008 : "何かしら?"
一限目の授業を受けるため、蓮は階段状になった席の後方近くに座っていた。
連れ、というべきか、蓮の方がおまけというかは自身も悩むが、刹那はまだ来ていない。
まあ、今日は授業を受けるかどうかを決めるためのガイダンスだ。すでに受けるかどうかを決めているならくる必要がないこともある。第一、この授業のガイダンスを受ける約束してないしな。
開始時間よりはかなり早めに来ていたが、十五分前にもなると流石に教室に人が集まってくる。蓮はそれを横目に眺めながら、特に何を考えるでもなく過ごす。
ざわめきが増した教室。慣れない環境ながらも、どこか浮足立った生徒たち。
そんな中、蓮の横に人が立った。
「はよっす」
唐突な挨拶。時間の挨拶としては間違いではないのだが、誰に向けられたものか。いや、考えるまでもないか。
蓮が視線を向けると、髪を茶に染めた青年が片手を上げていた。
「俺に言ったのか?」
確認の意味で問うと、彼はにやりと笑って頷き、
「ああ、お前に挨拶した。いきなりで悪かったとは思うけど、この時期じゃ珍しくもないだろ?」
「それはそうか」
顔見知りでないなら、こういう形でファーストコンタクトが行われるのは至って普通だ。だから、彼の行為を若干煩わしいと思ってしまった蓮は、すこしばかり周囲に対して打ち解けようとしていなかったと言える。
「隣、いいか?」
問われ、逡巡する。もし刹那が来たならば、彼女はきっと隣に座るだろう。有名人であるところの彼女にとっては、蓮は都合のいい盾だ。
迷いが顔に出ていたのか、彼は、
「あ、連れが来るのか? じゃあ、オレは後ろにさせてもらうかな」
「まあ、それなら」
幸い、というべきか、中途半端な位置のせいか、蓮の後ろはまだ空いていた。
彼はガイダンス用の資料が入っているせいか、重そうなバッグを席に置き、再度蓮の隣に立つ。
「オレ、織原玲ってんだ。よろしくな」
大抵の日本人ならやらないであろう握手を自然に求めてくる。蓮は、
「胡桃崎。胡桃崎蓮だ」
おざなりに名乗り、軽く手を握り返す。
そして、すぐに離そうとしたのだが、
「お前、なにか楽器やってるだろ?」
にやりと笑い、蓮の手をしっかりと掴んで指先を見つめる。無遠慮な態度だが、不思議と苛立ちはない。
「まあ……少しな」
「そうか。オレ、高校の頃軽音部入っててな、ギター弾いてたんだ」
聞いてないが、彼こと玲は嬉々として語り出す。
「だから、楽器やってるやつ見かけるとついつ――」
不自然に言葉が途切れ、体が横に傾く。
「なーに人様に迷惑かけてんのよ、レイの分際で」
声のした方を見ると、投げ終えた体勢にある女性が一人。ショートの髪と悪戯っぽく勝気な目。にやりと笑う口元はチェシャ猫を彷彿とさせる。
「琴美!」
突然のことで、何を投げられたのかはわからなかったが、玲は倒れることなく立て直し、女性の名を叫ぶ。
「いきなり何しやがんだよっ」
「それはわたしのセリフよ。人様の手をいきなり掴んで語り出すとか、おぞましいにも程があるわよ、レイ」
「おぞましいってなんだよ! てか、レイって呼ぶなっていつも言ってんだろ!?」
「あんたの名前呼ぶのに、3文字も浪費したくないのよ。わかる?」
「わからねぇ……てか、たった一文字多いだけだろ!」
玲の言い分は正しいはずなのだが、如何せん呼びやすさでいうなら『レイ』に軍配が上がる。だが、蓮がそのことについて口を出す必要もないし、玲自身の意識は琴美という女性に向いている。
余計なことに首を突っ込むのはよしておこう。
彼らは接近し、口やかましく言い合うが両者意外に拮抗していた。だが、その均衡を破ったのは彼ら自身ではなく、この教室全体を取り巻く空気そのものの変化だった。
痴話喧嘩にも似た玲たちの口喧嘩に注目が集まっていた筈なのだが、
「あ、刹那さんだ……」
そう、思わず呟いた生徒の声を皮切りに、場の空気が一気にそちらへ傾く。
教室内にいるほぼすべての視線を受けて、彼女は軽く柳眉を寄せ、
「何かしら?」
そう、誰にともなく問いかけた。だが、誰もその問いに答えることもなく、彼女は傾げた首を戻すと、何事もなかったかのように歩き出し、蓮の横に立つ。
「おはよ」
「ああ、おはよう」
いつも通りの簡素な挨拶。蓮は一つ内側の席に移り、刹那は今まで彼がいた席に。
彼女は一度だけ今にも掴みかかろうとするような体勢で固まった玲と琴美に怪訝な視線を向ける。だがそれもすぐに興味を失ったのか、席に着いて長い蜂蜜色の髪を背中に払った。
琥珀色の瞳に蜂蜜色の髪、目鼻立ちは整いすぎるほど整っていて、なおかつスタイルも抜群。
それが蓮の幼馴染であり、親友である白鷺刹那という女性だった。
玲たちも場の空気の変化に勢いをそがれ、自然と口論はなくなり、結局並んで座る。その際に一悶着あったようだが、蓮は知らない振りをした。
予鈴がなると、流石に刹那に集まっていた視線も逸れ始め、教員が来るころには好奇心を抑えきれない数名以外はきちんと前を向いていた。
蓮は小さくため息。
「結局、こうなるんだな」
「迷惑?」
「さあ、な……今さらって感じもする。こういうのも含めてお前なんだろうし」
「そ」
蓮と違って、周囲のいつも通りの反応には興味がないらしく、蓮がそこまで迷惑がっていないのを確認するだけで、視線は手元の資料に移っていった。
蓮も教員の声に従い、資料をめくる。
大学、か。
入学式もあったが、エスカレータ制でここまで上がってきていると、上の段階に上がったという認識が薄い。だが、改めて周囲が制服を着ていないという状況と、教員の説明を聞くうちに、ようやく大学生になったのだという実感がわいてきた。
その実感と共に湧いてくる、罪悪感と喪失感。いつもは心の奥に追いやっているつもりでも、心の中にある限り、それは何時だって蓮を離しはしない。
彼は心の中で小さく呟く。『ゴメン』、と。