プロローグ 主人公の死によって、物語は始まる
プロローグという名の長い主人公紹介です。
母が寂しそうな顔をして、小さな額縁を見つめていた。古臭い、フィルムを現像した写真だ。きっと、これが走馬灯というやつなのだろう。
その写真には若かりし頃の母が照れくさそうに、そして見知らぬ男が一人。幼い俺は、お母さんと一緒のこの人は誰?なんて純粋な疑問を母にぶつけた。途端、母は下を向いて小さく笑い、あなたのお父さんよと言った。
俺の家は、まぁあまり裕福ではなかった。俺を養うため母はあくせくと働き、それでも夕飯だけは一緒にと息を乱しながら帰ってくる…そんな家だった。でも不幸だなんて思ったことはなかった。ただ、いつも忙しそうな母が少し不憫に思えたんだ。
小学生になる頃になると、俺は自分の環境が少し他人と違うことに気付いた。友達と家族の話をする時、少し会話がずれる。歯切れの悪い歪さがそこにはあった。彼らが言うお父さんってなんだろう…なんて考えてたもんだ。
俺の父は、物心ついた頃にはすでに他界していた。不慮の事故だった。父はバイクショップを自力で運営し、細々としながらも自分のやりたいように生きる強い男だった…らしい。母は楽しそうに、でも少しさびしそうに語った。父が死んで、バイクショップは畳んだそうだ。俺の家には父がいない、母も仕事で忙しい…。それでも俺に不満はなかった。
事の発端は、運動会だった。運動会のお昼、皆が家族と仲良くご飯を食べる時間。でも、俺は一人だった。母は仕事でどうしても来ることができなかったのだ。普段なら気にもしないが、集団の中での孤独に、初めて俺は、寂しいと思った。当時の幼い俺はそれに耐え切れず、仕方なく友達を探して歩き回っていると、ウロウロとする俺をよく喧嘩をするクラスメイトが見つけて、そいつが躊躇なく俺を蹴っ飛ばした。小学一年生なんてのは容易に暴力をふるうし、その理由は些細なもので、そんなことで起こる喧嘩なんて日常だった。あいつもきっと運動会の熱気にでもあてられたんだろう。子どもらしい過度なじゃれつきだ。でも、その時の俺は寂しさでいっぱいで、反抗する気力もなくて、泣いた。
なんとなく、俺はいじめられるようになった。運動会で泣いた、あいつお父さんいないらしい、貧乏なんだって…そんな話がうろつき始めた。遠回りなものじゃない。ずいぶんと直接的ないじめが多かった。小学生だから、当たり前といえば当たり前だろう。仲間に呼ばれないとか、ドッチボールで狙われるとか、突然集団にいびられるとかだ。
別に俺は不幸にも体が弱く…なんて体質でも何でもなかったが、友達ができにくくなったし、外で遊ぶ理由もなくなって、母にゲームをよくねだるようになった。自慢だが、俺の母は良い女だった。話が突然すぎるかもしれないが、とにかくそういう女だった。苦労と共にシワを重ねたが、気配りができて、女らしさをいつまでも忘れない人。そんな人だったから、母はなんとなく俺が学校でうまくやれていないと気付いたんだろう。
母は俺を助けるために、動いてくれようとした。仕事も全てつっぱねて、学校に乗り込む勢いだった。こんな母親はなかなかいない。でも、俺はそれを拒否した。家族がしゃしゃり出ても、喧嘩なんて上手く収まるものじゃない。ヘタすれば新たな火種にもなる。当時の俺でも、いや当事者だったからこそそれで収集がつかないことは理解していた。だからどうしても学校に行くのはやめてくれと懇願したんだ。
ならばと母はイジメられないコツというか、仲間の作り方、巧い逃げ方、意外にもずる賢かったりするそういうやり方を逐一教えてくれるようになった。単純に喧嘩に強くなることも大事よ、なんて剛気たゆまぬ母の本当の姿に、俺は随分驚いたものだった。
実際、母の教えは役立った。少なくとも当時の俺が考えるよりは幾分以上にマシだったと思う。虐めてくる連中と仲良くなることは難しかったが、友達も新しくできたし、交友はむしろ広まっていった。そうして心の余裕がでてくると、どうして母が柄にもなくそんな方法の数々を知っていたのかが気になった。もしや母も昔同じような目にあったのか。
母は俺の質問にきょとんと首をかしげた後、何か納得というか、覚悟を決めたように古いアルバムを取り出した。かび臭いアルバム。それは母と一人の男の生きざまだった。
「お母さんはね、全然頭も良くないし、勉強も社会知識もからっきしで、でもお父さんがいろいろ教えてくれたの。イジメは大人になってもあってね…。そんなお母さんを助けてくれたのがお父さんよ」
少し色の抜けた写真に写る男は、スーツ姿のちょっとコワモテで、なんというか俺はドラマにでてくる悪役を想像したくらいだった。最終章に黒幕として現れる強敵、そんな感じの。俺は眉をハの字に曲げて、母はくすりと笑った。
それから、少しずつ母は父のことを教えてくれるようになった。優しいとか何時には帰ってくれるとか家庭的な面もあれば、チンピラを成敗するために喧嘩したりだとか、街で泣いていた迷子の少年をバイクで家まで届けたとか、よくわからない伝説みたいなのもたんまり。正直最初はうさんくさかった。でも、父のことを話す母の嬉しそうで、寂しそうで、たぶん愛の篭った悲しい視線を幾度か見て、俺は父を恨めしく思った。どうして母を置いていってしまったのかと俺は憤慨したのだ。
死というものを理解してからは、父が羨ましいとさえ思った。寂しさを纏ってはいたけれど、父を語る母は、本当に嬉しそうで幸せそうだったから、俺は父を目指した。母曰く、世界一ダンディな男、そんな男になろうと努力を始めた。
ダンディとはなんてのは結局分からず終いだった。もしかしたら、今の俺はダンディとは違うかもしれない。でもそれでも俺なりに男の理想を、母が寂しさを忘れるくらいいい男になってやろうと常日頃考えていた。そのうち、マザコンだとか、キザ男だとか揶揄されるようになったのは、まぁ仕方のないことなんだろう。最初は見た目や格好から街で遊んでると思われ気味で、職員室に呼ばれることすらあったんだがなぁ。なにせ俺は夜まで外で遊ぶなんてことはしないし、母が病気の時は学校を休むくらいだった。そりゃ当然マザコンの範疇だろう。でもまぁ、幾度かの苦難を経ても俺のために一人で頑張る母を見て育てば、そんな非難は至極どうでも良くなったと言っておこう。
そんな妙な学生生活のあと、いざ就職となった時、俺は何がしたいのか非常に悩んだ。目標はある。意欲もある。でもそれを職業に結びつけるとなるとわからない。よく渋いダンディな俳優は警察だったりを演じているが、現実はそううまくいかないと俺にもわかっていた。ガチガチの制約に縛られた警官なんてのは願い下げだ。悩みに悩み抜いて、じゃあ探偵っていうのも素敵よねーという母の軽い発言が結局決定打となった。
探偵というのは昔から、多くを語らぬ深い内面を持ったいい男の役職だと俺は思っている。シャーロック・ホームズはある種ダンディの理想だろう。実際人にために問題を解決するというのは魅力的だ。決めたのなら突っ走れの掛け声と共に、俺は我が身一つで探偵事務所へと赴いたのだ。
はっきり言えば、最初俺に与えられた仕事は四輪免許を取得することだった。企業信用調査だとかでかい仕事を受け持っている先輩の送り迎え、ただそれだけ。当然俺はもっとまともな仕事をくれと申し立てた。若干の呆れを持たれながらも、お次はペット捜索ときた。しかもこのペット捜索、結構な時間と労力を食う割に、払いが少ない。つまりボーナスがでない。収入が少ないのは困る。しかし社長にこれは宣伝も兼ねているんだと怒鳴られてしまえば黙るほかなかった。
そんな下積みをして、先輩たちの仕事を手伝ううちに、ある家出人捜索調査が俺に転がり込んできた。先輩が有給だったり他の長期仕事があったりで、偶然俺に回ってきたものだった。娘が半年も帰ってこない、だから探してくれ。ようはそんだけ。しかし手がかりも少ない。なにせいなくなったのは半年も前だ。何度か似たような依頼を手伝ったことはあったが、これは少し骨が折れそうだななんて呟きながら、内心与えられた仕事にワクワクした。今回のために努力もしてきた。捜索に何が効果的だとか、暴力沙汰になった時のために護身術だってずっと学んできたのだ。
聞きこみや情報提供なんてのを繰り返すうちに、意外にも割とすぐ彼女がいる場所がわかった。だがその場所が良くない。所謂暴力団関係だったのだ。怪しいなんてもんじゃない。確実に黒だと猿でもわかる。本来探偵はそこまで危ない橋は渡らない。それは警察の仕事だ。でも俺は高揚していた。これこそが探偵だと、勧善懲悪のカタルシスに酔い、アホ面下げて施設を嗅ぎまわったのだ。
そうこうしているうちに俺はある男と出会った。よれよれのシャツにしなびたタバコで、でもどこか鋭い目を持つ長身の男だった。男はそういう事情に詳しい男だった。恐らく、彼もそういう場所を利用しているんだろうと最初は思った。しかしまぁその情報は確かなものが多かったし、よく一緒に行動をするもんだから思わぬ意気投合をする場面もあった。なれない俺をゲーセンに連れ込んで、格闘ゲームでボコボコにされた日もあった。面白い男だった。毎回会うときは、必ず男から声をかけてくるんだ。俺が気づくよりも絶対に早く。厳しい世界にいるんだろうというのは、風貌とその言動でなんとなくわかった。きっと任侠に生きる男というものは、彼のことを言うのだろう。
そして、真実にたどり着いた。依頼の少女と彼女たちを取り巻く環境、そして男の姿に。男は、想像に難くないことではあったが、黒の側の人間だった。なんでも男は俺のことを私服警官か何かにでも思っていたらしい。探られれば面倒だし、かと言って簡単に手を出すと男の立場は悪くなる。ようは男は俺が何者か腹の探り合いをしていたようだったのだ。探りあい、というより一方的なものではあったがために、マヌケな俺は次第にただの馬鹿野郎だとさっくり判明。泳がせおく必要もないが、随分と知りすぎたために、俺は絶体絶命だった。もう絶対に逃れられない死という意味だ。
「じゃあな若いの。妙な苦労をさせられたもんだが、これで終いだ」
長身の男の手に、タバコの火が薄っすらと灯った。闇夜に紛れ、頬に染みる潮風が随分と煩わしい。まるでドラマの一部を切り取ったかのような光景だ。まるで現実味がない。一つ問題があるとすれば、俺が主人公ではなくアバンで死ぬ端役だってことか。
「俺は、いい。だがな、あの娘は開放してやってくれ。彼女のおっかさんが、泣いて泣いて、俺に頼み込んだ仕事だ。俺の命と引換えなら、それぐらい度量はあるだろ?」
投げやりにそう言ってやった。生意気な台詞だ。ついでに言えば、泣いて頼まれたなんてのは嘘八百だ。実際のところ、親族でのごたごたで仕方なくと言った感じですらあった。下手すりゃこの場ですぐにあの世行きだろう。俺からは見えないが、周りの奴らが俺の発言に笑う。頭いかれてんじゃねぇのか、さすが色男最後まで女のことか、そんな言葉が聞こえる。
格好をつけてる自覚はある。今の俺は、青あざに鼻血にと目も当てられない状態なのだ。所謂フルボッコ。ついでにドラム缶にインしてやがる。きっとそれが架空のキャラクターなら、さぞかし滑稽で、俺も鼻で笑っただろう。俺は馬鹿な野郎だ。でも、どっちにしろこれが俺の最後なら、その立ち去り方くらい格好つけたかった。恥だとかそんなことを気にしていられる余裕もなかった。
「いいだろう。アイツは確実に親元に届けてやる。それで、いいか?」
長身の男の一言に、全員がシンと静まった。表情は見て取れないが、どこかつまらないといった抑揚だった。途端、周囲の男達が一体どうしたとばかりに声を上げた。
「ああ、満足じゃあないが、悪くない」
こいつが要求を呼んでくれるとは思わなかった。救えたのはたった一人。しかも、それが本当かはわからない。でもまぁ世の中頼んでみるもんだなぁと、昔母から聞いた教えを思い出しつつ、俺は静かに目を閉じた。もう肩まで冷たいコンクリートが迫ってきている。万事休す。あきらめも付く。
「最後に、一服どうだ?」
「いい、俺はタバコ吸わねぇんだ。言わなかったか?」
「…そうだったな。おい、さっさとやれ」
あまりにも冷たい、肉体と魂から熱を奪う死の感覚を、俺はどうしようもなく受け入れた。仕方ないと思った。もう呼吸すらできない。辛うじてコンクリートを通して聞こえた音で、海に投げ込まれたんだなとわかった。昔から話だけはよく聞いていた東京湾に沈められるぞ、というフレーズがこだまする。まさか当事者になるだなんて知っていたら、それを鼻で笑うことはなかっただろうに。ひどい話だ。
俺の人生、こんなものか。でも、最後はあの男にも認められて格好良かったか…?あぁ、ふざけんな。死んだら全部無意味、親父とおんなじだ。結局、まともな親孝行もできなかった。沈んでいく意識の中に浮かんだものは、後悔だらけだった。こいつらを末代まで恨んで祟ってやろうとか、一瞬そういうことが脳裏をかすめたが、やめた。最後までも、男らしく貫きたかった。
あぁ、かっこいい男に、ダンディな男になりたかった。現実、俺はお馬鹿なスットコドッコイで終わっちまった。母を笑わせて、俺はもう一人前だっつって、安心させたかった。そしたら細々と趣味でやっていたロードレースでも本格的に始めようか…そう考えてたんだがなぁ。
走馬灯が流れる。寂しげな母の笑顔が胸を抉る。思えば短い人生だった。何も成し遂げていない人生だった…。願わくば来世があるなら、もうちっと用心深くなって、そして胸を張れるダンディな男になりたいもんだ…。
浮上する感覚。いつの間にか目が覚めた。しかし、おかしい。ええっと、なんだったか?そうだコンクリートだ!コンクリート詰めのドラム缶だ!俺はコンクリート詰めにされたんだ!ああ、そうだ思い出した。
…やっぱりおかしい。だというのにコンクリートの冷たさも、息苦しさもまるでない。というより感覚がないじゃないか。触覚も嗅覚も、五感が何も反応してくれやしない。じゃあなんで吹き上がってるなんてわかるんだ…!?
そのとき、何か光が見えた…ような気がした。なんとなく、眩しいと思った方向に、俺は迷わず必死に向かおうとした。五感がないから自分がちゃんと動いているかもわからない。ただがむしゃらに進む。酷く気持ち悪い。でも、歩みを止めるわけにはいかなかった。まるで後ろから俺を何かが引きずり込もうとしているんだ。恐怖だ。俺を支配しているこの感情は。冗談じゃない。捕まってたまるかっ!ダンディが売りの保安官だとか警察だとか探偵だとか、捕まえるってのはそういうもんの専売特許であって、捕まるのは範疇外だ!
次第に明るさは増す。もう少しだ。もう少し!はっは!きっとありゃ閻魔さんだろう。俺はカトリックではなかったが、もしかすると悪魔だったのかもしれない。何はともあれザマぁない!逃げ切ってやった!ああ、わかる。あの光は希望だ!迷うんじゃない。一心不乱に駆け抜けろ!さぁ、飛び込め…!
主人公はマザコン。ところでヤクザさんのコンクリート詰めはあんまり使われない方法らしいです。一番いいのはアスファルトに溶かす方法だとか。骨すら残らないそうです。
9/23 構成を変更しました。