プロローグの2 主人公は二度死ぬ
南北二千キロにも連なる国家群オーラの末席、最北端に位置するその国の名をヒューと言った。夏季を除き常雪で知られるヒューの地を収めるのは、ロレンシア家という王族である。首国とされる南西のサンミュールに比べると些か以上にも僻地とされるヒューではあるが、ロレンシア家は厳格な貴族然に重きを置く立派な王家であった。王家と言っても、国家群オーラにおいてそのあり方は他国で言うところの大公に近い。王位継承権の争奪なんてものは、ヒューにおいて存在しないも同然である。
さてそんなヒューの地に、新たな生命が誕生した。名をエレナーダ・ロレンシア。前述したロレンシア家の長女として、初産であり様々な葛藤や障害を乗り越えた母と、家訓諸々を無視してまで妻に付き添い、彼らの信仰する地母神アダへの祈りを捧げ続けた父、その両名に見守られながら、大層な祝儀とともに産まれた。エレナーダは家族からエレナと呼ばれ、地母神アダの御心か順調にすくすくと育った。両親は共に我が娘の成長にほっと一息をつき、次は男の子だなと和やかに話す場面もあったという。
エレナがほんのちょっぴり、おかしな子である、ということに気がついたのは乳母役の侍女マーサだった。マーサはその日、上都警備隊に勤務する彼女の弟が久方ぶりにロレンシアに戻るという言伝てを聞いて、上機嫌でエレナの部屋へと向かった。エレナはまだ1歳にも満たない乳のみ子である。夜泣きする彼女を満足させるために深夜も付きっきりで見守るのがマーサの仕事なのだ。
さてマーサはまじめでロレンシア家からの評価も高い女だったが、この日は随分と浮かれていました、とロレンシア家の執事ダイヤーは後に語った。これが少し厄介を生んだ。エレナがいくら幼かろうと身分の差は明確に存在する。この国では育児部屋だろうとしっかり入室の作法を行うのが当然であったが、マーサはうっかり戸を叩くことすらせずに足を踏み入れてしまったのだ。これはよろしくない。あっ、とマーサも直ぐに自らの失態を理解したが、恩義あるロレンシア家のご息女に対してなんたることを、と自分を叱咤する手前で、マーサは奇妙な光景を見た。
絢爛な装飾に加え、ロレンシア当主パーシーとその妻ランターナが娘を喜ばせるために至るところから集めた多種多様品々に見守れる中、虚空を見つめて座り込み、まるで不可視の何かと会話するようにあうあうと声をあげる乳児がそこにいた。数秒ほどだろうか。マーサはそれを呆けて見つめ、次いでぞわりと彼女の背中を悪寒が駆け走った。特別エレナの様子が不可解なわけではない。幼児の行動が必ずしも理屈を伴うものではないことをマーサはよく理解していた。しかしマーサはその光景を見て、エレナの横の誰かを幻視するほどの何かを感じ取ったのだ。これがエレナに纏わる奇行の序章となった。
エレナは、ものを理解しパパ・ママと両親を呼ぶ前に、マニーという誰も知らない名前を呼んだ。パーシーとダイヤーは、よくある空想の友達だろうと片隅に置いたが、マーサと彼女から話を聞いたランターナは、これが単なる世迷い言ではないと感じていたという。ランターナはロレンシア家と友好の全くない隣国マーシャルの出である。そんなランターナがヒューに来てからどのような苦難を乗り越えてきたかは想像に難くない。そんな彼女だからこそ、娘がまともではないことに気づくことができたのかもしれない。
エレナは事あるごとにマニーについて話した。エレナが特に心を許す見習い侍女エマによれば、マニーは男で、煩くて、物知りらしい。しかも、エレナは絶対に知り得ない知識をひけらかし、逆に全く見当違いなことや意味のわからない言葉を喋った。次第にダイヤーも此れは可笑しいと気づいた頃には、マーサは当主パーシーに、もうエレナと関わりたくないと落雷をも覚悟して懇願を出した後だった。たった数ヶ月で、随分とマーサは痩せてしまった。
いよいよパーシーはエレナと、そしてマニーを無視できなくなった。マーサはエレナがゴーストに取りつかれているのではないかと訴えたが、現実としてゴーストは存在しない。
ゴーストの起源は200年前、ザラと呼ばれる国で起きたザラ国王狂乱事件で登場する。ザラ国王はその親衛隊をもってして、突如妻とその親族を一族皆殺しにしたのだ。王女は取り立てて聡明であったり、美貌に優れていた訳ではなかったが、民に愛される王女であった。これを好機と反乱企む貴族の煽動もあって、民は怒り狂うと後に記されるほど暴動を起こし、遂には王を後一歩というところまで追い詰めた。王政此処に墜ちるかと誰もが信じた時、国の賢者たる魔導師が巨大な壺を伴って民の前に現れた。途端、壺の中から巨大な影が躍り出で、民は驚嘆し恐怖した。漆黒のそれはまるで人間のような形を模し、かつてない禍々しい妖気を放ったのである。賢者曰く、これが王を狂わせた忌まわしき魔であり、歴史に初めてゴーストが記された事件である。
聡明なパーシーは、このゴーストが民を欺くための虚像に過ぎないことをよく理解していた。それはこの事件の後に出現する不可解なゴーストの軌跡を辿れば明らかになる。ゴーストあるところに不祥事あり。ゴーストが現れるのは必ずやんごとない方々の周囲であった。民の前にゴーストが現れたのはゼラ王国が最初で最後だったのである。ゴーストとは、隠れ蓑と見つけたり。
ならばマニーとは何者だろうか。本来であれば、パーシーと妻ランターナは十分な知識を探求し事に当たり、なんとしてでもエレナを助け出そうとしただろう。しかし、そうはならなかった。この翌日、ランターナが第二子を妊娠したのである。それも、恐らくは男子。つまりは跡継ぎだ。これを境に、エレナはより孤独になった。あえて言えば、この時代それは当然のことである。親である彼らにもエレナをおぞましく思うところがあったのだろう。これを境に、エレナはあまり家族と触れ合うこともなく、屋敷の離れで静かに軟禁される次第となった。一向に、マニーの正体はわからなかったのである。
侍女エマは同僚に軽く手をふって、大きくバランスを崩した。おどけて笑いながら、体勢を立て直し、心配する同僚へ軽い冗談を零しつつ、足早に回廊を進んだ。いい天気だ。今日くらいは外出許可を戴けたら良いのに。そう嘆息する彼女の目指す先は、ロレンシア家に幾つか存在する離れの一つである。離れに足を運ぶのは、彼女を除けば給仕のものくらいだ。だからこそ、エマは自分の大役を無事こなさねばという決意をいだき、気合が入りすぎたのか少々ガサツな振る舞いで件の部屋へ足を踏み入れた。
乱暴な扉の音がした途端、エレナは会話を放棄し、警戒を強めて扉を見据えた。急速な視界の移動に目が回る。未だにこの感覚にはなれない。きっとカーチェイス中の助手席にでも乗れば同じ気分を味わえるだろう。なんといっても俺は常にその助手席状態だ。いずれ慣れるんじゃないかと楽観していたんだがまだまだ慣れない。
「お嬢様、失礼致します」
入ってきたのは馴染みの侍女のエマだ。そこらへんの野生児に無理やり着せたんじゃないかってくらいメイド服が似合わない赤髪の女である。身綺麗であるが、言動が粗暴だ。この屋敷に産まれた時はメイドだらけの日常に困惑したもんだが、今じゃ随分となれた。といってもここ最近はエマくらいしか見てない気もするが…。
「お父さまと…お母さまに会いたい」
エレナは開口一番そう漏らした。悲痛なつぶやきだ。なんとかしたいが、なんともできない問題…なにせその元凶は他ならない俺なのだから。しかし、現実に存在しない俺ができるのは、ただ眺めることだけだった。
三年前のことだ。覚醒した俺の眼に飛び込んだのは、全く知りもしない外国人の男だった。俺を抱き上げ、これまたわからない言語で彼らは語りかけてきた。俺はめちゃくちゃ驚いた。なにせ俺をひょいと持ち上げたのだ。身長一八0もあるこの体を。いったいどんな馬鹿力なんだ。しかも身長からしていくらなんでもありえない。途端、体をぐいと動かされ、視界が動く。
俺は内心あんぐりと口をあけた。そこには男の他にも女が二人。彼女らは同じようにとんでもない巨人だったのだ。そして、どこか既視感のある光景だった。俺には経験がなかったが、ドラマだとかそういうもんで見たことだけはある光景。そう、分娩室になんとなく似ていたのだ。
最初は転生したのかと思った。そいつはあまりにも唐突無形だが、ありがたい。現金な俺は、新しい生を謳歌できるのかと喜んだ。ところが俺がいくらああしたいこうしたいと念じても体はちっとも動きやしない。てこでも動かないなんて言うが、俺の場合はそのてこが動かない状態だった。
一体こりゃなんだと疑問を浮かべてみれば、今度は勝手に動くし勝手にあうあう騒ぎ立てる。いやもう本当にわけがわからなかった。あの時ほどこのちっぽけな頭を使ったことはなかっただろう。ついでに言えば、生前の俺は流石にもっと頭が良かった。ところがその時は集中力は続かないし断片的にしか記憶も呼び出せない。ようは馬鹿になっていた。
一方的に体が動き、感覚もなく、俺からはなんのアクションも取れないし、ついでに頭もぱっぱらぱーな日々がずっと続いたあと、なんとなく、誰かが常にいるような感触が芽生えてきた。同じ部屋に誰かがいるみたいな、そんなふわっとした感覚だ。俺は暇つぶしも兼ねて、姿の見えないそいつに話しかけた。やっほーだとか、おーいだとか、そんな超適当に。
「あう?」
誰かが答えた。そらもうびっくりした。なにせ、答えたのは俺の口だったのだ。そこで初めて俺は、自分の中にもう一人の人格が…それもおそらくは本来この体の正当な所有権を持つ人格が存在することに気付いたのだ。この体と同じように幼く、そして正しい性別の魂。簡潔に言えば、俺はどこぞのもう一人の私状態だったのである。ついでに言えば、俺が憑依まがいなことしたこの体が女性であることに気付いたのは、もう少しあとだった。
俺とその娘の奇妙な同居生活は、彼女がものを考えることができるようになってから始まった。考えると言っても、それは本当に未熟な感情で、俺が何を語りかけても、あうあうと相槌を打つくらいしかできなかった。なんとなく苛ついて怒鳴れば猛烈に泣き出す始末だ。俺の口から放たれる泣き声が俺の耳に入って俺を苦しめるというありがたい体験も味わうこととなった。仕方ないからまずは俺の名前を教えようとして、出来心から生前見ていた西部劇にちなんでマニーという偽名を教えた。それしかやることがなかったからそらもう必死になった。それこそ彼女の両親よりもだ。おかげでエレナの第一声は俺の名だ。どうだまいったか。
とまぁここまでは俺もお気楽な脳みそで過ごしていた。不思議な事に、エレナは俺と意思疎通を図るとき、言葉を発さなきゃならない。おかげでエレナは俺と会話するとき、どうしてもひとりごとのように虚空に向かって喋らなきゃいけないわけだが、俺も、そして当然エレナもそれがどれだけ異常であるか最初気づかなかったのだ。俺があっと気付いた頃には、すでにエレナは気味悪がられ孤立していた。一応は周囲に人のいない時に話していたつもりだったが、いつの間にかそうなっていた。
ああ、よく知っていたよ俺が馬鹿だってことくらい。俺のせいで、この子は暗い人生を歩もうとしちまってる。しかしここは日本じゃない。どこの国かわからないがとにかく日本じゃなかった。となると文化的にも何が正しくて何が悪いかわからない。いろいろ考えた末に、結局俺はただの話し相手に落ち着いたのだ。少しでも彼女の孤独を紛らわそうと…。
「お嬢様…。わかりました。必ずやパーシー様とランターナ様ご両名をこちらに連れ込んで見せます!」
俺の暗雲立ち込める思考を切り裂いたのは、そんな言葉だった。まだまだこの国の言語は曖昧だが、三年も暮らしてりゃ端々くらいはわかる。正直驚いた。正義感というか、義に厚い女だとは思っていたが、こんなにもエレナを思ってくれてるとは知らなかった。だってそうだろう。この屋敷の住人は尽くエレナを避けていやがる。そらエマだっていやいや来てるもんだと思ってた。エレナは彼女を慕っているが、そもそもエマから話しかけてくることは少ない。だから俺はなんでエレナがエマを慕っているのかがわからなかったが、子供なりに彼女は味方だと理解していたのだろう。もしかしたら、エレナは人を見る才能が有るのかもしれない。
<エレナ…良かったな。父ちゃん母ちゃんに会えるぞ>
「うん!エレナすっごい嬉しい!いつきてくれるかな?いつきてくれるかな?」
エマが離れていったことを確認して、呟く。純粋な瞳を輝かせて、エレナはにこにこと笑った。本当に会えるかはわからない。でも、彼女は全くエマを疑わずに信じた。この子はいい子だ。身内贔屓かもしれないが、本当にいい子だと思う。こんな状況でも、濁らない魂を持っている。俺がいなけりゃ、淑女として立派に育っただろうに。最近の俺は、専らそう考えて凹むのが日常だった。
<エレナ…何度も言ってるけどな。人前で俺と絶対喋るんじゃない。そして、俺のことも喋るんじゃない>
「なんで?エレナやだ!やだやだ!」
またこれだ。エレナがこうなった原因はよくわかってる。十中八九俺と会話する不自然さだ。加えて誰かもわからぬ男のことを喋るからだ。だからこそ俺はエレナがそういう行為を人前でしないように説得しているが、どうにも聞いてくれやしない。そらエレナからしたら俺は産まれた時からいるわけで、逆にしゃべらないほうが不自然なんだろう。しかしこれじゃまずい。両親にあったところで、突如俺に話しかけて気味悪がられるだけだ。
ならば、決意するしか無い。もしかしたら、俺は本当に消えちまうかもしれない。俺が存在することを示しているのは、エレナだけなのだから。でも、ダンディたるもの自分のわがままで子供を不幸にしちゃいけねぇ…。
ところで世の中には、いろんなダンディがいる。善行を積むダンディもいりゃ周囲全部に唾吐くダンディだっていやがる。何をもってダンディとするかは感性だ。あえてそれを言葉にするなら、結局かっこいい男って俗な言い回しになるんだろう。
ただ俺はこう考える。曲がってない奴だ。それは別に悩まないだとか頑固だとかそういう意味じゃない。西部劇の保安官だって、銃で人を殺せば罪悪感を覚えるし、たまには挫折するだろう。だが、自分のいったことに背いたりだとかはよくない。これはダンディじゃない。軽いよりも、重い男。それこそがダンディたる条件の一つだと思っている。
だからこそ、俺はここに新たな決意を表明する。前世での決意は「母のために」。ならばこそ、今立てるべき誓いは「エレナーダのために」。俺のせいでこの娘は窮地に陥っている。俺が生き足掻いたせいで…。あの光に飛び込んだせいで。だからこその決意。その言動に背かぬ行動してこそ、男だろう…。
「もし今回会ってくれないようでしたら、私はエレナーダ様を攫っていきます!」
パーシーは、そう啖呵を切ったエマを見つめて、様々な感情を浮かべた。エマに対する驚き、娘に対する恐怖に困惑、そして愛情…。パーシーにとってそれは嘘偽りない真実己の感情だった。パーシーは決してエレナを蔑ろにしたいわけではない。離れに追いやったのは、彼女の噂がこれ以上悪くならないためでもあるし、マニーという存在に恐怖していたのもあるし、長男ロシューダに重きを置いていたというのもある。つまりは先延ばしにしていたのだ。いろいろと。
「答えて下さい!パーシー様!」
だからこそ、パーシーは最早逃れられないことを知った。暫く会っていなかったが、エレナの状態はよくないのだろう。こうまでエマが義憤を抱き、首を跳ねられる覚悟をもって立ちふさがっているのだから。
エマは貴族ですら無い平民だ。はっきりってしまえば、パーシーが街で拾ったも同然だった。当時十にも届かぬエマは、パーシーの馬車の行き先を塞ぐように行き倒れていた。彼女が何故そうなったのかは未だに誰も知らない。ただ、パーシーが気まぐれでエマを助けたのは事実だった。エマは十二にもなると、その身一つでロレンシア邸を訪れ、どうかここで奉公させて下さいと懇願したのだ。恩義を感じていたのだろう。パーシーは迷いに迷ったが、ランターナはあっさりと彼女を受け入れた。
彼女はやはり、ガサツで、そして正義感の強い娘だった。周囲との教養の差にあくせくと奮闘しながら、よく働いてくれた。そのための努力も惜しまぬ娘だった。ランターナの目に狂いはなかったのだろう。パーシーはそんな彼女だからこそ、エレナの世話を任せた。その時にはすでにエレナの世話をしようとするものは、エマ以外いなかったのである。
そんな彼女だからこそ、今回の発言は誠の言葉なんだろう。彼女が頑固なのも重々承知だ。なによりパーシーにとって彼女は少しぞんざいに扱えない存在なのだ。パーシーはちらと執事のダイヤーを見つめ、ダイヤーがこくんと頷くと、息を吐いて答えた。
「わかった。明後日だ。明後日ならばランターナと共にエレナのとこに行けるだろう」
パーシーは重い足取りで離へと進んでいた。妻ランターナは一言もしゃべらない。エレナに会いに行くと言った時も、「そう」としか呟かなかった。彼女にも思うところがあるのかもしれないが、その胸中まではパーシーも測れなかった。
しかし、長男ロシューダも随分と成長した。いい加減エレナーダと向き合わなければならないことはパーシーも理解していた。ゴースト憑きだとか気狂いだとか、エレナは既に屋敷内でそう揶揄されることもあるのだ。最早逃れられない。
エマが「お嬢様、失礼します」と、彼女にしては完璧な所作で扉を開ける。どのような顔をして会えばよいのだろうか。パーシーは一瞬顔をくしゃりと不安で曇らせ、次いでいつもの厳格なそれに戻った。そうして木を引き締めたパーシーの目に映ったのは、成長した娘の、意外にも溢れんばかりに涙を目にためた姿だった。
「お父様…お母様…。マニー、いなくなっちゃった…。いなくなっちゃった…」
つぅと涙を流し、エレナはそう呟いたのである。
早すぎる主人公リタイアです。嘘です。