第二十三話 入れ替わり課外実習2限目
「それじゃエレナさん。わたくしのようというのはこちらですわ」
アリアは右足を軸にして軽やかに振り向くと、堅牢な石造りの建物を流し見た。まるでギリシャだとかの神殿を思わせるやたらでかい石柱は銀行の証だ。でかでかと掲げられた太陽と鷲の紋様が、この銀行の権威とやらを物語っている。
ふとアリアを見て、彼女が語った言葉を思い出した。彼女はベランツェリには身分差が存在し、そのせいで悔しい思いをしたとか何だと言っていた気がする。その言葉を率直に受け止めると、彼女はベランツェリにおいてなんとも微妙な身分ということになるはずだ。ところが現実はどうだろうか。
「ああ…じゃなくて。ええ、待ってるわ」
考え事をしていたせいか、つい素が出てしまった。もっと気をつけないと。学生服ならまだしも、今の俺はドレスにトップスを羽織るというコテコテのスタイルだ。ついでにエレナの趣味でこの時代としては珍しいフリフリのモノトーン。灰の髪色も合わさってゴスロリここにありという有様である。ロングドレスなのが救いだ。醜態はさらせない。
しかしなるほどアリアの言ったとおり人前にでるというのは心構えが変わる。何よりこの国のドレスというものは生地が厚く、重い。ただ歩くだけで、体重がどう移動しているかなど普段見えないことがわかるのだ。まだ街を歩いて一時間程度だが、確かに効果的なトレーニングなのかもしれない。俺の精神的苦痛を考慮しなければの話だが。
アリアは不思議そうな顔をした後、納得したように頷いて銀行へと入った。多分どうして一緒に入らないのかと疑問に思ったのだろう。太陽と鷲の紋様は宗教的意味合いが強いものだ。所謂宗教上の理由、というやつでエレナがこの中に入るのはあまりよろしくない。関係としては、キリスト教とイスラム教ってほど対立しているわけじゃない。厳密に決まっているわけではないが、居心地が良いものではないのだ。地母神を信仰するロレンシアのものとして、入らないほうが無難である。
ため息をついて、銀行脇の路地に入る。見事な石柱に背を預けて空を見上げてみれば、綿のような積雲が悠々と浮かんでいた。生きにくい世界だ。時々前世が懐かしい。
足元を見れば、てんこもりのフリルが映る。俺はこれでいいのだろうか。エレナのためエレナのためと自分なりに努力してきたが、エレナがいないような状況になった今、少し自分というものがわからなくなった。俺がやっていることはまるで姫君の影武者みたいなもんだ。最近はエレナの居場所に俺が入り込んでしまっている気すらする。女らしく振る舞う努力をして、エレナになり変わって、まるで俺という個が段々と消えていくみたいだった。
まぁそれはそれでいいのかもしれない。元々俺は異物なんだから。
「うぁっ!?」
突如激痛が走った。脇腹の余りの痛さに、俺はその場で縮こまった。ただでさえコルセットで苦しめられているというのに!俺は泥々とした思考を切り離し、腹を抑えながら前方を見れば、小学生か中学生か…とにかくそれくらいの少年がわたわたと地面に落ちた麻袋を拾い上げているところだった。酷いボロ着だ。少なくともまともな様子ではない。
「なにすんだ!」
反射的につい怒鳴る。大人げない態度だ。少年はびくりと肩を震わせたものの、すぐに立ち上がると、脱兎の如く俺の脇を駆け抜ける。少し薬剤の臭いがした。
「お願いねーちゃん!絶対誰にも言わないで!」
「お、おいちょっと…」
少年の様子は、それはもう必死といった感じで、つい追いかけることもできず、俺はそのまま見送ってしまった。一体全体何なんだ…という俺の疑問は、しかし数分と立たずにして解消される事となった。
「お嬢さん。こっちに餓鬼がこなかったかい?」
タバコの臭いが鼻につく。少年を追うようにして、三人の大人が現れた。柄の悪さに対して、身なりが良い連中だった。チンピラとかヤクザではなく、マフィアってやつなのかもな、と前世の映画から連想する。懐かしい。そういえば俺はこんな状況で死んだんだっけな。
「知らないわ」
端的にそれだけ答えれば、「そうかい」とだけ軽く返して俺をジロジロと見た。なんとなく胸元を隠すように腕を組む。この様子じゃまるで信じちゃいない。俄然さっきの少年が気になった。こんな連中がお天道様の真下で活動するなんて相当大事だ。あの大事そうに抱えていた荷物。間違いなく関係しているはずだ。
「ちなみに、その餓鬼とやらは何をしでかしたのかしら?」
前世での死の間際に近い状況にいるせいか、探偵業に戻った気分で俺は尋ねた。別に答えを期待しちゃいない。こいつらがどんな反応をするかどうかだけでも見たかった。
「あまり好奇心が過ぎると苦労するぜ、お嬢さん」
「そういう年頃なのよ」
俺はポーカーフェイスを気取る。こんなことは慣れたもんだ。男たちの目線と、俺の目線が交差する。しばらくして、男は懐中時計を取り出した。先に眼を離したのは男たちだった。
「戻るぞ」
無駄足と感じたのか、ぞろぞろと男たちは去っていった。息を漏らして再び背を預ける。流石に少し緊張した。取り敢えず大事にならなかったのは良かった。いくら反則的な力が使えるとはいえ、こんなドレス姿じゃ無理がある。それに、エレナの数少ない外着を汚すわけにもいかないからな。
ああ、どうしようか。全く今日は悩み事が多すぎる。エレナ自身の損得を考えれば、放っておいたほうがいいだろうな。ことここにおいてエレナが関わって利益があるとは思えない。安易な考えとしては、あの少年が何かをマフィア連中から盗んだ…ってとこか。少年に味方したところで犯罪者の片棒だ。ああ、まるで馬鹿みたいな話じゃないか。
「子供を助ける…か」
ふと、亡き父親のふざけた伝説を思い出した。その中には見知らぬ餓鬼を助けてバイクで送り届けたとかいうものもあった。漫画みたいな話だ。だけど、父はそんな男だった。親父なら…いや、俺はどうしたい。エレナのためではなく、俺という人間はどうしたいんだ。ここで何事も無く日常に戻りたいのか?
「…ちくしょう」
拳を握る。エレナの長い爪が食い込んだ。少年が去っていった先を見つめる。大通りから垂直に外れる方角だ。全く土地勘のない場所。少年の名前は知らない。知っているのは姿と、追われているということと、薬剤の臭いだけだ。
俺はエレナのために行動すると過去に誓った。なにせエレナの肉体はエレナのもので、俺のじゃない。当然その誓い破るわけにはいかない。背かないとも誓ったのだ。しかし、だからといってエレナ以外を全て切り捨てることが正しいのか?それじゃあエレナにとって俺は便利な道具でしかないんじゃないか?そんなものを与えられて、真っ当に育つことなんてできるのだろうか。むしろここで俺が父の生き様を見たように教えられることもあるんじゃないか?ええいこんがらがってきた。
「エレナさんこちらにいらしたのですね」
「…すまんアリア!先に帰ってくれ!埋め合わせは今度必ずする!」
アリアの返答は待たなかった。情けないことにドレス端を持って、俺は駆け出す。もう細かいことはなしだ!俺はとにかくあの子を助けたいと思った!だから助ける!それでいい!
アリアの驚く顔が見える。こんだけ世話になったのに放り投げてどこかに行くなんて俺は最低な男…ああ、うん男だ男。済まないアリア。文句なら俺に主導権を譲ったエレナ本人に言ってくれ。
「エレナ、俺はちょっと自分勝手になる。嫌ならいつでも変わってやるから言ってくれ!」
俺の言葉が路地に反射してこだまする。返答はまるでなかった。
どんどん路地を進んでいく。人気はまるでない。次第に街の風貌が絢爛としたそれではなく寂れていく。間違いない。少年はこっちに来たはずだ。いや、恐らく戻った…というのが正しいだろう。あの少年はボロ着だった。当然金もない筈だ。そんな子供がサンミュールで暮らすなんてのはまず無理だ。なにせサンミュールは国家群オーラの中心。地価だって税金だって半端じゃない筈。ならば少年が住める場所は限られる。所謂ゴーストタウン化した場所があるに違いない。
今やっていることがエレナのためにならないのは間違いない。もしもエレナに危険が及ぶ…又はロレンシアに問題が起こると判断したら、その時は必ず逃げよう。情けないが俺という人間ができることには限りがあるし、俺の生き方をエレナに強要することはできない。その時はその時だ。だからその時までは俺らしく走ろう。
ひときわ薄暗い道に入ったところで、初めて人に会った。なんというか、パッと見は冴えない青年だ。背は平均的だし、顔も端正っちゃ端正だけど覇気がない。
「こんなところに何のようだ?」
しかし、その眼球だけが薄暗い中、爛々と光っているような…そんな錯覚を覚えるような目つきの男だった。
「ちょっと野暮用でして」
まさか盗賊の部類かと、少し身構えて答える。なんとなく只者じゃない感じがした。だいたいこんな場所にいる時点で普通の男じゃなさそうだ。それに今の俺はゴスロリ少女…自分で言って恥ずかしくなるが、とにかく少女だ。襲わないのが不思議なくらいだろう。
「あんたも変わってるね」
一歩一歩青年が進むたびに緊張が走る。丁度横並びになって、あわや戦闘かとおもいきや、青年は何気なくそのまま歩き続けた。
「忠告じゃないけど、この先に進むんなら格好を選んだほうがいい。次の道を左に進めば古着屋だ。それと、ちょいと覚悟もね」
「…ご丁寧にどうも」
男はそのまま過ぎ去っていった。不思議なやつだった。確かに変装をすればエレナへの懸念は解消されるかもしれない。とにかく早く少年を探さなければ。少なくとも、日が落ちる前…それが期限だ。ただあの薬品の臭いは覚えがある。
少女の後ろ姿を眺めながら、男は薄っすらと笑う。口元だけが口角をあげる…怪しげな、誰もがぞっとするような笑みだった。
「面白い子だね。ペペが好きそうだ」
いつの間に取り出したのか、男の右手からきらりと銀糸が一本垂れ下がる。
「おっと。いけない。今は仕事に専念しなくちゃ。人探しなんて柄じゃないんだけどなぁ」
口元の笑みを左手で隠すと、男は銀糸を宙にかき消し、エレナが進んだ方向とは真逆に歩き出した。