。その目の前の笑顔が、あの時見た笑顔と同じで、ちょっと戸惑ってしまったのを良く覚えている。
その次の日も同じ様に電車で会って、お喋りしながら電車に揺られた。東高校の3年生だという事と、バスケ部だったという事は分かったが、名前は分からないままだ。
しかし三日目の朝には電車に乗っては来なかった。一日位こういう日もあると思って次の日に期待したが、その次の日も、またその次の日も彼は いつもの電車に乗っては来なかった。二日間電車で話した私と毎日顔を合わせるのが気まずくて、別の電車にしたのだろうか。それとも嫌われてしまったのだろうか。
そんな不安を抱えてある土曜日、部活の為駅の改札を出ると、そこには友達とポスターを抱えた彼が立っていた。
「あっ!文化祭、来てよ」
「あ・・・はい・・・」
「これから部活?終わったら来てよ、友達誘ってさ」
嫌われていたんじゃなかった事に ほっと胸をなで下ろした私に、彼はテンション高く宣伝をした。
「3年2組。焼き鳥焼いてるから。来てくれたらサービスするよ」
吹奏楽部の同じ一年生の友達 岸間百合を誘って、初めて東高校の校門をくぐる。私の通う女子校とは、やはり全体的に醸し出す雰囲気が違う。青春の匂いが溢れている気がする。
「3年2組・・・3年2組・・・」
百合はパンフレットで彼のクラスの模擬店の場所を探す。
「真奈美はさ、その彼の事、好きなの?」
いきなりの直球の質問に 私が一瞬たじろぐと、百合はにやりとした。
「一目惚れってヤツか・・・」
「違う、違う。そんなんじゃないって。ただ知ってる人に誘われたから、行ってみようかなと思っただけ」
そんな言い訳、真に受ける筈がない。でも無駄な抵抗と分かってて言ってみる。
彼のクラスの焼き鳥屋さんの前に近付くと、頭にタオルを巻いて気合十分の彼の姿がある。
「来てくれたんだぁ。ありがとう。何か食べてよ?」
「じゃ・・・つくね下さい」
「私はもも下さい」
私達の注文を聞いて、後ろのクラスメイトの女の子と楽しそうにやり取りする彼の姿から人柄を感じ取ろうとしていると、百合の視線を感じる。
「何?」
「いや、別に」
含み笑いを浮かべる百合と その場で焼き鳥を頬張ると、紙コップに入ったお茶と数本の焼き鳥を持って、彼が近付いてきた。
「はい。これサービス。来てくれたお礼」
「え・・・」
躊躇する私とは裏腹に、百合の元気な声が被さる。
「ありがとうございま~す」
「これから、他見て回る?」
「はい。せっかくだから」
「じゃ、案内するよ」
思いがけない展開に、心の中は戸惑いとわくわくが入り乱れていた。ついこの間まで、同じ電車に乗って毎朝顔を見るのを楽しみにしていた根暗な片思いが、彼の学校の文化祭にまで来てしまって、おまけに案内までしてもらっているのだから、冷静でいろという方が無理だ。
彼は廊下ですれ違う友達や後輩達のクラスへと顔を出し、お化け屋敷やスイーツのお店へと案内してくれた。
「体育館で2時半から軽音がステージやるけど、見てく?」
「はい」
体育館の床に座って、あと数分で始まるステージを待っていると、百合が突然立ち上がった。
「ごめん。電話してくる」
そこで二人っきりになって勝手にドキドキしているのは多分私だけで、彼がさっきと変わらない様子で質問をしてくる。
「普段どんな音楽聴くの?」
そう聞かれて答えようとすると、彼の質問が続く。
「あれ?俺、名前聞いたっけ?」
「・・・いいえ」
「だよね?・・・って事は、俺も名前言ってないよね?」
「・・・はい」
「西嶋勇吾です」
「あ・・・北沢真奈美です」
「真奈美ちゃんね。で?どんな音楽が好きだって?」
答えようとしたところに、急にギターの音が大きく響いてステージの始まりを知らせる。いきものがかりやスキマスイッチ、ORANGE RANGE等のカバーを何曲か披露して、30分程のステージが終わる。
「俺、そろそろ戻らないと。大丈夫?友達戻って来るかな?」
「大丈夫です。連絡してみます」
まるでコンサートでデートしたみたいな夢の様な時間に、私は心が躍り出しそうになるのを抑えるのに必死だった。
彼と別れた後で百合に掛けた電話から聞こえてきたのは、彼女のニヤニヤとした声だった。
「楽しかった?」
「どこにいるの?」
「校門の前にいるよ~」
百合と校門で合流してから駅までの道のり、彼女の追及は想像通りだ。
「電車で一目惚れした彼と、文化祭の軽音のステージ見て楽しくお喋りして・・・青春だなぁ~!いいな、いいな。私も恋したいなぁ~」
私は、もう潔く認める事にした。
「今日、一緒に来てくれてありがとう。でも・・・言わないでね、誰にも」
「そうだね。誰かに言ったら『東高?誰?誰?どの人?』ってなりそうだもんね」
「うん・・・」
「恋の芽は大事に育てたいもんね」
百合は小声でそう言うと、肩で私をど突いてくる。
「もし上手くいったら、彼の友達紹介してくれる?」
「百合、気が早いよ~」
「紹介してくれるって言わないと、皆に言っちゃうよ~」
「え~、それだけは勘弁してよぉ」
すっかり弱味を握られ、借りを作った感じである。
その週末から明けて、またいつもの朝の電車で彼に会う。以前よりも彼の笑顔が近く感じてしまう。
「文化祭も終わっちゃったから、いよいよ受験に気持ち切り替えないとね」
「大学・・・ですか?」
「うん」
そう聞いて初めて、この時間がそう長く続かない事に気付く。ふと悲しい気持ちが心を通り過ぎて行った時、乗り込んできた東高校の制服の女子生徒二人が、ドア近くにいた彼に声を掛けた。
「勇吾!おはよ」
「おう。電車で会うなんて珍しくね?」
「たまたま。一本乗り遅れた」
私は自分がよそ者の様に感じてしまって、とっさに彼の方に向いていた体を横に向けた。
「今日さ、生物のテストやるって本当?」
「越智健、ひねくれてるからなぁ」
越智健とは、越智健一郎という生物の教師のあだ名である。
「そうそう、やるって言ってやらなかったり、やりませんって言って急にやったりするからね」
こういう自校話題は当たり前でありきたりの普通の会話の筈なのに、彼との間に一線が引かれたみたいな気になるから、悲しくなる。
電車が駅に到着すると、真っ先にドアを出て歩き出す。車内で彼が時々、私との会話を中途半端にしてしまったままなのを気にしたのか、チラッとこちらを気にする素振りをしていたのに気付いていた。だからあえて私は、彼が私に気兼ねなく友達と通学出来る様に 一足先に下りたのだ。
次の朝、枕元で鳴り響くアラームを何度もスヌーズで消した。こんな事、本当に久し振りだ。久し振り過ぎて、母親も私が具合でも悪いと思って心配をしている。起きる気力が湧いてこない。彼と電車で会えるのも、あと数か月しかないのだ。それなのに、昨日の朝の光景が私の体をベッドに縛り付けた。休んでしまおうかと思う頭の片隅で、今日の時間割を思い出す。提出しなくてはならないプリントがある。のそのそと布団から這い出て、ようやく学校へ行く気持ちに奮い立たせた。
しかしいつもの車両に乗る気にはなれなかった。一つ前の車両に乗って、二つ先の駅に電車が滑り込む。ホームに彼の姿がある。それを見た途端、やっぱりいつもの場所に乗って、いつもの様にお喋りをしながら行けば良かったと後悔する自分がいる。でも、その瞬間、きっと学校に近付くにつれ、昨日の様に友達が乗ってきて また悲しい疎外感を味わわなくてはいけないんだと、自分を戒める。
駅に着いてホームに降りると、後ろから声がした。
「おはよう。今日は別の所に乗ってたんだね」
友達と一緒ではない彼を見て、やっぱりいつもの車両に乗っておけば良かったと後悔する。
「あ・・・今日はぎりぎりで飛び乗ったから」
ふっと笑った彼の笑顔につられ、私もつい頬が緩む。こんな風に笑って30分彼との時間を過ごせたかもしれないチャンスを無駄にした自分が、悔しくてならなかった。
「昨日、ごめんね。話してたのに、なんか途中になっちゃって」
昨日の朝の事を、今わざわざ言ってきてくれるなんて・・・と、気にしてくれていた優しさに、私の心はほんのりと温かくなった。
部活を終えて 百合と駅まで歩きながら帰った。
「真奈美の事好きなんじゃない?」
「えぇ?!」
「だって、朝の電車で会うの、むこうも楽しみにしてるっぽくない?」
「そうかなぁ?」
こんな嬉しい言葉に、簡単にその気になっちゃ駄目だと自分に必死にブレーキを掛けるが、やはり私の心は、百合にそう言われた日から確実にそんな妄想を抱く様になっていった。
しかし朝電車で会える回数が、段々に減っていた。一週間に一回会えるかどうかの可能性を信じて、私は毎日同じ車両に乗った。会えなかった日を指折り数える。とうとう一週間会えないまま金曜日が終わろうとしていた。部活を終えてホームでぼんやり電車を待つ。すると、少し賑やかな学生の話し声のする方を見ると、ドア3つ分位離れた所に、彼とその友達の姿があった。あの朝の悲しい気持ちがふと 胸に甦る。電車に乗り込むと、まばらに空いた席に腰を下ろし、手持無沙汰をごまかす為に英語の教科書を広げた。別に英語でなくても良かったのだ。数学でも国語でも生物でも何でも良かった。内容なんか見えてないのだから。その証拠に、私はいつの間にかうつらうつら転寝をしてしまっていたらしい。電車の揺れと同時に 手に持っていた教科書が床に落ちて、その音で目が覚める。床に落ちた教科書を、私よりも先に手を伸ばしてきた隣に座る人を見て、更に驚いた。彼が座っているではないか。
「あ・・・」
そう声が漏れたが、後に言葉は続かない。英語の教科書を手渡しながら、彼は言った。
「もうすぐテスト?」
私は首だけを横に振った。
「教科書見ながら帰るなんて、偉いね」
その言葉に内心恥ずかしさを感じながら、慌てて教科書をしまった。無言の時が流れそうになったところで、彼は少し落ち着かない素振りをする。
「受験まで暫くの間、朝と放課後 学校で勉強する事にしてさ・・・」
「・・・大変ですね」
『そうだったんですね』と言いそうになって、私は言葉を慌てて変換した。毎朝電車で会えない事を気にしていると気付かれてしまうところだった。しかし、私のその当たり障りのない相槌のせいで、彼の言葉も続かなかった。すると鞄からスマホを取り出した彼に、勝手に私はドキッとしてしまう。変な期待を膨らませてしまったのは、この前百合が『真奈美の事好きなんじゃない?』なんて言うからだ。
「この前スキマスイッチ聴くって言ってたよね?アルバム持ってる?」
「いえ・・・」
「ちょっと、これ聴いてみて。いい曲だから」
そう言われて差し出されたイヤホンの片方を耳にはめる。そこから聞こえてくるメロディに、ほんの一瞬で心を奪われる。
「どう?いいでしょ?」
そう感想を聞く彼に、まさかという思いで顔を向けると、やはりイヤホンのもう片方を耳にはめている彼がいた。少し近い彼の顔にドキドキしてしまって、私はイヤホンを外して返す。
「ありがとうございました」
「次も聴いて。いいのばっかだから」
こんな事、いいのだろうか・・・。完全に勘違いしてしまう。単純な私に、勘違いするなという方が無理だ。だって一つの曲をイヤホン片方ずつで聞くって・・・それって・・・それって・・・まるで彼氏と彼女じゃ~ん!って頭の中で叫びながらつっ込んだ。
大学受験を目前に控えた彼と、以前の様に電車で会う事は殆ど無くなってしまったが、たまに会えた時に言葉を交わす そのささやかな幸せだけで私の心は充分満たされていた。
2月14日バレンタインデーの日も、会えるか分からない彼に渡すチョコを秘かに鞄にしのばせ、朝の電車に乗る。やはり、居ない。きっと彼はバレンタインどころではないだろう。そんな風に呑気に浮かれているのは1年の私くらいだと自分を励ましたりしてみる。
その日は部活が無かった為、駅に向かう時間も早い。時々東高の生徒を見掛けるが、何年生かは分からない。鞄に入ったままのチョコが気に掛かり、改札の横で待ってみる事にする。もしかしたら・・・という1ミリの期待だけで、寒さをしのいだ。時々通りかかる友達が声を掛ける。
「何してるの?誰かと待ち合わせ?」
あらぬ噂が立ってはいけないと、余計な嘘をついてみたりする。
日も傾きかけ、段々に暗くなる辺りの景色に心細さが増す。もう今日は帰ってしまったのかもしれないと、諦めかけた その時、改札に向かって歩いてくる彼の姿が目に飛び込んできた。しかし、その隣には同じ高校の女の子が一緒だ。一瞬にして胸に突き刺さった様な痛みが走り、心臓がギュッと縮んだ。とっさに顔を下に向けて、彼に気付かれない様に息まで止めて存在を消そうと必死になる。
改札を通る前に一瞬彼の靴がゆっくりになったのを見た。
「あ・・・」
そう彼の声を微かに、私の耳がキャッチする。何も話し掛けられませんようにとだけ祈って、私は下を向き続けた。結局彼は足を止める事なく、二人で改札を入っていったのだった。こんな場面を見る為に、私は寒い中何時間も待っていたのかと思うと、悲しくて涙が出そうになる。と同時に、彼と一緒にいた女の子の存在が気になって仕方がない。放課後一緒に勉強していた、ただの同級生の友達かもしれない。しかし、もしかしたら今日のバレンタインに彼に告白してつき合う事になった彼女かもしれない。それとも・・・前からつき合っている彼女と今日は一緒に勉強して一緒に帰っていったのかもしれない。色々な想像が私の頭の中を占領した。
彼の乗ったであろう電車が駅を発車した音を聞いてから、私は改札を入り 家路についた。
あれから朝の電車は一本遅いのに乗っている。そして車両も最後尾に変えた。朝の私の楽しみは、2年生になる前に終止符を打たれてしまったなぁと淋しく思う。帰りの電車に乗ると、彼と一つの曲をイヤホンを分け合いっこして一緒に聴いた事が思い出される。あの時の高揚感は何だったんだろうと、随分昔の事の様に感じるのだった。
ガラガラの車内で端っこの席に座り、目を瞑る。今日は午前中だけの授業だったが、図書室に寄っていたから 同じ学校の人ももう居ない。すると、シートの隣が少し沈んだのを感じて目を開けると、そこには彼の姿があった。
「あ・・・」
「どうも」
彼がにっこり笑うから 私も笑顔を返したが、どうも引きつっていた様に感じる。
「今日は早いんだね」
「はい」
「でも、同じ学校の人いないよね?もしかして具合悪くて早退とか?」
「いえ。図書室寄ってたから遅くなっちゃって」
納得した顔の彼が、思い出した様に口を開いた。
「前・・・随分遅い時間に改札に立ってたよね?あれ真奈美ちゃんでしょ?」
「・・・・・・」
やっぱりバレていたんだと肩を落とす。
「違った?」
私は堪忍して、それを認めた。
「居ました」
「結構真っ暗だったよね?あの時」
「・・・友達待ってて・・・」
「そうだったんだぁ」
早くその話を切り上げようと、私は話題を変えた。
「大学・・・もう決まったんですか?それとも受験真っ最中ですか?」
彼はまたにっこりと笑って答えた。
「決まったよ」
「おめでとうございます」
「ありがと」
「卒業式・・・いつですか?」
「3月8日」
「もう、すぐですね」
「うん・・・」
そこで会話が途絶えた。その変な沈黙の間に、私は今度進学する大学名だとか場所だとかを聞こうか迷い、結局それを口にしないまま家に近付いていく。あと一駅で彼の下りる駅に来た時、私は思い切って口を開いた。
「あの・・・」
「何?」
「卒業式の後・・・」
「うん」
「・・・後って・・・忙しいですか?」
「一度帰ってから、打ち上げに行く」
「そうですか・・・」
「・・・どうして?」
その日が過ぎたら、もう会えなくなるのだ。だったらその前に、せめて気持ちだけでも伝えてしまおう。彼の気持ちを聞いておきたいとか、つき合って欲しいとか、そんな事を期待して告白するんじゃない。ただ、自分の気持ちに区切りをつける為。
「その日・・・ちょっとだけでいいんで・・・会ってもらえませんか?」
彼のいつも乗ってくる南ヶ丘駅前のターミナルから少し脇道に入った線路沿いの公園で私は、ベンチに座った。彼に指定されたこの公園で、卒業式を終えた彼と会う約束の日だった。10分早く到着して 恐る恐る園内に足を踏み入れるが、彼の姿はまだ無かった。公園の中央に高くそびえる時計は3時を指していた。午前中は晴れていたのに、段々と空に雲が多くなってきた。3月初旬、お日様が隠れるとまだ寒い。時々線路を通る電車を眺めながら、ベンチで緊張と闘っていた。
しかし指定された3時を大きく過ぎても、彼の姿は現れない。もしかしたら学校の友達との別れを惜しんで、帰るのが遅くなっているのかもしれない。それとも、帰りにどこかに寄ってお昼を食べているのかもしれない。そんな彼の見えない行動を予測して、不安な時間を必死で埋めた。時計が4時を示す頃になると、今度は場所を間違えたのかもしれないと不安が膨れ上がる。公園の入口に行って名前を確認する。
“南ヶ丘団地 第一なかよし公園”
“第一”・・・第一という事は第二や第三もあるという事か?彼との会話を思い出してみる。
『線路から見える、入口に桜のでっかい樹がある公園、分かる?』
入口の脇にある立派な樹を見上げる。もちろんまだ花は咲いていない。幹の感じから桜だろうと思う。幹の中程に“ソメイヨシノ”と印字された札が付いている。やはり、ここなのだろう。もう一度ベンチに戻りかけて、足が止まる。桜の木がある公園なんて、他にも沢山あるんじゃないだろうか?線路沿いの公園だって、自分が知らないだけで近くにあるのかもしれない。慌てて公園を出て、線路沿いに駅の方へ走る。駅を通り過ぎ暫く行くが、“線路沿いの公園”は無い。再び走って駅前に戻る。ターミナルを行き交う人波の中に、いかにもこの辺に住んでいそうな主婦に声を掛けた。
「すみません・・・。この近くの線路沿いに、公園ってありますか?」
「線路沿い?あぁ、すぐそこにありますよ。この道行ってすぐ左側です」
スーパーでの買い物袋を下げた その主婦は、にっこり笑って親切に説明をしてくれた。
『やっぱり、あそこなんだ・・・』そんな思いで、再び先程の公園に向かう。もしかしたら今度こそ彼が来ているかもしれない。
『ごめんね、遅れちゃって』
そんな彼の姿を想像したが、さっきよりも少し暗くなった公園に、誰一人として人影は無かった。はぁと大きく溜め息をついてベンチに力なく座り込んだ。時計は4時半を過ぎている。待ち合わせをしたのは3時だ。彼が行くと言っていた打ち上げは、確か5時だった。その時間まで待ってみようと心に決める。
時計の針がじわりじわりと上に向かうに連れ、辺りの暗さも増していく様に感じる。そしてそれに比例する様に、気温も下がる。するとポツンポツンと小さな雨粒が頭に落ちた。雨の予報だったなんて・・・。私は空を見上げた。約2時間待っても現れなかった彼。それが彼の答えなんだと、天からのお告げの様に感じる。舞台の照明も落ち、幕が下りて終了する様に、私の一年に満たない恋が終わりを告げた瞬間だった。冷えてかじかんだ手に無意味にはぁと息をかけて、私はようやく立ち上がると 公園を後にした。
ありがとうございました。
是非最後まで楽しみに読んで頂けたら嬉しいです。