第四十話「魔獣と魔女」
ようやくマンティコア戦です。
熱水の降り注ぐ大庭園の宙をヒポグリフが翔けた。
先程エリュー目掛けて放たれた水牢が水蒸気爆発によって弾け飛んで、今ここにはほの温かい雨が降っているのだった。
「ひーっ やっぱ怖いよ! あれ食事を邪魔されていきり立ってるときのやつだよーっ」
「……ここまで来ちゃったんだからやることやってね」
「あーもーっ! 分かってるって!」
オリヴィエとライラは一緒にヒポグリフに騎乗し、マンティコアと対峙する。
ここに来てライラはまた臆したように、ガタガタ喚いているのに対して、騎獣であるピュゼロの方は一際高く嘶いて好戦的なのが対照的だった。
オリヴィエがふと見下ろすと、エリューを抱えたロッシの姿が見えた。
先程のひどい戦闘により、彼女の服は所々破れ飛び、肌も赤く腫れ上がっている。ただちに命に別状があるわけではないが、捨て置ける怪我でもない。オリヴィエは後で治療しないといけないなと思った。
彼女はマンティコアに向き直ろうとして、そこでライラの頭が邪魔に思い、鞍に足をかけて立ち上がり、バランスを取るためライラの肩に手を置く。これで視界が開け、同時にマンティコアの老面を拝む。
ジッと魔獣と魔女の視線が交錯し、両者は挨拶代わりに魔力を高めだす。
溢れだした魔力はせめぎ合い境界面で圧のようなものが生まれ、自然風ではない風に彼女の三角帽子が揺れて、それを手で抑えつける。彼女の三角帽子にはいくつかの魔法陣が格納されているのでそれを吐き終わるまでは手放すわけにはいかないのだった。
周囲の状況は、止めどなく降っていた温水が切れ切れになって、代わりに薄白い靄が周囲に立ち込め始めた。
「マンティコアさん! 何の目的でこの街に来たのですか!!」
その中で赤髪をたなびかせ、ライラが問いかけた。彼女は一応最初のスタンスを継続して、マンティコアと協調しようとしてみる心づもりだった。
そんな彼女の後ろでオリヴィエは魔力を練り上げながら、戦闘のプランを立てていた。こうして改めて対峙することで分かることもある。
そしてオリヴィエは交渉が上手く行こうが、正直どうだってよかった。なぜならこのマンティコアがエリューに害をなした。その事実はもはや確かな以上、彼女はマンティコアを許すつもりはなかった。
なのでオリヴィエはあくまで話半分にその会話の行く末を見守る。
「そこの、死神、喰う、そのために、来た」
「そこの死神ー……? 何をいってるの……?」
「……?」
ライラの質問に対して、マンティコアは包み隠すことなく目的を云った。けれどその事実はエリュー本人が今まで包み隠していたことゆえに、彼女達はマンティコアの言葉の意図するところが判らなかった。
オリヴィエは、エリューが襲われていたことから鑑みるにエリューのことだろうかと考えるもすぐに否定する。死神というのは死を振りまく魔神のことであり、彼女はそんな邪な存在ではない。同時にもしかしたら、という疑念も生まれる。確かに彼女は大鎌といういかにもらしい武器を使っているし、全魔法適正・耐性という前代未聞に魔法陣を宿している。確かに普通ではない。とオリヴィエは思ったが、ひとまず考えるのは後だと思い彼女は戦闘のプラン構築に回帰する。
ひとまず厄介なのはマンティコアの周囲に展開された3つの虚口。これの存在により正面きって魔法を撃ちあうことが得策ではなくなっている。詠唱速度の差は4倍。オリヴィエが魔法1つを放つ内にマンティコアは4つの魔法を放てる計算になる。
あれを破るか、あえて使わせない状況に持ち込む必要がある。でないと勝負の土俵にすら立てない。そうオリヴィエは結論づけた。
「そんなことよりっ! 魔法をぶつけあおう、マンティコア。私の魔法と貴方の魔法、どちらが強いか、勝負しよう!」
だからオリヴィエが持ちかけたのは、魔法の威力比べ。
マンティコアは己の魔法に絶対の自負を持っていると彼女は踏んだ。そうして高位魔法の威力比べになれば4倍の詠唱速度は問題にならなくなる。そしてオリヴィエにはマンティコアの魔法と正面からやり合えるだけの自信があったのだ。
といっても仮にこの勝負に乗らないならば、威力に自信がないのかと謗り、同じ流れにもっていくつもりだったのだが。
これは言葉を解するからこそできる芸当だ。これが獣なら会話にすらならず、人間なら自ら有利を手放して同じ土俵に立ってくれることはあまりなかっただろう。無為に年月を過ごし賢しく知識をつけた魔獣だからこそのプランだ。
この撃ち合いで上回るか、相殺になればその隙にマンティコアの懐まで潜り込んで《スペル・シェアリング》を破壊する。そうなれば状況は伯仲になる。
「ほう、よかろう、生まれて、たかだか、数十年しか、魔導に、時間を、費やして、おらぬ、若輩、とはいえ、その魔力、なかなかの、ものだ」
そしてマンティコアの返答は色よいものだった。
オリヴィエはほくそ笑む。反対にライラの表情は「え、ほんとにやるの……?」といった風に曇りきっていた。
そんなライラに構わず、オリヴィエは、杖を掲げる。もちろん彼女達にはエリューのような魔法防御もない。信じられるのは彼女の積み上げてきた魔導だけだ。けれど。
「……しょせんは畜生、か。じゃあ……」
続く言葉は「後悔させてやろう」だ。
オリヴィエはさっきのマンティコアの言葉に少しだけ憤懣を覚えた。奪いとった知識の上にあぐらをかいて「魔導に時間を費やした」とほざく魔獣に僅かばかりの失望と軽蔑を込めて、魔法をプレゼントすることに決めたのだった。
魔獣と魔女の詠唱はおもむろに始まった。
「“業火”」
「“焦熱”・“莫熱”」
「“雲裂”・“空穿”」
「“焔槍”・“双撃”」
魔獣の詠唱は途切れ途切れなもので、いかにも無機質でつまらないもの。それはオリヴィエだけでなく、少し魔導をかじれば誰しもがそう思ったろう。
それによって二つの炎球が生まれ、凝縮されていく。地上に出現した太陽のように眩いそれは、触れれば骨の髄まで真黒に焼き尽くされそうな熱量を宿していた。いかにつまらなく古臭い詠唱だとして、火の第四階位。戦術級の魔法に匹敵する、まさしく大魔法だった。
「“獄氷の光芒”・“凍てつく光束”・“浴びれば氷像”・“されど避ける術はなし”・“極寒の内で”・“永久の抱擁に”・“身を委ねよ”」
対する魔女が唱えるのは、氷の第四階位と光の第四階位の複合詠唱。冷たく輝く魔力が詠われ、玲瓏たる響きがクームの空に染み渡る。
掲げた杖から巨大な魔法陣が展開され、白く淡く輝く。宙に浮かぶ砲口の如き魔法陣から、体の芯まで凍えさせるような冷気が漏れ出る。
詠唱と魔法陣、この二つを併用することで最高級の魔法へと昇華する。これがオリヴィエの全身全霊の魔法。マンティコアの年季の入った魔法にだって負けはしないだろう。
詠唱速度の差からマンティコアの方が圧倒的に早く魔法を編み上げたが、これから始まるのは魔法のぶつけあい。単純明快な、魔法の威力のみで雌雄を決する勝負。だからいくら詠唱速度に分があろうとも、マンティコアは待ってくれる。そういうものだ。
凝縮状態の炎球は太陽を無理やり握りつぶしたかのような熱量を放ち、陽炎に視界が歪む。誰が見ても危機感を覚えることは間違いない。
「大丈夫なんだよね!? オリヴィエ!? 勝算あるんだよね!?」
「大丈夫。想定外はなにもない」
前のライラが喚いているのを、彼女は静かに、でも強い語気で鎮める。言葉に偽りもなかった。あれを目の前にしても目論見通りなのだ。
──かくて魔女は杖を振り下ろす。魔獣はただ吼えた。
「《インフェルノ・ブレイズ》」
「《コキュートス・レイ》」
放たれたのは業火と獄氷、二条の光芒。
クームの空で、相剋する魔法がぶつかり合い、火花が飛び散り、氷礫が降る。天が焦げ、地が凍りつく。
碧い冷光と紅い熱線がぶつかり合い、直視もできない閃光が生まれる。
その中で彼女は静かに口の端を持ち上げた。
時間はいかほどだったのだろうか。一瞬のようにも、永遠にも思えた。
けれどそれは唐突に掻き消えた。
それが消えたことで初めて、彼女は己の鼓膜を大音響が震わしていたのだと気づいた。
火傷しそうなほど熱くて、凍えそうなほど冷たくて、そんなどちらでもある風が吹き抜けていく。
相殺。
目論見どおり。オリヴィエの魔法は奴のそれに届いた。
「ライラッ!」
「さすがだよエリュー! 任せて!」
ライラが手綱を鳴らすと、ピュゼロが嘶いて疾駆する。目標はマンティコアの懐、4倍の詠唱速度を可能にする《スペル・シェアリング》を破ること。
矢のようにピュゼロは翔け、その間にオリヴィエは詠唱を編む。あれは風魔法、ならば以前にエリューに向けてやった詠唱強奪をより高度にやればいいのだ。
「……“猛く吹雪け”・“巨獣さえ足取られ”・“冷たき棺へと誘う”・“氷嵐の暴威”」
先程の余波で舞い散る火の粉と白い雪のヴェールを貫いて、マンティコアの懐へと飛び込んだ。そこで一瞬だけ減速すると同時に、魔法を発動。
「────《ブリザードインヴェイション》
発動したのは氷嵐。マンティコアの巨体をも覆い隠すような猛吹雪。
視界を奪われ、感覚すべてが寒いという『寒い』という異常信号を送り続ける。あるいはそれは『痛い』なのかもしれなかった。区別をさせる暇すら与えず、吹雪が魔獣の体を蝕む。
遠目で見るともはや真っ白な球体としか思えない高密度のそれの中で、マンティコアはただただ困惑していた。
《スペルシェアリング》を乗っ取ったそれは、エリューに放った《ブリザードクラッチ》の上位魔法だ。
ゆえに対処だって同じで《スペル・シェアリング》を止めれば自ずと《ブリザードインヴェイション》も止まる。だがマンティコアは己の魔法が乗っ取られたという発想にはついぞ至らなかった。
オリヴィエには風属性の適正はないが、既に発動した風の魔法から魔力を掴みとり、逆利用する高等技術。詠唱段階でそれをするのは比較的容易だが、発動した後でやるのは至難の業。《スペル・シェアリング》のように維持のために魔力を注ぎ続ける必要のある魔法限定とはいえ、それができるということを知らしめるだけで、いくつの魔法を使いづらくさせるのか。バフやエンチャントを逆利用できる彼女は、中途半端なマジックユーザーにとっては悪夢のような存在だろう。
「離脱。全力で」
「おっけー!」
ピュゼロが強く羽ばたき、地を抉るような軌道で上昇する。
途端に風が顔面に吹き付け、オリヴィエは三角帽子の腰を掴んで押さえつける。ピュゼロの背中に押さえつけられるような遠心力がかかり、オリヴィエは自然と猫背になってしまう。
けれどそれも唐突に途切れる。十分な高さに至ったピュゼロは再び水平飛翔に移った。オリヴィエの体がふわりとした浮遊感に包まれる。
それからピュゼロは、少し体を傾げて旋回し始める。騎手に地上を視認しやすくする飛翔方法だ。
それによって視界が確保できたオリヴィエがマンティコアの様子を見下ろした。
マンティコアはいまだに、吹雪に包まれたままで、その間オリヴィエは悠々と詠唱を始めた。
「“氷天より”・“垂る氷柱”・“降り注ぎ”・“頭蓋を穿て”────《アイシクル・ジャベリン》」
上空で旋回しながら、オリヴィエは魔法を編み上げる。《アイシクル・ジャベリン》は文字通り巨大な氷柱、氷の巨槍を撃ちだすものだ。その大きさは人の胴体と比べてもなお一回りほど太い。
空から落とされた渾身の氷槍が吹雪の中へ飛び込んでいき、突き刺さる。
吹雪の球から極太の氷槍が生え、白のヴェールに赤が混じる。
その段になってようやく、マンティコア側も事態を理解したようで、対応に出た。といってもそれは実に回りくどいものだったが。
吹雪に赤ではなく、紅蓮が混じる。
それは炎だった。
一瞬拮抗したように見えた炎と雪が、数瞬後には紅蓮の割合の方が見るからに増え、そしてに吹雪が炎に溶け飛ばされる。
君臨したのは、全身に炎を纏うマンティコア。
見てくれだけを見れば威風堂々たる様だろう。
けれどそもそも、《ブリザード・オキュペイド》を破るだけなら、《スペル・シェアリング》を止めればいいだけの話だ。それをマンティコアがしなかったのは己の魔法が乗っ取られたことを認められなかったためで、だから《ブリザード・オキュペイド》をわざわざ別の魔法で打ち破るという面倒なことをやった。
マンティコアが纏う炎により、背に突き刺さった氷槍がとろりと溶けて遂には蒸発していく。
マンティコアは遥か上空を飛ぶオリヴィエ達をその老面でジロリと睨みつける。その老面目掛けてオリヴィエは、再び《アイシクル・ジャベリン》を放つも、それはたてがみから生えた二本の『御手』が掴みとり、砕き折った。
「あれは……?」
「んー何だろうね? 少なくとも普通のマンティコアにはあんなの生えてなかったと思うけど……」
オリヴィエもライラも、ギガントコボルトと会ったことがなく、つまり『御手』と遭遇した経験がなかった。けれど既存の生物とは明らかに異なる、あえて例えるなら虫のように蠢くそれに嫌悪感を覚えたことは確かだった。
マンティコアは飛翔するヒポグリフを睨みつけながら詠唱を紡ぐ。
「“炎”・“矢”・“沙雨”────《フレイム・アロー》」
詠唱によりマンティコアの纏う炎が意思を持つように、尖りうねって十本ほどの炎の矢を形成した。それがヒポグリフ目掛けて放たれる。
「避けて」
「え、対応してくれないの!?」
さも当然といった風に指示を飛ばすオリヴィエ。それにライラは驚きながらもヒポグリフを操って、真横からの炎矢を避けさせる。そこら辺はさすがといったところか。ライラの指示を受けてピュゼロは加速や減速、上昇や下降を織り交ぜた複雑な軌道を描きながら、飛来する炎矢を捌いていった。
「いちいち対応していては、後手に回るだけ。あっちの魔法を回避して、こっちの魔法を当て続けるのが理想。折角最高級の足があるんだから有効活用させてもらう」
「それは、そうだけど。……あーもー! 私も魔法使うよ!」
その頃には飛来するのは炎矢だけではなくなっていた。風刃、水球までもが飛んでくるが、そのほとんどをピュゼロが捌くが、いくつかは被弾してしまう。今はあらかじめユークのかけてもらっていた再生や防護が活きてなんとなっているが過信すべきではない。なので捌き切れないもの対処するためライラは喉に魔力を集める。
「“応えて天風”・“嵐に濡れない”・“無縫の天衣を”・“私達に”────《ミサイル・プロテクション》」
ライラの詠唱により編まれたのは、矢除けの魔法の上位互換。猛烈に逆巻く旋風を纏ってあらゆる飛来物を弾く魔法。これで仮に避けきれなくとも大丈夫になる。
「いちいち対応していては、後手に回るだけ。あっちの魔法を回避して、こっちの魔法を当て続けるのが理想。折角最高級の足があるんだから有効活用させてもらう」
「まぁ、そうかもしれないけど」
そう言いながらオリヴィエはやり返すように、《アイシクル・ジャベリン》を撃ち降ろす。それはまた御手に受け止められ、割り砕かれる。そんな高空と地上での撃ち合いが繰り広げられる。しかしどちらの手も有効打にはならない。
「……決め手に欠ける。ライラ、もっと近づきたい」
「え? しょ、正気?」
思わずライラが聞き返す。振り返った彼女の目には普段となんら変わらない、けれど少しだけ真剣な光を宿したオリヴィエの目があった。
けれど、決め手に欠けると感じていたのはマンティコアも同じで、思考が一人な分、実行に移るのが早かった。
「正気も正気。……ん、炎矢が……」
最初に異変に気づいたのはオリヴィエだった。
ピュゼロが華麗に避けて空の彼方へと消えていったはずの炎矢が放物線ではない弧を描いている。その軌道はまるで意思を持つようにオリヴィエ達の方へと向かってきていた。
「……誘導されてる。ライラ飛ばして、迎撃する」
「え? ひぃー! 追ってきてるー!」
ライラが指示を飛ばしピュゼロは全速で空を駆ける。しかし右へ左へなんとかして振り切ろうとしても炎矢や風刃は執拗に追いかけてくる。このままではいずれ追いつかれズタズタにされてしまうだろう。
自ずとオリヴィエが攻撃の手を止めて迎撃に回らざるをえなかった。
「できれば視線を切るように。マンティコアの魔法誘導は目視した対象に魔法を向かわせるタイプのはず。だけど……っ追いつかれるか」
オリヴィエはそう分析した。この誘導方は古くからあるやり方で、奪い取るばかりで自分で知を編むことができないマンティコアがこの古い誘導方を用いている可能性は非常に高かった。ちなみに現在、魔法誘導をしたいなら他にも色々方法があり、相手に魔法陣を刻みこんでそれを追跡させたり、より高度なものだと相手の魔力を収奪して魔法を編み、それで魔法を行使してホーミングの性質を付与したりできる。
だから視界の通らない低空まで逃げてしまえばなんとかなるはずだが、今彼女らがいるのは遮蔽物の何もない高空。一応黒い雷雲なら上空にあるが、そこに突っ込むのは悪手だろう。あれはマンティコアの魔法によって発生した雲なのだから。
そして予断さえ許さないほど誘導弾は背中に差し迫っていた。
「りょーかい! でももうすぐ後ろにっ!」
「大丈夫。処理する」
そう言い切って、彼女は三角帽子を引っ掴み、収納してあった魔法陣の一つを解放する。それは天球儀のように立体的な魔法陣だった。
「《アイシクル・チャスナット》」
オリヴィエが起動の文言を呟くと、虚空よりいくつもの氷柱が生える。
至る所から至る方向へと、本当に乱雑に。
誘導魔法たちが通るはずだった空間を滅多刺しにしていく。
遠目から見ればイガグリのようにも見えなくもないそれは、彼女らの後ろに追いすがっていた炎矢や風刃を瞬く間に串刺しにし、飲み込んでいく。
しかしここは空中、すぐに氷柱達は落下していき、そうしてできた間隙をくぐり抜けて、マンティコアの魔法が殺到してくる。
だが時間は稼げた。
もはや落下するかのようにピュゼロは高度を下げ、マンティコアから見て丘陵の向こうへと逃げ延びる。そして地上スレスレでクンと曲がり、水平飛行へ移った。羽ばたきの風で緑の絨毯がバサバサと揺れる。
追ってきたいくつもの魔法が誘導されずに地上へと真っ直ぐ落ちていく。背後でいくつかの炸裂音。
「ふぅ、これでひとまず安心?」
「いやすぐ追ってくる。本体が」
「え」
その言葉通り、彼女らの後ろからひび割れた咆哮が轟いてきた。ライラが後ろを振り返ると丘陵を踏み越えて、マンティコアがそこに君臨している。蝙蝠羽を羽ばたかせすぐに追いかけてきたのだ。
再び、炎矢風刃の雨が降り注ぎ、ライラの直ぐ側をかすめていった。
「ひー! ほんとに来てるー!」
「無駄口叩かない。また誘導魔法が飛んでくる。今度は真っ直ぐ突っ込んで。面白いものが届いた」
「届いた? えーあー……もうっ! オリヴィエの言う通りすればいんでしょ!」
再び、炎矢風刃の雨が降り注ぐ。けれど二度同じ手を喰うようなオリヴィエではなかった。
彼女は三角帽子の中に手を突っ込んで、虹色に輝く小さな鉱石を取り出し、それを空中に放って、器用に杖のスイングで粉砕する。
するとそこから精緻に編まれた魔法陣が展開されていく。
「じゃあ使わせてもらう。《アイス・ファランクス》」
この魔法こそユークからオリヴィエに送られた魔法の一つだった。先程《アイシクル・チャスナット》を起動するために帽子を脱いだとき、そこに魔法陣の刻印された石虹が入っているのに気づいた。《アスポート》でユークがオリヴィエに送ったものだ。それには第三階位相当の氷魔法が込められていた。それがこの《アイス・ファランクス》。
ヒポグリフの前面に分厚い氷の大盾が出現する。次いでその周囲に6本の氷の槍が現れた。それらは飛翔するヒポグリフに一定の距離保って追従していた。氷大盾は分厚くも先が見通せるほどの透明さを誇り、ピュゼロは視界を妨げられることもなく、真っ直ぐマンティコアに向かっていく。
炎矢や風刃、はたまた雷さえも撃たれるが、分厚い氷盾はビクともせず、猛進していく。
「お、おぉすごいねこれ!」
「ユークの魔法だけどね」
彼我の距離はぐんぐんと近づいていき、距離はもう目と鼻の先まで迫ったところで。
「ここっ!」
ランスが放たれる。
近距離ゆえに狙い違わず、マンティコアの胴体や獣脚へと太い氷槍が突き刺さり、血飛沫が舞って、それすらも即座に凍りつく。そしてかざされていた氷盾もが放たれ、マンティコアの老面を打ち据えて砕ける。
六本の氷槍と氷盾のバッシュでは流石に堪えたようでマンティコアの体がぐらりと傾ぐ。
それでも超大型獣のタフネスは大したもので、近くまで寄ったきた踏み潰そうと獣脚を持ち上げた。
「っ、ピュゼロ!」
ライラが指示を飛ばせば、打てば響くようにピュゼロは果断し、前方へ飛び込んでいく。
つまりマンティコアの足元へと。
羽を畳んで、馬脚で地面を蹴りつけマンティコアの真下を駆ける。
彼女達の真後ろで獣脚が振るわれ大地を抉る。
「ここでもう一発。《フロストバインド》」
オリヴィエがまた帽子の中から一つ石虹を取り出して、杖のスイングでそれを粉砕、マンティコアの腹の下で魔法を展開する。
発動した魔法により、地面が即座に凍りつき、マンティコアの四足が縫い止められる。
「おー、ってオリヴィエ前! 前!」
何事から騒ぎたてるライラを煩わしく思いながら振り返るオリヴィエ。その目の前には迫るのは蛇の牙。
マンティコアの尻尾は毒蛇になっている。噛まれれば即座に猛毒に侵され命が脅かされることは間違いない。
「っ……!」
「“天風”・“解き放って”!」
それをなんとかするためライラは瞬時に判断する。ずっと纏っていた《ミサイル・プロテクション》を解放し、巻き起こる爆発的な旋風で蛇を怯ませる。
その隙に旋風の後押しを受けたピュゼロが地を蹴って再び空へ飛び立つ。
けれどこれで《ミサイル・プロテクション》は剥がれてしまった。
「ありがとうライラ。魔力はどのくらい残ってる?」
「半分! 私はそんな魔力ないから、《ミサイル・プロテクション》でかなり持ってかれちゃった」
「そろそろ決めたいね。私はまだ保つけど。《ジャベリン》を今度は近くでぶち込むか」
ピュゼロはできるだけ地を這うように飛翔しながら、旋回し、氷で拘束されたマンティコア目掛けて再アタックを決めようとする。高空に逃げたり、あまり距離を取ると誘導魔法が飛んでくるのは目に見えているので、中距離で旋回をする必要に迫られていた。
しかしマンティコアも獣とはいえ知能がある。
再攻撃をしかけるオリヴィエ達を食い止めるために、マンティコアは一計を講じる。
蛇の尾が鎌首をもたげ、口をカパァと開ける。
そして吐き出されるは濃紫色の毒霧。
吸い込めば即座に生命を脅かす恐ろしい毒霧だった。
マンティコアは更に風魔法を行使し、その毒霧は津波のようにそそり立ってオリヴィエ達の行く手を阻む。
ピュゼロは羽をバタバタと羽ばたかせ急停止して反転し、それから逃げるしかなかった。上に飛んでもおそらく誘導魔法が待機しているだろう。
「毒霧いぃ!? あぁこれ《ミサイル・プロテクション》があれば突っ切れたのに……!」
「嘆いても仕方ない。反転するしかない、それに視界ゼロ。その中に飛び込むのは少し怖い」
毒霧の津波はのろのろとした速度であったが、一面と広がっていた畑や果樹園を飲み込んでこちらに迫ってくる。
その上、空からは炎弾や雷が降ってくる始末だった。マンティコアが放物線を描くようにして魔法を発射しているのだろう。そしてこれはおそらく誘い。この魔法の雨に耐えかねて判断を誤り、毒霧に突っ込ませたり上空へあぶり出すための。
毒霧に炎が降り、雷が落ちる。
クームの大庭園は地獄のような様相と化していた。
しかしオリヴィエの目にはその侵される景色の中にあるものが見えた。
見えてしまった。
「ケイティス、ロッシ……なんで?」
さっきエリューを逃がしてもらったはずのロッシと宿の裏で待っているはずのケイティス。あの二人がなんで戦闘の只中にいるのかとオリヴィエは思った。そして同時に事態が切迫していることを見て取る。
二人は今にも毒霧の津波に呑まれそうだ。彼らが何の目的で戦域に入ってきたのかも分からないが、何はともあれ助けないといけない。
「ライラ下。ロッシとケイティスがいる」
「え、えぇ!? なんで? やばいんじゃ……」
「うんやばい。なんとか助ける。向かって」
「っ……分かった。ピュゼロッ」
一瞬の逡巡の後にライラは決断。嘶きとともにピュゼロは羽ばたく。反転した軌道を更に鋭角に曲がって反転、迫り来る毒霧との境界線上へと螺旋を描くように飛び込んでいく。
エリューは友達だから助ける。ロッシやケイティスだって同じだ。危ない橋だからってオリヴィエには見捨てるなんて選択肢は毛頭なかった。




