003 : "そんなに食い意地張ってないよ"
「ほなな。お礼買いに行くことあったら付きおうてやるからね」
「ばいばい」
試験も終わり帰路に着き、いつものお別れ場所である駅。美汐ちゃんと高音ちゃんに手を振り、紗夜も電車に乗るためにホームへと向かった。
普段なら、電車の時間を利用して本とかを読んだりもしているが、今日は疲れていたし、なにより鞄に本がなかった。
ぼぅっと、車窓から外を眺めると変わらない街並みがある。駅周辺こそ商業施設が立ち並ぶが、それ以外の場所はほとんど住宅地だ。まだ春の兆しは遠く、日が落ちるのは早い。低い位置にあるオレンジ色の夕日に照らされる街とその中を戯れるようにして走る子供達。そんな時期もあったな、などと考えているとすぐに自宅の最寄駅に到着した。
歩き始め、ふと今朝はこの道を全力ダッシュしたことを思い出した。駅に滑り込む電車を目にしたときは本当にどうなることかと思ったけど、あの人たちがいてくれたおかげでなんとかなった。お母さんにはちゃんと説明して、お礼に行かなきゃな。
行きはあれだけ長く感じた道のりも、平静な心で歩いてみればあっという間。鍵を開けて中に入っても、誰もいなかった。お母さんも出かけたままらしい。打ち合わせだと言っていたし、もしかしたら長引く可能性もある。
「ただいまー」
慣例的に口をついて出る。もちろん、答える声はないけど。
階段を上がり、自室へ。そういえば、脱ぎ散らかしたままだった。布団もぐちゃぐちゃ。一番早く帰って来れてよかったかも。
鞄を机に置き、部屋着に着替えてから布団を敷きなおす。床に散乱していた寝巻きも拾い、階下の洗濯カゴへ。テーブルの上の料理をどうしようかと悩むこと少し。
「よし、夕飯に転用だ」
幸い、目玉焼きだったので、温めれば食べられなくもなさそうだった。夏場だったら無理だろうけど。
冷蔵庫の中身を見ると、ひき肉と玉ねぎを発見。キャベツもある。
「うん、ヘルシーハンバーグだね」
目玉焼きのせたら全然ヘルシーじゃない気もしたけど、気にしないことにした。
玉ねぎを炒めてから、ひき肉と混ぜる。その横でキャベツは千切りにして水気を切っておく。ひき肉と玉ねぎ、そして卵とキャベツを混ぜ、ハンバーグの形に形成。大きさはやや小さめで、数を作っておく。手早く焼けるのと、余ったら弁当のおかずにも使えるようにだ。
子供の頃からお母さんの横で手伝っていたからか、手際は同年代の子供に比べたらいい方じゃなかろうか。料理を作ることを苦に感じたこともない。
鼻歌交じりに小さなハンバーグを作っていると、玄関の方で鍵が開く音がした。
「ただいま」
この声はお母さんだ。
「おかえり!」
玄関にも届くように大きな声で応じる。
「あら、先に帰ってたのね」
「うん、今日は試験だったから」
「そう言ってたわね。出来は聞かないわよ? そういうのまで口を突っ込みたくはないし」
「わかってるよ、お母さん。今日はハンバーグだけど、すぐ食べる? お風呂先にする?」
「そうね……先にお風呂いただこうかしら」
「わかった。じゃあ、沸かしとくから」
「お願いね」
お母さんはそう言って一階の自室に荷物を置きに行った。
お風呂が沸くまでは少し時間がかかるし、お茶でも飲んでいてもらおう。紅茶の準備を終え、そしてお米をといで炊飯器に。続いてハンバーグに添える野菜を洗う。
そういえば、あの話はいつ切り出そう。怒りはしないだろうけども、少し言い出しにくい。
野菜の水を切って器へ盛り、ラップをかけて冷蔵庫へ。これで準備は完了だ。あとはお母さんがお風呂から上がるタイミングを見計らってハンバーグを焼けばいい。
「あの、お母さん」
部屋から戻ってきて、紗夜の入れた紅茶を飲んでくつろいでいるお母さんに話しかける。
「どうしたの?」
「あ、えっと……」
やっぱり言いにくい。
「今日、試験だったのは言ったよね?」
「ええ、さっきもその話したでしょう?」
「う、うん。それでね、実は今日――」
寝坊して遅刻したことや車で送ってもらったことを話すと、お母さんはふふふ、と笑い、
「仕方ない子ね。でも、お礼はきちんとしないと。誰かはわかってるんでしょ? じゃあ、近いうちにお菓子でも買って、行ってきなさい」
「うん、わかった。でも、ごめんね」
「謝ることはないわよ。誰だって、ちょっとの間違いぐらいするもの」
「うん」
「でも、本当に良かったわね。その人たちがいなかったらと思うと、ちょっとね」
「本当にそう思う。ちょっと怖かったもん」
自分が積み重ねてきたものを一瞬で失うかもしれない瞬間。もしかしたら、大げさなのかもしれないけど、でもそうとも言い切れない。
雑談に興じていると、お風呂が沸いたことを知らせる電子音が鳴り響いた。
「じゃあ、先に頂いちゃうわね。お腹すいてるなら、先に食べちゃってもいいわよ?」
「そんなに食い意地張ってないよ。ちゃんと待ってるから」
「はいはい」
微笑みながら、お母さんはお風呂へ。オーブンを温める設定をすると、紗夜はやることがなくなってしまい、飲み終えた紅茶のカップを水を張った桶に沈め、自室に戻ることにした。
ベッドにダイブ。ボスンと体重を受け止める布団の感触。枕を引き寄せ、顔を埋める。
「お礼になに買おうかな……」
男の人だし、あんまり甘いのや可愛いのは避けたほうがいいだろうし。美汐ちゃんたちに相談に乗ってもらったほうがいいかも。明日の放課後も部活はないみたいだし、誘ってみよう。
「…………」
白鷺先輩か。結局、男の先輩の先輩の名前を聞きそびれていた。でも、珍しくと言うべきか、高音ちゃんが積極的に会いたそうな素振りを見せる人ってどんなだろうか。雑誌モデルとか言ってたっけ。
机の上のノートパソコンを引き寄せ、電源を入れる。ベッドに寝そべったままOSの起動を待ち、パスワードを入力してブラウザを起動。
考える必要もなく『シラサギセツナ』キーワードを打ち込んだ。漢字じゃないのはご愛嬌。字まで知らないし。
適当なページのリンクをクリックすると、大判の写真が貼り付けてあった。
金でもなく茶でもなく。蜂蜜色と表するのがふさわしい髪と日本人離れした琥珀色の瞳。しかし、目鼻立ちは日本人的で、しかし同性の紗夜から見ても綺麗だと素直に思える。このページはファンサイトのものらしく、読み進めていくとモデルをやめてしまったことを惜しむ声などが書き込まれていた。
「これが刹那さんかぁ……」
高音ちゃんが会いたいという気持ちもわからなくもない。だとすると、いつも一緒にいるというあの先輩はどういう立ち位置なのだろう。友人? 恋人? でも、サイトには恋人の存在は否定されている。まあ、あくまでもファンの希望でもあるのかもしれないけど。
「ふーん」
少し、紗夜は刹那先輩、そして、名前を聞き忘れた先輩に興味を抱いた。
時計を見るといつのまにか時間が経っていた。慌てて立ち上がり、キッチンへ。お風呂場は静かで、もう湯船に浸かっている時分だろう。
「いけないいけない」
フライパンに薄く油を引き、火にかける。ほどよく熱されたところへ、小ぶりなハンバーグを数個並べておく。両面へ焼き目をつけたあとは耐熱皿に移してオーブンへ。こうすれば余計な焦げの心配をすることなく、中までじっくり火を通せる。
味噌汁を作っていると、程なくしてお母さんが出てきた。
「もうすぐできるよ」
「ありがと」
お母さんが髪の毛を乾かす時間でちょうどよさそうだった。
ハンバーグも焼け、それを皿に移し、サラダと共に食卓へ。茶碗にご飯をよそう。
「うん、完璧」
食卓に揃った今日の晩御飯を見て、満足げに頷く。
「美味しそうね。ま、私の教え方が良かったということね」
快活に笑うお母さん。
「まったくもう……じゃあ、食べよっか」
「そうね。熱々のうちに食べないともったいないわ」
いただきます、と声を揃え食事開始。
「お母さん、白鷺刹那さんって知ってる?」
興味本位で聞くと、少し目を見開いて、
「あなたからその名前を聞くとは思わなかったわ」
「それ、どう言う意味?」
「だって、あんまりおしゃれとかに興味ないじゃない」
「興味ないわけじゃないよ。でも、わざわざ雑誌とかまで買って流行追いかけなくてもいいと思って」
「ま、それもそうね。で、刹那さんだっけ? 知ってるわよ。あの子モデル辞めたのよね」
「らしいね。でさ、さっき言った送ってくれた先輩、その刹那さんの知り合いらしくて。もしかしたら会えるかも」
「会うのはいいけど、あまり迷惑かけるんじゃないわよ? その子だって、普通の女の子になんだから」
「わかってるよ」
そこそこ満足のいく出来上がりのハンバーグを食べ終え、皿を片付ける。その後、お風呂に入った。
「さて、宿題はないけど予習ぐらいはするかな」
自室に戻った紗夜は試験が終わったその日にもかかわらず、数学の教科書を広げて説明を読む。
今日の試験が受験のようなものだったとはいえ、試験の範囲は通常の期末や中間に行われるものと大差はない。随分と楽なものだ。高校まではこのままの学校にするつもりでいるが、大学ばかりは考えものである。事実、半分以上は上がらず、よそに行く。
やりたいことが明確に決まっているわけではないが、だからこそ、今やれることはやっておきたい。勉強にしろ何にしろ、後になって悔やむのでは遅すぎる。
予習にも区切りを付け、あとは自由時間。電源を入れたままだったパソコンを机に載せ、ブラウザのお気に入りからいつも行くブログ『Scribo ergo sum』にアクセスする。よほど暇がない限りは訪問を欠かしたことはなかった。
まあ、紗夜自身はブログをやってないから、訪問履歴が残ることはないのだが。
今日はトラックバックテーマというブログの運営会社から提供されるテーマに沿ったもので、「旅行の必需品!」というタイトルがつけられていた。海外や長期に渡る旅行に行ったことのない紗夜はそういうものなのか、と感心しながら拍手ボタンを押す。これも一つの足跡か。誰が押したということを特定できる訳でもないけど、記事を確かに見たんだよ、という痕跡を残せる。こういうのを考えた人ってすごいな、と思う。
他にもいくつかいつも行っているブログを訪問していると、いつの間にか就寝時間が近づいていた。
明日は美汐ちゃんたちを誘ってお礼の品を買いに行こう。そう心に決め、ベッドに潜り込んだ。