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001 : "特に理由はないよ"

 カーテンの隙間から差し込む冬の低い日差し。空気の清澄さが光の純度を高めているようで、微睡みにたゆたう少女の目蓋を通し、視界に光が突き刺さるようだ。

 ぼぅっとした頭で日差しの眩しさに文句を言い、布団の温もりと勉強疲れの気怠さからなかなか起き上がれない。

「今日の予定は……」

 そこまで呟き、瞬時に頭が冴え渡る。

 今は何時? いつも起きる時間には、まだ日差しは家々に遮られて窓から差し込むことはないはず。じゃあ――

 急いで飛び起きて枕元の時計を確認。そこに示された時刻は3時27分。ちなみに、秒針はピクリとも動いていなかった。言わずもがな、電池切れである。

 次いで飛びついたのは机に置いて充電しているケータイ。ボタンを押す指の動きの不器用さに苛立ちながら、ホーム画面イッパイに表示された時計を見る。時刻は、

「8時20分……」

 一瞬だけ気が遠くなったが、そんな余裕すらないことに気がついて床を踏みしめる。目覚ましはかけていたが、それは枕元の時計のもの。当然、電池切れでは動作するはずもなく、完全に寝坊。

 しかも、今日は大事な試験の日。何があろうと遅刻はできない日。

 朝食など食べてる暇はない。一刻も早く制服に着替えて学校に行かなくては。

 寝巻きを脱ぎ捨て、制服にもどかしく袖を通す。鞄にペンケースや教科書などを乱雑に詰め込み、コートを引っ掴んで自室から飛び出す。

「お母さん! どうして起こしてくれなかったの?」

 階段を転げ落ちそうになりながら呼びかけたものの、返答は静寂。そういえば、今日は朝早くから出かけると言ってた気がする。案の定、リビングのテーブルにはつくり置かれた朝食と書置きがあるが、食べてる暇も読んでる暇もない。ゴメン、お母さん。せっかく作ってくれたのに……夕食はちゃんと残さずいただきます。まあ、いつも残してないけどっ。

 廊下を走りながらコートを着て、つっかけるように革靴を履く。無人の家を施錠しないまま放置することはできないので、鍵をかけようとするが、慌てているせいで鍵穴にうまく差し込めない。

 ようやく鍵をかけることに成功し、駅に向かって全速力で走り出す。この時間なら、うまくすれば試験そのものには間に合う電車に乗れる。はっきり言えば、それに賭けるしかなかった。

 革靴という運動に適さない靴で堅いアスファルトの上を走るのは予想以上に疲労がたまる。荷物もかさばって、走りにくいことこの上ない。

 いや、言い訳はよそう。そもそも運動は得意じゃない。50m走だって、平均以下のタイムだし……100mに至っては走り終わればしばらく立てないほど。でも、今はそんな泣きごと言ってる場合じゃない。ある意味、というか、普通に人生かかってる。

 少し説明しよう。少女、こと冬月紗夜が通う火浦学園は幼稚園から大学までを擁するいわゆるエスカレータ校である。ほとんどの生徒が中学からの参入で、高校に上がる前の冬に一度、学力試験が課される。そのテストで基準点を越えられない生徒は進学不可とされ、分校への配属、もしくは、他校への受験を余儀なくされる。そういう意味で、この試験は非常に大切であり、欠席はもとより、遅刻ももってのほかである。

 だというのに、今日がその『試験日』であるのだから、始末に負えない。

 全速力で走り、ようやく駅舎が見えたと思ったその時、遠く踏切のベルの音が聞こえた。まずい。そうは思ったものの、慣れない全速力を自宅から続けてきたわたしには余力などなく、程なくして電車がホームに滑り込む。距離にして約50m。しかし、すでに電車が駅に到着してしまった今となっては、今から全力を振り絞っても間に合わない。短いようで、とてつもない距離に感じた。

「はは……」

 乾いた笑いがこみ上げる。足は完全に止まった。走る意味なんてない。疲労から力が抜けそうになるが、堪えて無様に崩れ落ちることだけは避けた。

 人生、何もかもうまく行くなんて思ってない。失敗だってあるだろう。でも、たった一度の寝坊が、よりによってこんな大事な日にあたってしまうなんて。

「悪いこと、したのかなぁ……」

 バチが当たるようなことはしてこなかったはずである。嫌いな食べ物だってあるが、残したことなんてない。もちろん、動物を虐めたこともない。いや、そもそも動物好きのあたしがそんなことするわけもないのだけれども。友達と喧嘩することはあっても、全部仲直りしてる。そりゃ、なんのわだかまりもなく過ごせてるかと言えば、必ずしもそうではないけど。

「でも、だからといって、ね……」

 力なく壁に手をつき、そのまま寄りかかる。次の電車では完全に遅刻は免れず、よって試験の点数はゼロ点となる。病欠の場合は事情を汲んでもらえるであろうが、ただの寝坊じゃどうしようもない。ため息。

 絶望と落胆に打ちひしがれ、うつむく。だから、気づくのが一瞬遅れた。いや、音は聞こえていたが、それが自分に関わりのあるものだとは予想していなかった、というのが正しい。

「君」

 柔らかな、しかし、しっかりとした少年の声音が耳を打つ。それは間違いなく自分の向けられたもので、はっと顔を上げると、そこにはワインレッドの車が一台あり、後部座席の扉が開いて少年が顔を覗かせていた。

「あたし、ですか?」

 確認のために一応聞く。少年は端正な顔に真剣な表情を浮かべ、

「確か中等部は今日が進学試験のはずだったけど。君はこんなところにいていいのか?」

「それが、その……」

 視線が駅舎の方に向かう。少年の目もそれを追い、事情を理解したらしい。

「電車が行ってしまったのか。なら――」

 車内に視線を送ってから、再度紗夜を見据え、

「送っていく、という言い方は変だが、乗るといい」

「でも……」

 制服を見れば、彼が高等部の生徒だというのはわかった。それならば、試験があるという事情を知っていることそのものには疑問を抱くことはない。だが、知らない人であることは間違いないし、何よりも男であることが少々の不安を抱かせている原因である。

 だが、少年は強い口調で言う。

「こんなことで、今までの時間を不意にしたくはないだろ?」

「っ! そう、ですけど……」

 確かにしたくはない。しばしの逡巡。だが、結論は自ずと決まっていた。

「お願いします」

「そうか」

 少年はわずかに頷き、車の中へと引っ込む。紗夜は赤の車に近づき、なかを覗き込む。運転手はメガネをかけた30代後半と覚しき男性で、

「運が良かったな、嬢ちゃん」

 呵呵と笑い、紗夜が扉を閉めるのを待つ。

「安全運転でな、父さん」

「俺がいつ危険な運転したよ。今まで無事故だぞ?」

 軽口を飛ばし、エンジンをかける。車は滑るように走り出し、徐々に速度を上げる。カーブでも体が変に傾くようなこともない、スムーズな走り。エンジン音も静かなもので、車内はしばし静寂に満たされた。

 重い沈黙というわけではない。だが、自分から声をかけておきながら、やや無関心な態度を取る少年にやや疑問を感じもする。いや、年上であることは確かなのだから、先輩と称するべきなのか……

 そんなある意味どうでもいいことで悩む紗夜へ運転手の男性は唐突に、

「実はコイツも寝坊でな。いつもは愚息も電車通学なんだが、今日は偶然車で送ることにしたんだよ」

「そう、なんですか……」

 ということは、この少年、じゃない、先輩が寝坊するようなことがなければ、紗夜はこうして車に乗せてもらえるようなこともなかったということになる。まあ、正直感謝すべき内容ではないだろうけれど。

「でも、だからと言ってどうして声かけたんですか?」

 疑問点はそこだ。自分が遅刻して遅れそうだというのに、普通なら他者に気を配る余裕などないだろう。それだというのに、彼はそれを行った。

「特に理由はないよ。困ってそうだったし、こっちはある程度事情がわかってたから声かけた。それだけ」

 必要以上に素っ気ない声。紗夜は「そうですか」と言うのが精一杯で、それ以上言葉は続かなかった。

 気を利かせたのだろう。先輩のお父さんは耳に障らない程度の音量でラジオを付ける。ちょうど天気予報の時間だったようで、ニュースキャスターが落ち着いた声で今日の天気は安定したものであることを告げた。窓越しに見上げた空にも雲は少なく、明度の高い青が視界いっぱいに映り込む。

 時間にして15分弱。校門の前に滑らかに停車した車。紗夜は鞄を掴んで慌てて扉を開く。

「どうもありがとうございました!」

 言うが早いか、校舎へと向かって走り出す。その背中へ2人の、

「頑張れよ」

 という声が届き、紗夜は軽く振り返って、手を挙げて応えた。

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