第五幕 森と黒
薄暗い木々の間を早足で通り抜ける二人がいた。一人は腰に使い古された剣を提げ、大きな荷物を背負っている男性。もう一人は小さな体をローブで覆った人。一見しただけでは性別まで分からない。
二人は何故こんな森の中を急ぎ足で歩いているのだろう。男性の顔には焦りがあった。何者かに追われているのだろうか。
「大丈夫か、ミリア」
男性は前を向いたまま小柄な人物に声をかける。名前からして、女性のようだ。ミリアと呼ばれた少女は小さく頷く。
「レイルこそ、無理、してる」
男性の名はレイルと言うらしい。ミリアは抑揚のない声でそう言った。
「まぁ、ちょっと余裕ないかも」
二人はひたすら歩き続けた。現在地なんてものは初めから把握していないだろう。ただ奥へ奥へ、闇に紛れるようにして進んでいく。
しばらくしてレイルはやっと歩を緩めた。
「やっと、撒けたかな」
「気配が消えた」
二人は顔を見合わせ、ひとまず安心といったようにその場にしゃがみこんだ。
「けど、ここはどこなんだろうな」
レイルは誰に問うでもなく呟くと、鞄の中から一枚の紙を取り出す。どうやらそれは地図らしい、指でたどって、懸命に現在地を探している。
「この森に入ったってのはわかるが、そっからどうしたかはさっぱりだな。というか地図にもこの森ことはあんま詳しく載ってない。前人未到の地ってわけか?」
うーんと唸って頭を悩ませるレイルをよそに、ミリアはぼーっと森に更に奥の方を眺めていた。
「ミリア、どうかしたか?」
返事はない。レイルはあまり気にしていないようで、地図をしまうと今度は水筒を出した。
「今日は朝からほとんど休んでないからな、少し休憩しよ」
レイルが水筒を差し出したその時、唐突にミリアが口を開く。
「雨」
「え……?」
近くの地面に小さな丸い模様ができる。ひとつ、また一つとその丸はどんどん増えていき、やがて丸であることすらわからなくなった。雨だ、ただ普通の雨が降ってきたのだ。本当にそれだけだった。何も驚くことはない。けれどレイルは不思議そうな顔をしている。まるで初めて雨というものを見たかのような。
「なんで、濡れないんだ?」
雨が自分だけ避けているかのような。
「私が体の周りに空気の壁を作ったから」
地面に座り込んだミリアが言った。
「これも魔法ってことか」
「そう、ごくごく弱い魔法。けど、レイルに直接かけたわけじゃないから、相殺されない」
「へー、便利だな」
レイルは楽しそうにそれを見上げて頷いている。
「あっちに洞窟がある。もうすぐ日が沈むから、移動したほうがいい」
「あ、そうなのか。じゃあ休憩はその洞窟でするか。というか今日はそこで野宿だな」
レイルは水筒を鞄にしまうとミリアに手を差し伸べる。ミリアはごく自然にその手をとった。
「ねえ、雨って触れるとどうなるんだ」
不意にミリアは問いかける。レイルはそれこそ不思議そうにミリアを見た。
「ミリアは雨に濡れたことがないのか?」
「雨は濡れるものなの?」
珍しく顔を上げてミリアはレイルを見つめ返した。
「そうだな、基本的に雨は、濡れるのもだな。あ、見つけた」
レイルの視線の先にはミリアが言ったように洞窟があった。
「あそこでゆっくり話そうな」
ミリアに微笑みかけるも、ミリアはその笑顔をじっと見つめるだけだった。
レイルは洞窟に着くと手際よく火を起こしてミリアに毛布を渡す。
「雨が降ると一気に気温が下がるからな、しっかり暖をとらないと」
ミリアもそれは分かるらしい、火のそばで毛布に包まって座っている。レイルは何やら鉄製の台を火の上に設置し、同じく鉄製の取っ手がついた箱を持って洞窟の入口に行く。そして箱いっぱいに雨水を容れて戻ってきた。火に新たな乾いた木片を入れ、鉄製の台に箱を置いてミリアの隣に腰を落ち着ける。
「旅人にとって雨は天からの恵み。こうして火にかけて沸騰すれば飲めるようになるんだ。にしても、洞窟内が濡れてなくてよかったよ。場合によっちゃ肝心の火が全然つかないこともあるからな」
そしてまた、笑いかける。雰囲気を少しでも明るくしようとしているのか、それとももともとそういう正確なのか。ミリアはただじーっと炎が揺れ動くのを見ているのみ。レイルは少しだけ、寂しそうな顔をした。それに気づいてかたまたまか、ふと炎から視線を外すと、レイルに視線を移してどうかした、と尋ねた。
「なんでもないよ」
「……寒くないの?」
「え?」
「雨が降ると寒くなる、だから火を起こす。これは私も知っている。毛布、ひとつしかないのか?」
ミリアなりにレイルのことを気遣っているのかもしれない。あまりにも平坦な声だったので、はじめレイルはミリアが何を伝えたいのか理解できなかった。レイルがきょとんとしているのを見て、何を思ったのか、ミリアは毛布にくるまったままレイルの胸に飛び込んだ。
「え、どうした?」
「人肌が一番暖かいらしい。誰かがそう言っていた」
「お、おう」
それは一見大胆な行動に思えるかもしれない。しかし、ミリアにとっては何の気無しの、ただ純粋な思いが取らせた行動でしかなかった。また、レイルもそれは理解している。
「ありがとうミリア」
レイルは胸の中のいたいけな少女を優しく抱き締め、フードの上からそっと頭を撫でた。
そのうちにミリアは静かな寝息を立てはじめた。きっと酷く疲れていたのだろう。一切整備されていない森の中をこの小さな身体で一日中走り続ければ、誰だってそうなる。むしろ今までよく耐えていたものだ。それは、この少女が普通とはかけ離れているせいかもしれない。
「大丈夫だ、ゆっくりお休み。火の番は俺がするよ」
ミリアの頭が自らの膝にくるよう移動させた後、レイルは暗い洞窟の中ただ一つ命を主張するかのように輝いている炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
やがて暑い雲で覆われた空が更に暗さを増していき、森は闇に閉ざされる。聞こえるのは煩いくらいの雨音と木が弾ける小さな音、そしてミリアの安定した寝息だけとなった。
レイルは人の気配が自分たち以外感じないことに安心しつつ、これからのことを考えていた。この森に逃げ込んだのが間違いだったとは思わない。しかし、抜けることは可能なのだろうか。地図は使い物にならない。感覚でだいたいどの辺りにいるかは分かるが、しかし森を抜けられたとしてそこが安全とも限らない。ここでの選択が、二人の今後を大きく変えていくのだ。そう思うと胸がいっぱいになって正しい判断ができなくなる。昔の自分なら最善策を選び出すことが可能だっただろうに。レイルは無意識に胸に手を当てていた。
どれくらいそうしていたのだろうか、不意に自分の名を呼ぶ声がして、レイルは顔をあげた。
「レイル?」
「……え、あ、起きてたのか」
「水、沸騰してた。移動させたからもう大丈夫。それより、胸、痛いのか。強く服を握りしめている」
ミリアはいつの間にかレイルに寄り添う形で座っており、身を乗り出してレイルの手に手を重ねた。
「あ、痛くはないよ。全然。ちょっと考え事をね」
「そう。では、そろそろ行くか」
「え、行くってどこへ。まだ雨は降り続いてるし、こんな真っ暗闇の中森を歩いたら危険だ」
「平気」
「平気って、いくらミリアみたいに力のある人でも無茶は良くない。しっかりこの先を考えてから」
「落ち着け、呼ばれているから平気だ。彼女が案内してくれるそうだ」
彼女とは一体。そんな疑問を口にする前にミリアはさっさと行こうとするので、レイルは慌ててランプに火を移し、焚き火は踏み消してミリアを追った。
「雨に、濡れてみたい」
洞窟を出る寸前、ミリアはぽつりと呟いた。
「今はやめとけ、風邪ひくだけだ。また今度な」
「分かった」
ミリアが一歩踏み出すと、またそこだけ雨が避ける。レイルはミリアに続くしか出来なかった。
しかし、異変にはすぐに気づいた。
「……なぁミリア、こんな道元々あったか」
「この森は彼女のもの。彼女の意思で自由に動かせる。だから私達はそれに従うだけだ」
「魔法ってことか?」
「そうだけど、でもここまで大々的なことが出来るのには訳がある。きっと、この森が彼女に呼応しているのだろう」
ミリアは眈々と答えつつも先を急いだ。思えばミリアが先導して先を行くことは初めてかもしれない。町の中ではレイルにべったりひっついて離れないことが多かったこともあり、レイルは妙な違和感にかられていた。彼女とは一体……。先ほど抱いた疑問がどんどん増幅していくのを感じつつ、レイルはミリアの小さな背中を追うことしか出来ない。彼女の正体を聞くのは、なぜか無性にためらわれるのだった。
しかし、着いて行けば必ず分かるはず。それまでは自らに出来る精一杯のことをしよう。
レイルはランプを掲げて先を照らした。
闇は深まるばかりだった。
どれくらい歩いただろう。もうとっくに日は暮れており、一寸先は闇な状態がしばらく続いていた。
ミリアは歩を緩めることをせずに歩き続けるが、急なカーブでも木にぶつかりそうになったり、地面の石で躓きそうになったりすることが一切ないことから、もしかしたら魔法で感知しているのかもしれないなとレイルは踏んでいた。
「もうすぐだって。もうすぐ森の中央、彼女の家がある」
その言葉通り、なにか前方に薄明るく不気味に光る場所が見えてきた。近づくとそれは確かに家だった。
二階建てのこじんまりとしたログハウス。なぜか火を灯しているわけでもないのに、この家の周りだけほんのり明るく、まるで家自身が発光しているかのようだった。
家は、レイル達を認識するとゆっくりその扉を開き、二人を招き入れた。
「入って良いのか」
「いらっしゃい、私は二階で待っているわ、だそうだ。問題ない。彼女は人を傷つけたりしないから安心して欲しい。そんなに警戒しなくていい」
「そ、そうか」
レイルはごくりと生唾を飲み込んだ。安心しろと言われても相手が何者なのか全く分からないというのは不安でしかないだろう。しかし、その相手とも間も無く対面出来る。
階段に足をかけると、木が唸り声をあげた。とても綺麗で腐っているところなどなさそうだが、以外にも年季が入っているのだろうか。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったかしら。その軋み音は私の好みでわざと鳴らしてるのよ」
突如頭上から声がして、レイルは思わず剣に手を伸ばした。
「あら、さらに驚かせちゃった? 急な来訪だったから色々と準備が不十分でね。久し振り、フィナちゃん。今は、ミリアちゃんだったかしら」
「お久し振りです。黒の姫君」
ミリアは今まで目深にかぶっていたフードをあっさりと脱いで、二階から階段を覗き込む人物にお辞儀をした。その人物は二十代前半の女性で、丈が長く裾にレースのあしらわれたワンピースに身を包んでいた。セミロングの髪は右耳の下辺りで一つに結われ、毛先はゆるくうねっている。また室内だというのに、胸を隠す程度の短いマントを羽織っており、そこから覗く腕は真っ白で、全体的に黒い衣装を纏っている中所々から覗く肌は酷く浮いていた。
「あらあら、その呼び方はあまり好きじゃないのだけど……まぁいいわ。さ、早く二階へいらっしゃい。今お茶を用意していたところなの。騎士さんも遠慮せずにどうぞ」
眈々と進んでいく話に一人取り残されたレイルは、促されるままミリアに続いて二階に上がった。そして慎重に室内を見回し、絶句した。あまりの出来事に体が硬直してしまったのだろう、二階の床に片足を乗せた状態で動きを止めている。声も出ないと言うように口は薄く開き、目は丸くなり、眉間には軽くだが皺が寄っている。
それもそうだろう。レイルの眼前には通常ではお目にかかれないようないような光景が当たり前のように存在していた。対してミリアは一切動揺する事なく、むしろそれが当然かのような動作で勧められた椅子に着席している。すっかりその異様な景色に馴染んでいた。
「何をしているんだ」
ミリアは相変わらずの無表情で、固まるレイルを見つめた。
「あらあら、騎士さんには刺激が強すぎたかしら」
ミリアが黒の姫君と呼んだ人物は微笑しながら紅茶をティーカップについでいる。
「はは、魔法の存在は知ってましたけど、こんな事も出来たんですね。これ全部あなたが?」
「そうよ。因みにミリアちゃんだってこのくらいのこと、簡単に出来るはずよ」
「そう、なんですか」
「さぁさ、騎士さんも席について、ゆっくりお話しましょう。美味しいお茶菓子もあるわよ」
レイルは言われるがまま、人が座りやすいよう机と少し間を開け、自らの方を向いた椅子に座った。
「まずはそうね、自己紹介でもしましょうかしら。ミリアちゃんのあの紹介じゃ騎士さんには分からないでしょうから」
「そうしていただけると助かります」
レイルは軽く頭を下げた。その隣でミリアはカップを傾け、完全に聞く姿勢だ。
「私はね、まぁミリアちゃんが言ってくれたとおりなんだけど、黒魔導師のお姫様です。お飾りなんだけどね。おかげでこんな鬱蒼とした森の中ひっそりと生活する日々よ」
「姫、ですか?」
「そう。黒魔法や白魔法については軽く知っているみたいね。私はミリアちゃんとは違うものを魔力に変えているわ。それから姫についてだけど、要は互いの魔導師の象徴みたいなものよ。白も黒も争いをしないよう年に何度か互いの代表が顔を合わせる場を設けているのだけれど、その中にとある魔法都市で開催されるお祭りもあるの。これだけは代表だけと言わず様々な場所から魔導師が集まるわ。そこで行われる催しに、私達姫が互いの杖を交換するという儀式があるの」
黒の姫君はそこで言葉を切ると、どこかあざ笑うような色を秘めた笑みで遠くを見つめた。その瞳には怒りに似た強い感情を感じる。
「私はそのためだけの存在。ただ、姫って名目がついてるだけの道具ね。けど厄介な肩書きを背負ってるばかりに、もし争いなんかが起きたら狙われるかもしれないから、こうして隠れて暮らしているわけよ。姫ってだけで、権力者のお嬢様みたいでしょ。利用出来るって思っちゃうお馬鹿さんがいるんでしょうね。特に私には力がないから、黒の姫は絶好の的なの」
黒の姫君はまだ遠くを見つめていた。一体その先には何が見えているのだろう。彼女にとって嬉しいものではないことは確かだった。
レイルは黒の姫君の話を頭の中で整理していたが、しばらくして首を捻り、難しい顔をした。途中までは何と無くだが、前にミリアから聞いたことと合わせて考えれば理解出来る。しかし、段々と話がわからない方に進んでいった。
「こんなにも魔法が使えるのに、あなたには力がないんですか?」
レイルは慎重に、しかし思ったままを尋ねた。
「あなたにとって、力って何?」
黒の姫君は視線をレイルに向け直して、逆に問いかけた。まるで試しているかのような、挑戦的な瞳。しかしさらに内側にあるのは深い悲しみだった。レイルは神妙な面持ちでしばし考え、そしてゆっくりと口を開く。
「俺にとっては、守ることが出来る手段が力です。そしてその手段は剣です」
「そう、よね。じゃあミリアちゃんは?」
話を振られ、ミリアは今までずっと揺すりながら水面を見つめていたカップを机に置いた。そしてしっかりと黒の姫君をみつめて言葉を紡ぐ。
「私は、私が持つ魔力全てが力だ。けどそれは、あなたが嫌う使い方はしない」
「そう、二人とも答えてくれてありがとう。騎士さんには少し説明が足りなかったわね。私を含め歴代の黒の姫は得てして力がないの。多くの魔導師にとって力とは即ち相手を服従させられる魔法がどれだけ素早く沢山使えるかということ。それは単に魔力が強いとかそういうことじゃない。見ての通り私は大量の魔力を操れるし、魔力で色々なことが出来る。魔導師の中でも器用な方だと思うわ。でもね、他の魔導師には出来て私には出来ないことがあるの。それは、攻撃魔法。例えばそこにある木箱を浮かせて頭の上に落とす、みたいな関節的な攻撃的は出来るわよ。でもね、攻撃目的だけに使うような魔法は一切使えないの。黒の姫は代々そういう宿命なの。それで選ばれていると言っても過言ではないわ」
「対して白の姫は、白魔法学院本校で最も成績の良い娘が、白の学院長直々に指名される。他者を退けられるほど強い力があってこその姫」
ミリアは黒の姫君の話に割り込むような形で言葉を繋いだ。普段のミリアからは想像もつかないようなその行動に、レイルは驚くばかりだった。
しかしレイルが驚いたのはミリアの行動だけではない。その声から、感情のような強い思いを感じとったのだ。もしかしたら、ミリア自身分かっていないかもしれないが、彼女がこの言葉を発したのには何か深い訳や彼女を突き動かす衝動があったのかもしれない。表情は相変わらず何も示さないが、彼女は滅多に発しないその声で自分を表現しているのだ。それはまだ完全ではない。しかし、レイルと旅をするようになって変わってきたのは確かだった。
「そうね、同じ姫なのに随分と違っているわよね」
黒の姫君は苦笑した。しかし驚いたような仕草は見られない。むしろいつもの癖に飽きれつつも可愛くて笑えてしまうといったような表情だ。それ以上に、喜びのようなものも感じる。
レイルは、この二人の関係について尋ねても良いものかと思案した。しかし簡単に答えは出そうにもない。
「私も、黒の姫君に聞きたいことがある」
「あら、ミリアちゃんから質問なんて珍しいわね。なに?」
「あなたは前まで城塞都市で父上ら魔導団の皆と暮らしていただろう。どうして今は森の中に?」
「えっと、それはね……」
黒の姫君は初めて言葉に逡巡した。戸惑ったようにティーカップを指で弾くと、心地よい音が静かな部屋に響き渡る。やがて、その音に励まされるようにして黒の姫君は続けた。
「今、魔導師達の間である噂が出回っているの。それは、ミリアちゃんにとってあまり気持ちの良い噂ではないのだけれど」
黒の姫君はミリアを見つめた。それでも良いか、と視線で尋ねる。ミリアは小さく首を動かした。それを確認した後、ミリアからは視線を外して再び口を開いた。
「そう、じゃあ続けるわね。噂っていうのは、白の学院長が世界中の白黒両魔導師を集って怪しい計画を練っているっていうものよ」
レイルは白の学院長という単語を聞いた瞬間、思わず眉をしかめた。頭の中でまたその名前かと呟き、そっとミリアを伺う。しかしミリアには特に気にした様子が見られず、先程感じた強い思いも、今は一切掴めなかった。だがレイルには分からない。本当にミリアは何も思っていないのか、それともただ胸の内の思いを素直に顔に表現できていないだけなのか。
黒の姫君も一瞬ミリアに視線を向けたが、すぐに戻して、また遠くを見つめるようにして話を進める。
「まだ計画の全貌はつかめていないのだけれど、お父様は大の白魔導師嫌いだから噂を聞いただけで凄く怒ってしまって……でもそれで、敵を作りやすいっていうのは本人が一番良く知っているわ。お父様は私の身が危険にさらされるのを恐れて、以前から用意していた私を守護するための場所に連れてきた。そこは私が自在に操れて、怪しいものは近づく前に排除出来、迎え入れたいものは道を示すことが出来る。つまりはこの森のことよ。ここは私が一番力を発揮できるよう全てが整えられている。だいたい一年ほど前からこの森に一人で住んでいるわ」
そこで一旦言葉を切ると、今度はしっかりとミリアに視線を向け、視線が交わるのを待ってから優しく微笑みかける。
「ミリアちゃんに以前会ったのが三年前の会議だったから、こちらのことは知らなくて当然よ。あなたもあなたで、この三年間は色々あったのでしょう」
その言葉と笑みには、慈愛のようなものが感じられた。また、姉が妹に諭す時のような温かさも感じる。もしかしたら、黒の姫君にとってミリアは妹のように愛しい存在なのかもしれない。この暗い森の中、家族とも離れ一人で生活していくのは、精神的に苦しいものもあるのだろう。レイルはミリアに対して愛を持って接してくれるこの女性もまた、ミリアに会うことで少しでも気が休まれば良いと思った。この森に逃げ込んだのが偶然だろうと必然だろうと、こうして黒の姫君に出会えたことは、レイル達の旅にとって良い事であったのは明白だった。
「さぁ、そろそろお茶会はお開きにしましょう。あなた達を狙う怖い人々はここには近づけないわ。安心して今夜は寝て頂戴。布団は二人分、そこの部屋に用意したから」
黒の姫君が人差し指を一振りすると、彼女の視線の先にある一番奥の扉がひとりでに開いき、更に室内では中に浮いた布団が勝手に整えられゆっくりと床に降りた。相変わらず便利な魔法である。
「良いんですか? 話が聞けただけでも充分なのに部屋と布団をお借りするなんて」
レイルは遠慮がちに尋ねた。そんな彼に対し黒の姫君は笑顔で答える。
「何を今更。元々あなた達がこの森に来た時からこうするつもりだったわよ。この家は外部の音を遮断しているから忘れているようだけど、外は今大雨。雷すら鳴っているわ。こんな日に野宿は危険よ。今夜は泊まっていきなさい。二人とも、気づいてないかもしれないけどずいぶんと疲れている様子だわ」
二人は黒の姫君のご好意に甘え、用意された部屋で眠ることにする。
ミリアはローブを脱ぐとどこに隠していたのかあの杖を取り出し、それを大事そうに抱き締めて布団に入った。レイルも腰の剣を枕元に置き、マントを畳んで布団に寝転がる。隣からはすぐに寝息が聞こえた。
小柄でまだ幼さの残る少女に、この旅は精神的にも体力的にも辛く苦しいものだ。しかし、当の少女はそんな感情すら知らずに育ち、今も育ての親である白の学院長を止める事しか考えてはいないのだろう。魔力という特殊な力を持って生まれたばかりに、この少女は年にそぐわない運命と対峙する事になった。
レイルはまた無意識のうちに胸元を強く握りしめた。そしてまだ自分のすべき事を決めあぐねているかのような、自分の力のなさに怒りを覚えているかのような、苦々しい表情をする。
その時、何か不思議な香りがすると思ったのもつかの間、レイルの意識は暗い闇に吸い込まれていった。
翌朝、レイルは目を覚まし起き上がると、一切疲労を感じていない体に違和感を覚えた。布団で眠れたからといって、こんなにも回復するとは思えず、首を傾げながら剣を腰に戻しマントを羽織ると、さらに違和感は増す。昨日森の中を散々歩き、土ぼこりに汚れたマントであるはずなのに、清潔感がある。
眉根を寄せ違和感を口に出そうとしたその時、部屋の扉がゆっくりと開いた。その先では昨夜お茶会をした机に朝食を用意する黒の姫君の姿がある。
黒の姫君はレイルに視線を向けると微笑み、口元に人差し指を一本あて手招きした。レイルも、違和感の原因を確かめるべく、部屋の外へミリアを起こさないようにそっと出た。そして静かに扉を閉める。
「おはよう、騎士さん。昨夜はよく眠れたかしら」
「おかげさまで。あの香りも、この服も、体の調子も、全てあなたがしてくださったのですね」
「そうよ、でも心配する事は何もないわ。害のある事はしていませんから」
細い指をくるくるとあちらこちらへ向けて振り回しながら、黒の姫君は口元に笑みを浮かべて答える。
「俺も今更あなたを疑ったりしませんよ。こんなによくしてくださって……なにより、ミリアの様子を見れば一目瞭然です。彼女がこんなにも他人に対して心を許している姿を見るのは初めてだ」
「私もね」
黒の姫君は、そこで一旦言葉を切ると、改めてレイルの方に向き直り、ゆっくりとした歩みで彼に近づいた。
「ミリアちゃんが心から信頼している人を見たのは初めてよ。森に入ってからの様子しか詳しくは知らないけれど、この近くで起きた事件のことも風に乗って聞こえてきたわ。まさかミリアちゃんが人に寄り付くなんて……。もともと、人が嫌いな子ではなかったけれど、魔導師はあまりミリアちゃんに近づきたがらなかったから、あの子は人との関わり方を知らないのよ。それでもあなたは受け入れてくれた。ミリアちゃんがあなたの側に居たがるのは、ひとえに騎士さんの人柄の良さね」
レイルは黒の姫君の真っ直ぐな言葉に少したじろぎつつ、頭を下げる。
「ありがとうございます。俺も、あなたと出会うことでミリアの考えと、魔導師内で起きている問題について知ることが出来ました」
「やめてください、困った時はお互い様です。頼れるものは少ないですが、私はあなた達の味方でいるつもりよ。これを受け取って。勇気ある騎士と魔導師に、ささやかな贈り物です」
レイルは体を起こし、差し出された手のひらを見る。するとそこには徐々に光の粒が集まって形を成していく様子が伺えた。やがて光の粒は色を持ち一つの物体となる。
「森から得た力で作った治癒の香り瓶よ。小さいけれど効果は抜群、香り自体は自然から生成してますから、騎士さんにも効くと思うわ。それとこっちが、昨夜使った疲労回復の香り瓶。副作用として眠くなる効果がありますから、上手に使ってください」
「俺が受け取っていいんですか? ミリアじゃなくて」
「あの子には魔法がある」
黒の姫君はためらうレイルに二つの小瓶を押し付け背を向けた。そして憂を孕んだ声で視線をどこか遠くに向けて続ける。
「それに、ミリアちゃんは魔法のことしか知らない。これからもっと、この時代を生きる人として、多くのことを知っていくべきです。きっとそれを正しく使ってくださるのは、騎士さん、あなたです」
それはまぎれもない、黒の姫君からの信頼だと受け取れた。この瓶と共に、レイルはミリア自身も託したのだ。
レイルは、胸の内にまだわだかまるものを振り切るように素早く顔を上げると、誠実な眼差しを黒の姫君の背に向けた。
「任せてください」
きっと黒の姫君は、自身もミリアを助け、彼女の目的を果たすため共に闘いたいのだろう。しかし、そんな力がないことも重々理解している。また黒の姫君には、まさにその立場がある。容易に動ける身ではないのだ。
だから苦心の思いで、小瓶に自らの願いを全て乗せ、レイルに委ねた。
きっと、黒の姫君はレイルの迷いも見透かして、その上でこうすると決めている。黒の姫君が今どれほど強い思いでそうしているのか、それはレイルには分からない。ただ、意識を改めなければならないことだけは理解できた。中途半端な気持ちだけでは、約束も果たせなければ、ミリアを助けることもできない。昨夜の話で、それは痛いほどよく分かった。
だから、これは黒の姫君からのお達しでもある。決心なさい、という。
もう迷ってはいられない。前へ。
「さ、席に座って。そろそろミリアちゃんも起きるでしょうし、朝食にしましょう」
黒の姫君が、空気を変えるべく手を合わせて明るく声を発したその時、レイルのすぐ後ろの扉が勢いよく開いた。かと思うとレイルの背中に何かがぶつかるような衝撃が走る。
「ミ、ミリア……?」
レイルが驚いて首を捻り後ろを覗くと、そこには今起きたばかりという格好でレイルの背中にしがみつくミリアの姿があった。
「どうしたんだ、急に」
「起きたらレイルがいなかった」
「え、あぁうん」
レイルはまだ、ミリアがしがみつく理由を掴みかねているようだ。黒の姫君も不思議そうな顔で二人の様子を見つめる。
「最近は、目覚めると側にレイルがいた。リサがいた。今日は、見渡しても誰もいなかった」
そう言葉を紡ぐと、ミリアはさらに強くレイルのマントを握りしめる。そしてレイルは何か納得したようにふっと表情を緩め、力の入るミリアの手に自分のそれを重ねた。
ミリアの細い指先に込められた力が抜ける。その隙にレイルは向きを変え、ミリアの視線の高さに合わせて腰を屈めた。
「怖かったんだな」
レイルの思いがけない言葉に、黒の姫君が目を丸くしてミリアを見つめた。
「レイルがそう感じたなら、そうなんだと思う。私、レイルが急にいなくなって、また一人になってしまったって、約束したのに、やっと仲間になれたって……思ったのに」
「……ごめん、もう急にいなくなったりしないから。ごめんな」
レイルはミリアを落ち着かせるように視線を合わせると、ミリアの頭にそっと大きな手のひらを乗せた。
「レイルに置いていかれたんじゃないかって考えたら、頭が真っ白になって、鼓動が激しくなって、いてもたってもいられなくなって気づいたら部屋を飛び出していた」
ミリアは不安げな表情で自分の中にある感情を必死に言葉にしようとする。その肩は僅かに震えていた。
「大丈夫、俺は勝手に消えたりしない。だから安心して、もう怖くないよ」
まるで小さな子どもに語りかけるような口調でレイルはゆっくりと言葉を発する。ミリアもやっと落ち着きを取り戻したのか、一つ深呼吸をすると、小さく頷く。
「皆さん目覚めたことですし、朝ごはんにしましょうか」
暗い空気を拭い去る楽しげな声音で黒の姫君はそう言うと、人差し指を軽やかに舞わせ机に三人分の朝食を並べる。ミリアは改めて大きく頷き、無言で昨夜と同じ席に着いた。レイルもそんなミリアを暖かな眼差しで見つめながら後に続く。
「二人はもう旅立たれるのでしょう。いろいろ気がかりなことはあると思いますけれど、今だけは一旦忘れて、食事を楽しみましょう」
「はい」
レイルとミリアは声をそろえて返事をすると、久しぶりのまともな食事を堪能した。
食べ終わり、黒の姫君に礼を言うと、二人はとすぐに旅の支度を整える。レイルは大きな荷物を背負い、黒の姫君から預かった二つの小瓶を確かに上着の裏にしまったことを確かめ、ミリアはローブを纏い顔が見えなくなるほど深くフードを被ると、杖をローブ内に隠す。そして出口まで行き、再び黒の姫君に頭を下げた。
「お世話になりました。助けていただき、またたくさんのことを教えていただきありがとうございます」
「良いのですよ、どれも私がしたかったことですから。それに、少しでもあなた方の力になりたかった、という私のわがままでもあります」
ミリアもフードの下から相変わらずの単調な声で述べる。
「また、いつか」
「ええ、いつか必ず。その時には、名前で呼んでね、ミリアちゃん」
「約束する」
「また何か分かれば、風に乗せて二人にお知らせするわ。森の出口は、森が教えてくれます。安心して、進んでください」
二人は黒の姫君の温和な、しかし強い願いのこもった視線に見送られ、森の中へと歩みだす。
木々の隙間から二人の姿が伺えなくなっても、黒の姫君はしばらくその場に立ち尽くした。そして、一言。
「あなたたち勇気あるものの旅路が、どうか安らかでありますように。道の果てには、幸せな未来がありますように」




