第二十話 入れ替わり一限目
自己アイデンティティだとかミームだとか、そういうものを形成するものが何であるか俺自身わからないしかしながら、肉体という外枠とそれらは切っても切り離せないんじゃないかと思うわけだ。誰にだって肉体的特徴によって作られた精神面はあるだろう。単純な背丈とかの話の場合や、美醜に関わるものだってある。
つまるところ学生服になんとか着替え、鏡の前でエレナに恥をかかせないよう身だしなみをチェックする俺の心境は、自分自身をなますのように摩り下ろすような感覚だった。いくら元の体を失った身だろうが、実際少女の体を動かすとなると、自分という存在がかすれていくような喪失感をどこか覚える。
エレナは今朝方俺とバトンタッチすると同時に、返事が聞こえなくなった。とんでもない集中力を発揮しているのか、それとも俺のように意識をあの空間に送る術でも見つけたのか、とにかくエレナは反応しなくなった。今日はずっと、俺一人だ。
「エマ、これで大丈夫?」
「どうしましたか?」
「あ、いや。…なんでもないわ」
学生服に着替え、スカートの丈を整えて、鏡の前に立つ。エレナが着替えてみせた時は違和感のなかったそれも、俺がするとなると話は別だった。
何もかも慣れない。今のところ困ったのは食事だった。エマの前でなんとかボロがでないようにゆっくりと慎重に進めたが、おかげで全く味がわからなかった。一応作法は知っている。エレナと共に歩み続けた十年近い月日で、否応なく覚えたものだが、それも知識と実践では話が違う。終始俺の手は震え続けていただろう。これが前世の学校のように、集団で食事だったらと思うとぞっとする。各自の部屋で摂る方式で本当に良かった。
今日は歴史…そして社交学。歴史は最も受講生徒数が多い授業でもある。ある意味エレナーダという少女にとって、最も危険な場所だ。魔導クラスも大概とはいえ、人数が多い授業っていうのは避けたい。勿論授業中に何かされるわけもないと思うが、その前後の不安が拭えない。もし俺がエレナーダではなく、俺として出席するならばそんなもの全く気にせず行くだろう。そんなもの気にしても面倒でしかない。しかし今はエレナーダ・ロレンシアその人なのだ。下手な行動をするわけには絶対に行かない。
頼みの綱でもあるアリアの存在もあるが、あれは算学という人数が少なく、勉強熱心な連中ばっかりな環境だったからだ。貴族としての教養たる歴史じゃあそうはいかない。貴族としてのプライドばっかりでエレナのことを気に食わないなんて連中がわんさかいる可能性もある。勿論これは俺の想像であって、現実はもっと明るいかもしれないが、エレナのためにも失敗は許されない。
なればこそ授業開始ギリギリに登校…というわけにもいかない。少なくともエマやアランに怪しまれる。どうしたのですかお嬢様なんて聞かれて上手くごまかせる自身は毛頭ない。それにロレンシア家としても、そんな慌ただしい登校で恥をかかせるというのもよろしくないだろう。
所変わってここは学園内部の庭園。授業開始前、まだ園芸部なんて当然無いここには、俺以外誰もいなかった。登校が遅らせられないなら、授業まで教室に入らなければいい。そう思い立った俺が選んだのが、まるで人気のないこの庭園だった。
「はぁ…」
居心地が悪い。その一言に尽きる。長時間エレナと変わるときはいつもそうだ。録音された自分の声を聞いているときの違和感に近い。ブラジャーをつけるだとか、そういう行為はまだいい。そんなものは残念ながら見慣れてるし、たまにエレナが朝支度をめんどくさがるから仕方なくやったもんだ。
それにしても見事な庭園だ。いたるところに花が咲き乱れ、どれも美しく整えられている。設立したばかりというのもあるが、優秀な庭師が何人もいるのだろう。前世で花は人間…特に上流階級にとって重要な意味を持っていた。この国でも、花は世界を彩る装飾として根強い文化がある。残念ながら、今はその彩る対象が俺しかいないわけだが。いくら側がエレナのものだとしても、中身が俺じゃあ意味が無い。ハリボテみたいなもんだ。ぼんやりと風に揺れる花々を座りながら眺めて、そんなことを思った。
「綺羅びやかな庭園ねぇ…全く似合わないな」
「そんなことないさ。君はここにある全ての花達よりも、綺麗だと僕は思うよ」
一瞬何が聞こえたのかまるで理解できなかった。視線をずらせば、そこにいたの真っ白な柱に背を預け、同じように花を眺めるキューレ・タンジブルその人だった。はて、おかしなことに奴と俺以外はこの場所にいない。一体どういうことか。
キューレと目線が合う。そうして初めて、キューレの言葉が俺に対してのものと知り、俺はどうしようもなく腹を抱えて笑った。声を殺そうとして、肺が痙攣する。とてもロレンシアの長女としてはふさわしく無い、自嘲気味で卑屈な笑いだった。こんなトンチンカンな状況に置かれている俺の状況が馬鹿げていて、おかしくてたまらなかったのだ。
「落ち着いたかい?」
困惑して肩をすくめたキューレが話しかける。笑いすぎて腹が痛い。
「ああ、わる…ごめんなさい。この前のことも、申し訳ありません」
口をすべらせ、すぐに言葉を直す。うっかりすると言葉遣いをすぐに間違えそうだ。ついでにこの前、寮であったときの態度も謝っておく。あの時は初対面だったとはいえ、この国の第一王子を知らなかったでは国家群オーラに所属する王族として許されない。
「いいさ。珍しい体験をさせてもらったよ。女性に笑われたのも初めてだし、そんな笑い方をする女性に出会ったのも初めてさ」
キューレはそのまま俺の隣に座った。王子相手にどう対応していいかわからず、俺は取り敢えずそのままを保つ。キューレは特に気にしている様子ではなかったから、まぁ問題はないだろう。
「それよりも、もうすぐ授業じゃないかな?」
「キューレ様こそ」
そう言って、お互いに笑う。第一王子なんて大それた肩書をもっているが、思ったよりも話せるやつだ。歯が浮くような台詞癖も、多分俺以外に言えば様になるんだろう。
「なに、僕もしばらくすれば此処に通うことになる。その準備の一環さ。まだ授業には出れないよ」
どうやらこいつも通うことになるらしい。王子様が通うとなると箔がつく…ってやつだろうか。
「ところで、エレナーダ。君はパーシーから話を聞いているかい?」
「なに?」
突拍子もない話に、俺は脊髄反射で答えた。パーシー…それは恐らくエレナの父パーシー・ロレンシアのことだろう。
「そうか、それじゃあ君はこの件に関して何も知らないんだね」
「どういう、ことかしら?」
思わず言葉遣いを誤り欠けて、慌てて言い直す。言葉遣いはやはり慣れない。でも今はそんなことどうでもいい。この件とはどの件だ。それにパーシーが関わっているのか?そしてそれをキューレも知っている?ゴーストとかの話じゃまずないだろう。
「ごめんね。これに関しては秘密なんだ。多分、君のためにも。」
「私のため…?そいつは随分ときな臭い話ね。貴方とお父さまが何か図っていて、それを知れば私にも危険が及ぶ…なんて話か」
キューレは沈黙した。それはこの状況では、肯定とほぼ同義だった。キューレとパーシーの間に何か隠し事があるのは明白だ。そして、それはどうやらエレナに危険が及ぶようなものらしかった。これに対して俺が怒りを露わにしたのは言うまでもない。目線を尖らせ、声を張る。まさか知らないところでエレナに危険が、それも父親であるパーシーのよってちらつかされていたという事実が許せなかった。父親ならばそれを伝えるべきだろう。どうして…パーシーは何も話さなかったのか。
「もしそうなら、私が知っていようがなかろうが関係ないだろうに。そうでしょう?それとも例えば私を人質か餌…まぁなんでもいい。とにかく私でお父様を釣ろうとしない…という腹積もりなのか?ゴーストエレナーダなんて交渉の材料にすらならないと」
暗幕が広がる。まさかパーシーがエレナを学園にだしたのも厄介払いか?というとんでもないことまで、現実味をもって感じられた。言葉遣いが乱れていることすら忘れて、俺は妄想を捲し立てた。
「…誓って言おう。僕は君をロレンシアの長女として、恥じない女性であると思っている。そして、それはパーシーも同じだ。もし誤解させてしまったのなら、許して欲しい」
そういってキューレは立ち上がると、頭を下げた。王族がそんな軽く頭を下げていいものかと思わなくもなかったが、確かに誠意ある男の姿に、俺も少し怒気を収める。だったら何を秘密にしているのか教えてほしいものだ。しかしそれがエレナのため…ということであれば、俺は何も言うことができなかった。
「悪かった。そっちも事情があるんだろう。それに本来であれば、それを伝えるべきなのは、お父様だ…」
本当にエレナを大事に思っているのか、それともエレナには荷が重いと思っているのか、それとも期待していないだけなのか…。パーシーは堅い男だ。そして、教育が下手だ。パーシーならばエレナを大事に思うあまり秘密に…なんてこともしでかしそうである。
「ところで、それが君の素なのかい?」
パーシーは苦笑いを浮かべながら言った。ハッとして、青ざめる。タンジブル家に対してあんな言葉遣いは許されない。そして、この行為はエレナーダ・ロレンシアが行ったものとなる。
「いえ、申し訳ございませんでした。どうかお許しくださいませ。少々特異な環境で育ったもので…」
「そんな気にしていない。驚いただけさ。ああ、初めてがもう一つ増えた。君のように素直な女性と出会えたのも初めて…いや、お祖母様も…かな?とにかくびっくりしたけど、気にしてないよ。勿論、公衆の面前ではやめたほうがいいけどね」
「それは、誠に仰る通りで…」
そんなことをしてしまえばロレンシアの未来は間違いなく暗然としたものになるだろう。よくよく考えれば、いくらエレナが巷でゴーストエレナと呼ばれようがロレンシアの顔であることには違いない。もしパーシーがエレナを愛していないというのなら、わざわざサンミュールに送るようなことはしない筈だ。
「おっと、急いだほうがいい。授業がはじまるよ」
「それでは…私はこれで」
深く一礼してその場をそそくさとさる。これ以上一緒にいればメッキが完全に剥がれてしまう。俺に王子と話す教養は無い。地獄のように見えた歴史の教室が、今だけは天国だった。
「なるほど、これはパーシーの言うとおりかもしれない。確かに、ゴーストと呼ばれるだけはあるな」
歴史の授業自体はたいへん楽だった。なにせ書き取るだけでいい。覚えるのはエレナの役目だ。演習なんてものもないし、前世と変わらずひたすら教科書を持った中年がぼそぼそと喋るだけの授業だった。問題は、そのあとである。
「ちょっと、貴方」
授業終了とほぼ同じだった。まさかいきなりそんな馬鹿なことがあるのか。俺は意図的にその声を無視してせっせと教材をまとめる。今後はやはりあの庭園こそが天国に思えるんだから不思議だ。
「貴方よ!ゴーストエレナ!」
「…なにかしら?」
名指しをされてしまえば逃げられない。俺を呼んでいるのは軽く縦ロールを掛けた黒髪の女だった。この世界では珍しいメガネをかけている。魔導クラスにはいないやつだった。
「エレナ…?」
「えっと、用事があるみたいだから行ってくるわ」
アリアが声をかけてくるも、心配しないよう答えて教室を出る。ちょっときなさい!と呼ばれて足を運べば、恐らく音楽室のような場所へと導かれる。ああ、これは間違いないなと思いつつも、俺は躊躇せずに足を踏み入れた。そして、やはりそこには計4人の女学生がいた。
「貴方、キューレ様に一体何をしたの!?」
「話が見えないわ」
開口一番に黒髪の女はそう叫んだ。なるほど、ここは防音効果があるんだろう。やかましく叫ぶにはうってつけかもしれない。
「今朝方キューレ様と…何故か貴方が一緒にいたところを私達はこの目で見たのよ!」
「あぁ…そのことか」
どうやらゴーストエレナだから…ではなくキューレ絡みらしい。俺の返事を肯定を受け取ったのか、彼女らは次々と口を開いていった。
「貴方のような人がどうしてキューレ様と…ゴーストの力を使ったのでしょう!」
「なんて汚らわしい…。キューレ様を貶めようとするなんて!どうしてこのような汚れたものが学園に通っているのです!」
「それに、何故かキューレ様が恐れ多くも頭を御下げしている様子も私は見たのです!あれは絶対に有り得ませんわ!」
ああ、それには俺も深く同意する。はっきり言ってあの時の俺の態度は処刑とはいかなくとも、厳重注意くらいはされてしかるべきものだった。それもなく、しかも頭を下げたキューレはそういう身分差に頓着しない人間なんだろう。全く出来た人間だ。一体どうしたら第一王子があんな真人間になれるんだ。
「もしやミーシャ様。既に国の者も全員…」
一際背の小さい少女が黒髪に囁く。黒髪は両手拳を握りしめ、わなわなと体を震わせる。顔が真っ赤だ。
「もう二度と不埒な真似ができませんよう教育してさしあげますわ!」
「痛い目にあいたくなければおとなしくしなさい」
少女達の二人が乗馬用の鞭を片手に近寄る。なるほどエレナが魔導クラスにいることはしっかりと理解できていたらしい。基本的に魔法は詠唱が必要だし、近接武器として鞭は優秀だ。なにせ痛い。詠唱のための集中力なんかも当然切れる。非力な少女が持つには十分過ぎる武器だろう。この場合は、相手が悪かったとしか言いようが無いが。
鞭を持った片方に、無言で近寄る。少女は痛い目を見たいようねと震える声でつぶやくと、形も全くなってない破れかぶれなフォームで鞭を振るった。すっと避ける。未だに俺のこの特異体質は健在だ。まして体を全く動かしてもいない箱入り娘の攻撃を避け、そして手刀で腕を払い、鞭を取り上げるなんて造作もなかった。少女は手刀の痛みに驚いたのか、そのままデンと尻餅をついた。
「なれないことは、しないほうがいいわ」
鞭をくるくると回しながら警告する。相手の家の格がわからないが、暴力沙汰を学園で起こしたとなれば十分不祥事だろう。その際にエレナに責任が全て押し付けられる可能性もある。しかし鞭のミミズ腫れはよく残る。立派な証拠足りえてしまう。エレナにとっても、彼女達にとっても、こんなものは益のないことだった。
「ほら、立ちなさい。皺になる。そしてもうこんなもの持ち込まないように。ま、なんだ。妄想膨らました“ごっこ遊び”なんてものは、やめにしなさい」
尻餅をついた子を無理やり起こして、鞭を返す。彼女たちはこんな結果になると思ってもいなかったのか、全員ゆっくりと後ずさった。
「別にキューレ様と会ったのは偶然。あなた達が見たのも偶然。そもそも私があそこにいたのは、単に一人になりたかったから」
「そんなの…嘘よ!偶然でキューレ様と話せるわけ無いわ!それに頭を下げてたのは何なの!」
「キューレ様がそれだけ器の大きい人物だった…ということよ。少なくとも貴方達が考えている以上に」
少女たちは不安げな表情を隠さずにお互いの顔を見て、どうするどうすると囁き合う。どんな悪意が待っているかと思えば、まさかこんな少女漫画染みたものが待っているとは思わなかった。気が抜けて言葉遣いがまた外れそうだ。それにしても俺と…いや、この場合はエレナとか。エレナとキューレか…馬は合わないだろうなぁ。エレナも特にキューレのことは言ってなかったし興味もなさ気だった。よし、良からぬ噂を打ち消すためにも彼女たちに力を貸すのはどうだろうか。
「貴方達、キューレ様が好きなんでしょう?」
「あたりまえでしょ!キューレ様がいるから此処に来たのよ!」
これは愛が重い。確かにキューレはイケメンに部類されるだろうが、流石第一王子だ。そういや第二王子はどうしたんだろうか。特に黒髪と最初に鞭を振るった少女は明確な意志を表していた。
「そう、それなら、頑張りなさい。まずは話してみなさい。きっと彼なら笑顔で応じてくれるわ」
「そ、そんなの…無理よ…。私達とキューレ様じゃ身分が違いすぎるわ」
泣きそうな顔で、黒髪は言った。勇気がないんだろう。たった一歩が歩み出せないのだ。前世でもこんなやつはよくいた。
「上ばっかり見て、歩くことを忘れる人生なんてやめなさい」
これも所詮又聞きの話。俺がしっかりと人生を歩いていけたかと言われれば、そんなことはない。むしろ、上を見ている間に死んじまった。
「私も、暇があったら手伝うから。そんな顔しないでシャキッとしな」
フェミニストというわけじゃないが、こいつらは可愛い盛りだ。このまま曲がってほしくなんか無い。それに打算的ではあるが、恋愛っていうのは仲間を作りやすい。少なくとも、これで敵になるがなければ御の字だろう。
「それじゃ。次の授業は社交学だから遅れないようにしなさいよ」
軽く手を振って、教室を後にする。次の授業は社交学…果たして俺はこの試練をくぐり抜けられるのだろうか。