第二十一話 入れ替わり二限目
たった三時間、されど三時間である。自分で体をこんなにも動かしたのは始めてだ。今までは気にも留めなかったが、いくつかわかったことがある。まずは腹がへる。甘いモノが食べたい。俺のほそぼそとしたデザートづくりの趣味もあって、何度かエレナに作ってやったことはあったがそのせいかもしれない。次に下世話な話だが、トイレが面倒だ。ぜひトイレだけは入れ変わって欲しい。そして何よりも思い知らされたことは、俺はエレナになりきれないという事実である。
同じ人間になりきる。それがどれだけ難しいことか、テレビ画面の中で華麗に変装する怪盗しか見たことのない俺にはわかっていなかった。その場しのぎならなんとかなる。例えば数分受け答えするとか、授業中の態度だとかその程度なら問題ない。
だが日常をその人物として過ごすためには、その全てを知る必要があるだろう。癖や仕草、声の抑揚や教養、知識…そんなものはよく知っている。他でもないエレナの事なんだからわかる。ただし、普段どうやって歩いているか、なんてものでここまで窮地に立たされるとは思わなかった。
「貴方、もう少し緩やかに動けないのかしら。緊張しているのでしょうけど…」
つま先から頭のてっぺんまでをどう動かして歩くのか。男性の…それも成人男性と十三歳の少女の違いなんざ見るまでもない。加えて俺自身“歩く”という動作がうる覚えになる程度には普段体を動かしていないのだ。
「エレナさん!先程は大丈夫でしたか?」
廊下を歩いていると、アリアが小走りで後ろから駆け寄った。眉をハの字に、心配するような様子を見せる。まだ友人といえるか怪しい程度だというのに、彼女はエレナを案じていたんだろう。俺がエレナではない…ということが心苦しい。
「何でもないわ。どうしたのよ」
「いえ、何やら妙でしたから…それにエレナさんの様子も…」
「…ありがとう。でも本当に大丈夫」
それだけ言って、俺は顔も合わせずに教室へと進む。アリアも特にそれ以上は言わず、後ろからついてきているようだった。本当に申し訳ない。もしこれがエレナではなく、俺という一人の個としてアリアに会っていたなら、エレナのことをありがとうだとか、これからよろしく頼むだとか言いたいものだが、あくまでも今の俺はエレナーダ・ロレンシアその人だ。頼むからこれでエレナとの距離が離れるようなことだけよしてくれよ…。
目立たぬようゆっくりと扉を開ける。時間はほぼぴったり。全く教室が遠すぎる。そもそも全校生徒三百人程度だというのに色々とでかすぎるのだ。
「ああ、あなた達。名前は?」
教室は算学の授業のものとも、魔導クラスのものとも違う、ダンスレッスンでもはじめようかという広めのホールだった。黒板と教卓はあるが…机も椅子もない。そこに六十人程の女生徒達と、そして背の高い三十か四十代程度の女がいた。
「エレナーダ・ロレンシアです」
慣れない言葉で返事をする。口がもごもごと煩わしい。エレナーダと名乗ることは、どこかもやっとした感覚があった。アリアも続く形で返事をする。
周囲に男はいない。社交学では性別ごとに教室が違う。教える内容が違うだろうし、なんでもドレス作法なんてものもあるらしいから当然の配慮だろう。しかし、そこに俺が混じるとなるわけだ。奇妙な不安を抱えて俺は女生徒の群れ…その少し後方に移動した。
「よろしい。あなた達で最後です。遅刻者がいないことは大変素晴らしい」
危ない危ない。少しいかつい目つきをして、年に似合わないポニーテールのこの教師は遅刻厳禁なタイプらしい。
「では、少々自己紹介をしましょう。私はマイレ・カムラーク。聞き覚えがある方もいるでしょう。カムラークはマグラカットの源流となった家でして、現在私はキューレ様の教師としてマグラカットを指導する立場に有ります」
カムラーク、という名前に生徒が反応する。マグラカットは前世におけるワルツに近い。つまりは社交ダンスだ。貴族階級が教養の違いを明確に表す方法としてダンスが適切なんだろうか。とにかくこの世界でも社交の場において、マグラカットという踊りの流派は重要なものらしい。
「この社交学では、中心となるマグラカットに加えて、それぞれ基礎的な体運びから、通常のマナーとは異なる社交における知識について学ぶことを目標としています」
マイレ・カムラークは黒板にあらかじめ筆記を辿りながら説明する。なるほどマイレの動きは洗練されている。一般的な丁寧な動きとは違い、自分を綺麗に魅せるための優雅な動きだった。
「先生」
「はい、よろしい。質問があるときは手をあげてくださいね」
生徒の一人が手を上げ、マイレはすかさず手を向けた。
「あの、マナーや所作も社交学なのでしょうか」
おずおずと生徒が尋ねた。そして周囲の生徒もウンウンと同意を示す。それを見てマイレは教卓の中央へと戻った。
「なるほど。ではこの中に、社交界や何か公の行事でのパーティーといった経験がある者がいましたら、手を上げてみてください」
マイレの言葉に十数人の女生徒が手を挙げる。特に自信たっぷりといった感じで胸を張る前方の生徒にマイレは歩み寄る。
「貴方、率直で構いません。その時、どのような感想を思い浮かべましたか?」
「絢爛として嘆息してしまうような体験でしたわ。整えられた舞台、マグラカットという演目、完成された美術のようで…」
「もっと素直に」
食い気味にマイレは尋ねる。正面はよく見えないが、女生徒は不服そうに姿勢を崩した。
「…とても、美しい世界だと」
「ふむ。良い意見です。ではどうして美しいと思ったのですか?」
「え…そ、そうですね。素晴らしいドレスにタキシード…それらを着こなした…」
「できれば服装や装飾品以外で」
容赦無い質問に女生徒は不服を通り越して困惑する。アリアも不安げにこちらに視線を送るが、反応はしなかった。もしもあの先生に目をつけられて、あんな質問攻めを俺がくらっちゃたまらない。
「え、えと…雰囲気がいつも違ったといいますか…」
「雰囲気が違うというのは的を射ていますね。よろしい。社交の場で重要なことは、自分を作品として仕上げることです。通常のマナーや端正な所作、姿勢…そういったものと社交の場においてのそれは一線を画すものです。私の授業は、まずそこから始めるつもりです。よろしいですか?」
両手を合わせて、マイレは生徒を見回す。誰も反対せず、歩調の合わない”はい”という返事で授業は始まった。
そして話は冒頭に戻る。とにかく俺はこの歩くという動作を馬鹿にしていた。取り組んでいるのはファンションショーのように腰を使う独特な歩き方。そして片目を吊りあげるマイレの前で、俺は壁に右手を添えて軽くよりかかっていた。
「申し訳ありません…」
「ふむ…貴方…エレナーダさんでしたね。もしかして余り経験がないのかしら?」
「そ、そうかもしれないですわ」
確かにエレナーダ・ロレンシアはそもそもこういった経験がない。身内のパーティーですら参加したのは極稀だ。もしかしたら、これはエレナも苦手とするところかもしれない。だというのに、男である俺が女の体になったからといってそう安々とできることじゃないのは確かだった。
「腰を高く意識して、呼吸を最小限に胸を張りなさい。そして足運びだけを意識してはいけません。歩くという動作は社交の場では最も基本となる自分の武器なのです」
マイレは殆どつきっきりで手取り足取り教えてくれるが、まるで耳を通り過ぎるかのように頭に入らない。周囲の生徒が俺を見てくすりと笑う。どうしようもなく焦っていた。これじゃあエレナの恥になり、またエレナの立場を悪くする火種になってしまうだろう。
「いつっ!?」
焦燥に駆られ力を込めてしまい、関節を痛める。体力的にも精神的にもまいった。こういう時に俺の力はまるで役に立たない。慌ててアリアが駆け寄り、肩を支える。この子には恩ができすぎでしまった。
「もしかしたら貴方は下級生達ともう少しゆっくり学んだほうがいいかしら」
「そ、そんなっ!?」
告げられた絶望に俺は声を荒げた。マイレの表情は怒りというよりも、その目線は哀れみに近かった。
「歩き方が男性のようです…。それにどことなくぎこちない。癖でしょう。こういうものを矯正するのは得てして時間がかかるものなのです」
「どうにかなりませんか?」
何も言えない俺をおいて、アリアが尋ねる。
「これは彼女のためでもあります。このような癖を持ったままでは将来のためにもなりません。タンジブル家には私から口添えして授業の変更を申請してみましょう」
なんてこった。このままじゃエレナはどう学年だけでなく、下の貴族たちにも嘲り笑われてしまう。しかも、下の学年には弟のロシューダがいる。どうなるかは嫌でも想像できる。
「待って!待ってくれ!」
別の生徒を見に行こうとするマイレを呼び止める。どうする。どうすればいい。エレナは全く俺の様子に気づかない。このままじゃこの人は本当に申請しかねない。なんとかしなければ、なんとか…。
「だ、だったら、この癖を直せればいいんだな!?次の授業までに完璧にしてみせる!それで文句ない筈だ」
そうだ。歩きを完璧にするわけじゃない。男としての癖をなくせばいいだけ。しかも次の授業中ならエレナも帰ってくる。そう単純に考えなおして、俺はマイレをなんとか思いとどまらせようと叫んだ。
「確かに………そのとおりです。では次の授業までに、最低歩く体捌きを認められるものにしてきてください。それで一度様子をみましょう」
マイレは渋々といった様子で認めた。良かった…。本当に良かった。次の社交学は三日後だ。それまでにはエレナも戻っているだろうし、何も問題はない筈だ。
「それと、そのような言葉遣いでは、体捌きができても今度は対話術で躓いてしまいますよ」
口を開けてぽかんとしたあと、俺が何を口走ったか気づいた。すまんエレナ。ゴーストに加えて、教養の無さとお下品な言葉遣いという要素がエレナーダ・ロレンシアに追加されてしまったようだ。なんとなく今回はエレナの協力が得られそうもないなと思った。
投稿が遅れて申し訳ありませんでした。
活動報告にあった風邪ですが、熱もいくらか下がりました。
次話投稿に関しては問題はないと思います。
 




