002 : "あ、名前聞き忘れた"
「ぷはぁ……」
午前中の試験が終わり、昼休み。今朝遅刻しそうになった緊迫感と試験そのものの重圧から一時的に解放されて机に突っ伏した。
「おやおや、紗夜ちんお疲れかいな?」
「サヤ、お疲れ?」
軽快な足音と微妙な訛りのある声。そして、それに続くあまりにも静かな靴音と平坦な声音。顔を上げれば、案の定見知った二人が覗き込んできていた。
「いや、美汐ちゃん近いって」
覗き込むと一口に言っても、二人とも性格が表れている。
鼻が触れ合うんじゃないかと距離まで顔を近づけているのが花巻美汐ちゃん。“今日は”今時どこに売ってるかもわからないような分厚いレンズの黒縁眼鏡に太く三つ編みにしてまとめた髪。眼鏡の奥から覗く瞳は好奇心で煌めいている。彼女は背が低いものの、満ち溢れる行動力がそれを感じさせることは少ない。
もう一人は軽く腰を折って、やや距離を空けて立っている宮下高音ちゃん。涼やかで、澄んだ黒曜の瞳と鴉の濡れ羽色という形容がぴったりの艶やかな黒髪を背に流しているいわゆるクールビューティー。ある意味名前そのままで、男子にとっては高嶺の花と言っても過言ではない、と思う。
「そりゃ疲れるよー」
紗夜は口を尖らせる。
「だって、こんな大事な日に寝坊だよ? 焦ったのなんのって」
「その割に、きちんと間におうたやないか。寝坊たって、数分だったんやないの?」
「ぎりぎり、だったけど」
「それがびっくり。起きたら8時20分。思わず絶望しそうになったよ、まったく。こんな日に限って親もいないしさ」
「ほぉ……紗夜ちんの家からその時間でよく間におうたな? 電車もないんとちゃう?」
美汐ちゃんの言葉も当然だろう。仲がよく、お互いの家に遊びに行っているから、学校までの距離や時間はだいたいわかっている。
「それがさらに驚きでさ」
そう切り出した途端、美汐ちゃんの目が爛々と輝く。あ、この切り出し方は間違ったかも。いや、どちらにせよ彼女が食いつく話題には違いないか。
「あ、それより先に食堂行かなきゃ」
「ん? ああ、そやね。紗夜ちん弁当持ってきてないんやった」
「じゃ、行こ」
三人連れ立って食堂まで行くと、意外なことに案外空いていた。
「空いてるね」
「まあ、みんな勉強する時間が欲しいんちゃう?」
「あ、そゆこと」
そうなのかもしれない。食堂まで行って悠長に食べているよりは、教室でお弁当を食べながら教科書を見ていたい気持ちはなんとなくわかる。だとすると、この二人は、
「心配あらへんよ。そもそも、昼休みに詰め込もうって思わへんよ、アホくさい。そんなん、一夜漬けとか、普段からあんまし勉強しとらんやつの悪あがき」
「同じく、問題ない」
ぐっと親指を立ててみせる高音ちゃん。表情が変わらないので、微妙に怖い。
「ありがとね」
「かまへんて言うてるやろ。ほなことより、さっさと選んで、さっきの話の続き聞かせんかい」
「あ、忘れてくれてよかったのに」
言いだしたのは紗夜だが、今にして思えば、あんまり言う必要はなかった気がする。本当に失敗したかもしれない。
紗夜は天ぷらうどん、美汐ちゃんは炒飯、高音ちゃんはカツ丼を頼んで空いた席に座る。
「カツ丼って、ガッツリ食べるなぁ……」
美汐ちゃんが高音ちゃんの手元を覗き込みながら、なかば呆れたように呟く。それへ、彼女は首を少し傾けながら、
「試験に勝つ?」
なぜ疑問形?
「験担ぎかいな。まあ、本人がそれでいいならええけど」
「丼ぶり、好きだから」
「そやったね、うんうん」
淡く微笑む高音ちゃんの顔は同じ女の子の紗夜でも少し見蕩れるほど。稀少な笑顔は、それだけ彼女が丼ぶりが好きだということを如実に表している。
「じゃ、食べようよ」
紗夜の言葉を皮切りに、口々にいただきますを言って食べ始める。
ほとんどを食べ終わり、水を飲んでいると、先に完食した美汐ちゃんが興味津々ということを隠しもしない目で見つめてくる。
「で、どうして間に合ったん?」
なんだか、ワクワクといった文字が背景に浮かんでいそうな雰囲気である。
「まあ、ありていに言えば、送ってもらったんだけど……」
「誰に? それに送てもろた言うても、自転車か?」
「あー……」
「サヤ、困ってる」
「そうは言うても、気になるやん。誰なん?」
再度問われて答えようとして、
「あ、名前聞き忘れた」
そんな重大なことを今になって気がついた。あとでお礼に行こうにも、これではどうしようもない。
「やっぱりアホな子やねぇ、紗夜ちんは。まあでも、そんな奇特な人あんましおらへんやろうし、特徴聞けばわかるかも知れへんな」
「あ、えっとね、うちの学校の高等部の先輩で――」
サラサラの黒髪であること。目鼻立ちや終始浮かべていた憂いを帯びた表情などを伝えると、
「車に連れ込まれてどないしたん? イタズラされたんか!?」
「声大きい」
高音ちゃんが勢い余って乗り出してきた美汐ちゃんの喉に手刀をかます。
「ゴホッ」
加減がなかったせいか、もろに入ったらしく、美汐ちゃんはむせていた。
「いや、高音ちゃん、ありがとうだけど、ちょっとやりすぎ」
「だって、周りに迷惑」
見回せば、美汐ちゃんの口走った内容に対してか、やや周囲の視線を集めていた。
「すまへん、すまへん。ちょいと興奮しすぎたわ」
喉元をさすりながらも、好奇心の火は灯ったままだった。
「しかしあれやな。男やっちゅうのに、紗夜ちんが車に乗っても大丈夫だと判断するような人なわけやな?」
「まあ、最初はさすがにためらったけど。でも、害意はなさそうだったし、というか、あたしに全然興味なさそうだったし」
「へぇ……紗夜ちんに興味なしとか、どれだけ草食系? このゆるカワ系ふわふわ小動物を無視できる男子を男子とは認めへん!」
「はいはい、あたしはペット扱いですよーだ」
昔からのくせっ毛な上に、中学に入ってからは軽く髪を染めているせいで、端から見るとふわふわした印象があるらしいことは自覚してる。そりゃ、凛とした高音ちゃんに及ばないのはわかるけど、見た目からして小さい美汐ちゃんには言われたくないような気もしている。
「でも、なんかそんな先輩知ってる気がする」
紙パックのイチゴミルクをストローで吸いながら、高音ちゃんが考え込む。
「そういえば、車何色?」
「え? たしか、ワインレッド」
「……もしかして」
交友関係、というと語弊はあるが、高音ちゃんの“知り合い”はかなり多い。
というのも、高音ちゃんは確かに高嶺の花に思われがちだが、その一方で、告白されることが絶えない子でもある。そして、これが彼女の特殊性なのだが、とりあえず付き合うのだ。ほとんどの場合、了承して恋人関係になる。しかし、短ければ数日。今までの最長で一ヶ月。そのくらいの期間経つと、彼女の方から謝罪とともに分かれる。その場に立ち会ったことがあるため、知ってはいるが、その真意を問いただしたところ、『付き合ってみないと、わからないことがあるから』という答えが平坦な口調で返ってきた。
無論、断る場合もあり、それは明らかに相手が遊びであることが明白な場合や、悪い噂の絶えない相手だった場合である。更に言うと、後者だった場合、美汐ちゃんがなにやら暗躍しているらしい。そのせいか、余計なトラブルになったことはない。
「心当たりあるん?」
「たぶん、シオも知ってると思うけど。ほら、あの白鷺先輩のそばによくいる――」
「それやッ!」
急に立ち上がるから、椅子が倒れて騒々しい音を立てた。
「びっくりした」
「あたしも」
「そなアホなこと言うてる場合か」
「落ち着きなよ、美汐ちゃん。注目されすぎて視線が痛い」
今度は興味というよりも、単純に迷惑行為に対して咎めるような視線が突き刺さってきている。
「おう、すまん」
椅子を引き起こすのを手伝って、美汐ちゃんを座らせる。
「で、そもそもその白鷺先輩って?」
「「…………」」
二人の白い目が突き刺さってきた。
「え? なに、変なこと言った?」
冷ややかな視線に覚えのない紗夜は戸惑う。
「この学園、大きいから有名人やら変人やらいっぱいおるけどな」
「変人はともかく、有名な人はいるらしいね」
「らしい、やないやろ。その白鷺先輩ちゅうたら、女子の間で知らんやつはおらへんほど有名やで? いや、ここに一人おんねんけどな? とりあえず、超有名人。てか、女子に限った話でもないか」
「まあ、あの容姿だし、ね」
高音ちゃんをして、その容姿を褒めさせるとはどういった人なのだろうか。そもそも、性別すらわからない。今朝の先輩の知り合いなら、男なのかもしれない。
「今、アホなこと考えてる顔しとったな。ちなみに、白鷺先輩、てか、刹那先輩は女の人やで?」
「へ? でも、女子に有名で、男子の中でも割合有名って言うと、男の人かと思ったけど」
「あー……言い方が悪かった。刹那先輩は有名な雑誌モデルやってた人や。今は辞めてしもたけど、有名なんは今も昔も変わらんな」
「あ、だから女子に有名なのね」
納得。
「しっかし、目論見が外れてしもうたな。いや、でもこの方がオモロイか」
なんか不穏なことを考えていそうです、この瓶底眼鏡の子は。
「これを機に、紗夜ちんに彼氏を作ってみようと思ったんやけど、こればかりは難しいやろね」
「そうだね。相手が悪すぎる。いくらサヤでも、ちょっとね……」
「なんとなく、言わんとしてることはわかるけど、どうしてそういう話に行き着くのか教えてもらってもいいかな?」
突飛な発想をしているのは目に見えているが、一応経緯は聞いておきたい。
美汐ちゃんはにやりと笑うと、眼鏡を押し上げ、
「交差点で偶然ぶつかっちゃった的なノリで、紗夜ちんが恋に目覚めないかと思うてな」
「いや、ないし。お礼をするのは筋だけど、どうしてそういう発想に至るのかがさっぱり不明だよ」
「いやー、だってさ……紗夜ちん、こんなに可愛いのに、浮いた話の一つもないやろ? そろそろ年頃の乙女としてどうなの、思うて」
「そういう美汐ちゃんはどうなのよ。それにあたしはそんながっつく気はないの! 恋はするものじゃないでしょ」
「あれま。これはある意味予想以上に乙女やったな」
少し落胆したように肩を落としていたが、気を取り直したのか、
「でもま、これを機に少し近づいみたい相手でもあるわな」
「それは美汐ちゃんの都合。そんなこと言ってると、お礼しに行く時、断固として連れて行かないよ?」
「それは困る」
と、予想外の方向から反撃が。
「その男の先輩はどうでもいいけど、刹那先輩には会ってみたい」
「あ、そっち」
てっきり、今朝の先輩に興味を抱いたのかと思ったら、そうではなかったらしい。まあ、以前から知ってるようではあったし、女の子としては元モデルに知り合えるチャンスとして、少しばかり期待するところもあるのだろう。
「んじゃ、今日はちょっと準備が足らんからお礼は後日にするとして、試験明けたら買い物せなあかんな」
「まあ、そうだね」
ふと見上げた時計は既に12時50分を指していて、そろそろ教室に戻らないと行けない時間だ。試験中の貴重な昼休みだというのに、紗夜たちはそんなことはさておいての、日常的な会話を満喫していたのだった。
それぞれトレーを返しに行き、連れ立って教室へと戻る。紗夜はこの友人たちのことがたまらなく好きだ。
自由奔放で、自分の興味のあることに爆進する美汐ちゃんと、クールで、それでいて愛嬌のある高音ちゃん。彼女たちにとって、自分もかけがえのないものであって欲しいと、紗夜は心の底で願った。
年度末の冬のある日。空は快晴、いつもどおりの日常だった。