クロウハートは笑わない ~悪役令嬢テレシア・ユースティティアの残照~
前編的な何か:https://ncode.syosetu.com/n2555me/
きっと、テレシア・ユースティティアの存在は、アトリにとって前へと踏み出す理由の一つだったのだろう。
かつて学院に君臨した比類なき悪役令嬢。その死に導かれるように精霊術師アトリは悪童王子コルヴィスと出会い、二人の間に確かなつながりが芽生えた。それが一つ前の月のこと。
苦悩の果てには納得と悲しみが得られ、二人はなけなしの勇気で前を向く。後に残るはただの女学生と第三王子。二つの道が交わる道理はなく、ゆえに両者はお互いの人生へと静かに戻っていく。
すべてが自明な結末。当然のように彼女は納得できず、ゆえに黒い光は今日も二つの星の間を揺蕩う。
「……わたし、どうやってコルヴィスさまと会ってたんだろう」
思い出すのは月夜の邂逅。悪童王子の本心を知り、彼を王族の呪縛から解き放ちたいと思ったはいいものの、テレシアの騒動も決着した今、アトリはコルヴィスを誘う理由を見失っていた。
無論、二人は同じ学院に通う学徒だ。学年は違えど互いを目にする機会は少なくない。けれどもすれ違うコルヴィスはいつも何らかの大貴族に囲まれていて、平民アトリとしてはどうしても声をかけづらく、伸ばした片手を遊ばせるだけだ。
「どうしたらいいのかな?」
肩にとどまる精霊たちに聞いてみるも、困惑と慰めが淡い光を発するだけだ。言葉なき魂たちはアトリの全霊の味方ながら、人の世界に詳しくはない。けれども今日は、前に出る光が一つ。
まるでついて来いと言いたげな飛び方で前方をふらふらと飛ぶ黒い光は、やがて一人の女学生のもとへとアトリをいざなった。
「聖女、ヒカリさま」
「どしたのアトリちゃん。また悩み事?」
学院の庭、大樹の陰で手製の弁当を広げていたのは輝きの聖女ヒカリ。アトリと同じ平民出身ながらも固有魔法を有し、王子たちともはばからずに交友を深める傑物だ。
「……実は」
少し悩み、アトリは自分の悩みを打ち明ける。
「コルヴィス殿下が王子様やらされててかわいそうだから、助けてあげたいと」
「はい。迷惑かも、ですけど」
言いながら、アトリの心に浮かぶのは自己嫌悪。ただの平民である自分が王子を助けようなどと、なんと傲慢なのだろうか。
「でも、助けたいんだよね」
「……はい」
ヒカリはアトリのたどたどしい話に静かに耳を傾ける。固有魔法のせいなのか周囲にはまばゆい光が満ち、それがアトリの心の痛みを和らげていく。
やがて話を聞き終えた聖女は、小さく何度かうなずいて、指を立てる。
「アトリちゃん、二年生ってことは十五歳だよね。誕生日いつ?」
「ええと? 女神の月です」
「けっこう遠いな。でも婚約なら大丈夫だっけ?」
「あの、何がですか?」
「ほら、この世界だと女の子は十六から結婚できるでしょ。コルヴィス殿下も十八だし、それがいいかなって」
困惑に傾くアトリの首。聖女がすさまじい光量で語る説明によると、つまりは王子を婿養子に迎えろと言いたいらしい。
「駆け落ちまで行かなくても、平民の子になっちゃえば王子じゃないでしょ」
「け、結婚なんて、恐れ多いです」
「そう? でもそれ以外だと国家転覆とかになっちゃうけど」
「ひええ」
聖女ヒカリはほわほわした顔立ちに似合わず、急にシビアな物言いをすることがある。友達が言っていた通りだ。
「好きなんでしょ? なら結婚が一番いい方法だと思うよ」
「……好き、なんでしょうか」
アトリ自身、胸の奥で疼く気持ちには整理がついていない。でも少なくとも、恋仲になりたいとか、結婚したいとか、そういう類のものではないように思えた。
「わたしはただ、コルヴィスさまには笑っていてほしくて」
「そっか」
優しく頭を撫でてくるヒカリ。自分のそれより少しだけ大きくて、温かい手だ。
「確かに、一回くらい笑った顔見てみたいかも」
笑わせたいというのは言葉の綾だ。けれども、事実コルヴィスの笑顔を見たことがないと気づく。不敵にものを言い、楽しげにアトリを連れまわした彼の口元は、いつも真一文字に結ばれていた。
「年長者からのアドバイス。想ったことは言葉にしなさい。じゃないと、後悔するよ」
「はい。頑張ってみます」
かすかな決意とともに庭園を後にするアトリ。振り返った先に見えるヒカリの笑顔は、なぜか十歳は年上の大人のそれに見えた。
「ねえアトリ」
「何でしょう、シグネさん」
「第三王子様とのデートプランを考えるって話、どうなったの?」
「……うん」
精霊術の授業中に暇なのか、魔導音の隙間を縫ってシグネが話題を持ち掛ける。その声音はやや呆れ交じりだ。
「考えてはいるんだよ?」
嘘ではない。過去コルヴィスに連れまわされた場所から彼の好みを探ったり、平民なりに王子と並んでも問題ない装いを勉強したり、発声練習だってした。
「大掃除は試験前にするものじゃないでしょ」
「き、厳しい」
「見守る側にも堪忍袋はあるからね」
シグネのもの言いたげな言葉に少しだけ懐かしき彼女の系譜を感じ、内心で否定する。こんな時テレシアならもっと直接的に背中を押したに違いない。
「次、アトリ・リアリーゼ」
「は、はい」
教師に呼ばれるがまま、アトリは再び宿題を引き出しの奥にしまい込む。
「ふう。終わった」
「……お疲れアトリ」
遠くの的を撃つだけのシンプルな演習をこなし戻ると、シグネは苦い顔だ。
「どうしたのシグネ」
「それだけ使えてどうして第三王子程度に気後れしてるのかなって思って」
「だって、これはわたしの力じゃないし」
周囲を旋回する七色の精霊。最近攻撃を任せている黒い精霊は不在だが、それでも的に当てる程度は造作もない。本人に自覚はないが、アトリは精霊に愛されている。
「固有魔法も使えないし」
「あんなのあっても意味ないよ? テレシア様みたいになっちゃうかもだし」
忌々しげに顔を歪めるシグネ。彼女はアトリがテレシアを知る過程で知り合った、最大の反テレシア派だ。羽虫を払うようにテレシアの思い出を物理的に追いやり、そこで手を止める。
「テレシア様で思い出したけど、最近また悪役令嬢の残党が出たらしいね」
「残党?」
悪役令嬢の残党というのも奇妙な概念だが、要するにテレシアの闇の魔術に心酔した連中が人さらいや盗みを働いているらしい。
「そういうわけだから、討伐よろしくねアトリ」
「嫌だよ、危ないし」
たちの悪い冗談に辟易しつつ、けれどもアトリは思ってしまった。「都合がいい」と。
そして同時に、「それでいいのか」とも。
「よう」
贅沢な悩みを抱えて演習場を出たアトリにかかる声。男の声だ。
「コルヴィスさま?」
「……久しぶり」
少し気まずそうに顔を逸らすコルヴィス。悪童王子にぎょっとして離れていくシグネやほかのクラスメイト。気づいた時には二人以外には精霊が舞うのみの、少し懐かしい状況だ。
「週末、暇か?」
「は、はい」
「街の方で悪役令嬢の信奉者が犯罪行為を働いているって噂があってさ」
「わたしも、聞きました」
ぎこちない会話。コルヴィスの言葉にも歯切れがないことが、少しだけアトリを安心させる。お互い、同じ気持ちだったらしい。
悪役令嬢の死を通して始まった二人の関係。だから、事件さえあれば手を取り合うのは難しくない。ただ一言、「調べに行きましょう」と言えばいい。それができる程度の勇気なら、手元にある。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
本当にそれが、アトリの望みなのだろうか。コルヴィスの望みなのだろうか。
気づいたらアトリは、コルヴィスの両手をそっと握っていた。
「なんだよ」
「わたしは、普通にお出かけとか、したいです」
「お、おう」
面食らったまま固まるコルヴィス。黒い光が両者の視界を横切る。やがて悪童王子は目を閉じ、小さく首を振る。
「やり直させてくれ」
「え?」
「今のは個人的にかっこ悪い返事だった」
少し距離を取り、服装を整えて、それから凛とした眼差しでアトリの手を取るコルヴィス。
「楽しみにしていろ。本物の貴族のデートを教えてやるよ」
「……はいっ」
精霊が祝福するかのように二人の周囲を巡る。まるで歓喜する自分の心が筒抜けになっているかのようで、アトリはそっと顔をうつむかせた。
日が落ち、上り、やがて朝。火照りとむくみを自覚しながらアトリはデートの準備を整える。普段は着ない動きづらいタイプのスカート、何かの祭りでコルヴィスに渡された髪飾り。まとめているだけの髪型も、今日ばかりは少しだけ編み込んだ。
「ちょっと、大胆が過ぎたかも」
思い出すほど顔が赤くなる昨日の自分を鏡の前に置いてきて、いよいよと寮を出る。待ち合わせ場所は学院からほど近い平民街。一度だけコルヴィスに連れられて遊びに行った場所だ。子供と本気でケンカするコルヴィスを思い出しつつ、見えてきたその姿が思ったより正装だったことに驚く。
「よう。着飾ってきたな」
「コルヴィスさまも、前に来た時とは全然違いますね」
「……まあ、今日はデートだからな」
「……ですね」
恥ずかしくなりながら、差し出されたコルヴィスの手を取るアトリ。自然とその仕草が出てきたことに、お互いはまだ気づかない。
露店や景色を見ながらゆっくりと流れていく時間。王族とのデートというにはあまりに牧歌的で、けれども不思議と心地よい時間が流れていく。風がそよぎ、陽だまりは柔らかく、精霊たちも穏やかだ。
「なあ王子、ちょっといいか?」「デート中だ後にしろモーリス」
「あ、王子様だ。この間言ってた本読んだよ」「そうだなエリス、でも俺は今デート中なんだ」
「ここで会ったが百年目だコルヴィス! 今日こそ――」「うるせえよドラン! 状況見ろ」「あ、すまん」
変わらずコルヴィスは有名人だ。いわく、視察の名目で授業をサボって遊びに来ているらしい。状況的にデートを自慢して回っているようで、アトリとしてはこれも恥ずかしい。
穏やかで、にぎやかな時間。ざわつく心は少しだけ上向きで、アトリはなんとなくコルヴィスへと一歩体を近づける。コルヴィスは「歩きづらい」と文句を言いつつも、上機嫌だ。
けれども、コルヴィス・クロウハートは笑わない。鼻歌を歌いながら、足取りを軽くしながら、それでもその表情だけは硬く前を見据えたままだ。
「あ、あの、コルヴィスさま」
「なんだ」
街の外れの小さなせせらぎ。かかった橋の中腹で、アトリは足を止めてコルヴィスを引き留める。
「コルヴィスさまは、どうして笑わないのですか?」
「……」
返事は沈黙。コルヴィスの視線は困ったようにアトリを見て、空へ向かい、水の流れに落ちていく。
「わたしは、コルヴィスさまには、笑ってほしいんです」
思い出すのは聖女ヒカリの言葉。想いは言葉にしなければ。コルヴィスはアトリを拒絶していない。デートは楽しい時間にできている。だから、別に笑わなくても問題は起きない。それでも、アトリは自分の想いを伝えたくなった。
「別に、大した理由じゃないよ」
長い長い沈黙の末、耐えかねたコルヴィスは頭をかいて橋の欄干に腰掛ける。
「王族の呪いみたいなもんでさ。昔、祖先様が笑ったせいで国が滅びかけたらしいんだ」
語られたのは百五十年ほど前のとある王族の話。初代国王と同じく魅了の固有魔法を有したその男は、知らず知らずのうちに周囲の女性を魅了し続け、国を泥沼の後継者争いへと引きずり込んだ。増えすぎた跡取り候補が諍いを生み出すのは道理であり、当時の王国はあわや崩壊寸前にまで陥ったらしい。
「でさ、その祖先様が固有魔法に目覚めたのが突然だったとかで、念のため俺らも笑っちゃダメだって言われたわけだ。迷惑な話で、ごめんな」
コルヴィスに魔術の素養はない。けれども事実としてテレシアの固有魔法が後天的に目覚めたことを考えると、王族の判断に間違いはないのだろう。でも、笑顔を封じられた苦しさなら、アトリにも分かる。だから考えて、少しためらって、再び想いを言葉に変える。
「それでも、笑ってください」
「俺の話聞いてたのかよ」
「大丈夫です。わたし、魅了とか効かないので。精霊術師なので」
言葉に嘘はない。高位の精霊と魔力を共有し続ける精霊術師には、精神干渉が効きづらい。アトリは知る由もないが、それこそがテレシアの魔の手から彼女が逃れられた理由でもある。
息を巻き、手を握り、代わりに笑ってみたりして、どうにか想いを伝えようとするアトリ。それを見てコルヴィスが何を思ったのかは分からない。けれども最後には、アトリの言葉を信じることにしたらしい。
「魅了されても知らないぞ」
「あはは」
「何笑ってんだ」
夕暮れに傾きつつある街外れで始まる、二人だけのにらめっこ。口角を吊り上げ、目を細め、声を上げる第三王子。幼き日以来の笑顔に、アトリの表情は渋い。
「……コルヴィスさま、それ、笑ってます?」
「うるせえよ」
十年以上に及ぶ教育の成果は上々だ。コルヴィスは何度笑おうと試みても、最後には仏頂面にたどり着いた。これはこれである種の呪いなのではと訝るアトリ。けれどもその可能性がゼロなことは精霊たちのお墨付きだ。
「くすぐったりしましょうか?」「恥ずかしいだろ」
とにかく、染みついた心は簡単には動かない。夜に落ちゆく天気も時間切れを告げている。
「また、今度にするか」「ですね」
少しだけ残念ながら、デートは終わり。でも、「今度」があると言ってくれた。それを土産に学院へと踵を返すアトリたち。けれども、その歩みを止める慌ただしい靴音。
「王子! おい王子! コルヴィス」
「モーリス、さっきも言ったが」
「ロイドが攫われた」
誘拐事件。二人の間に緊張が奔る。直後にモーリスの口から発せられた「テレシアの暗影」を名乗る犯人の声明が、否応なしに二人からデートの余韻を奪っていった。
「モーリスは詰所から衛兵を連れてこい。ごねたら『コルヴィス・クロウハートの勅命』と言え」
「心得ました、王子」
「ドランは家屋を回って住民の無事を確認せよ。新しい被害者がいたら即刻合図を」
「仰せのままに」
「カーラ。後は任せて休め。これは王族命令だ」
「……承知しました」
第三王子として周囲に的確に指示を飛ばし、戦いの準備を整えるコルヴィス。アトリも精霊を飛ばして攫われた子供の居場所を懸命に探り、そして見つける。
「いました。外れの森の廃墟です」
精霊越しゆえに視認はできないが、少なくとも生命力は十分だ。ひどい暴行を受けた様子もない。アトリが伝えると、母親のカーラは安堵に気を失った。
「敵は何人いる」
「五人です」
思案するコルヴィス。やがて算段が付いたのか、アトリの肩に手を置く。
「よくやったアトリ・リアリーゼ」
久方ぶりに呼ばれる名前。王子としての他人行儀な響きだ。
「後は俺に任せて、安全な場所で休め。ドランに案内させる」
「わたしも行きます」
「許可しない。これも命令だ」
「でも」
迷いなく、揺るぎない王族の言葉。けれどもアトリの目に映るのは、無理をする学友の必死な姿だけだ。
だからアトリは迷い、揺らぎ、それでも想いを言葉に変える。
「でも、コルヴィスさま、魔術も剣術も全然ダメじゃないですか」
「なっ⁉」
悪役令嬢テレシア・ユースティティアが巡り合わせた二人の縁。幾度か付き合った魔術訓練、見せつけられた剣術訓練、どれも悪童王子には荷が重い修行だった。
「それでも俺には護衛がいる」
少し恥ずかしそうに事実を認め、手を叩くコルヴィス。どこからともなく護衛が推参、しない。
「来ませんね」
「まあ、護衛付きでデートなんてかっこ悪いからな」
「ついていきますよ」
「……ああ、頼む」
バツが悪そうにアトリの肩から手を放すコルヴィス。アトリは小さく笑い、それから表情を引き締める。
「行きましょう」
衛兵の準備が整うまで数刻。軽装のまま駆けるコルヴィスとアトリ。長いスカートは戦闘に備えて裂かれ、森の枝で傷つき、それでも気にせず走り続ける。装備の不要な精霊術師以外に対処を先行できる人間がいないと、アトリは知っている。
廃墟の扉を破ると、そこには調べの通り五人の野党。人質の子供は椅子に縛られて、気を失っている。
「クソ、もう来やがったか」
とっさに人質の背後に回る野党の一人。判断の速さからあれが首魁だとアトリは判断する。
「王族として問う。貴様らの要求はなんだ」
「滅びだ」
首魁の男がナイフを取り出し、人質へと近づける。
「俺たちはテレシア・ユースティティアの忠実なる僕。闇なる者の右腕。亡き彼女に代わり、王族と聖女に滅びをもたらす」
「……悪役令嬢の、逆賊か」
短い沈黙。第三王子コルヴィス・クロウハートは言葉を選び、悪を否定し、正義の名のもとに逆賊を討つ。そうすることを求められている。
「違います」
気づけば、アトリは前に出ていた。
「テレシアさまは支配者です。滅びに美学を感じることはありません」
「なんだてめえは」
「テレシアさまの友達です」
迷いなく言い切った言葉に力が宿る。信奉対象を否定された野党たちは怒り、ナイフをアトリに向ける。それをしのいだのは、コルヴィスの右手。
「コルヴィスさま?」
「そうだな」
受け止めた右腕から血を滴らせつつ、コルヴィスは瞳に怒りをたぎらせる。
「テレシアが、俺の友達が、こんな趣味の悪い奴らを下につけるわけがない」
「はいっ」
不敵なる挑発。数で劣り、首魁の男はおそらく衛兵よりも強い。それを分かっていながら、コルヴィスは意志のもとに戦いを選ぶ。ナイフが光り、血が飛沫き、刀剣が舞う。戦いが、始まる。
「逃げろ。衛兵が来るまで時間を――は?」
「……あ、あの、すみません」
戦いが、終わった。
まばたきをする間に五人の野党は壁にはりつけにされ、人質の縄は切られ、何なら治療もされていた。
七色の光がゆるりとアトリの周りで惑星起動を描き、消えていく。
「もう、終わっちゃいました」
「嘘だろ」
王立の魔術学院の門をくぐれる平民は非凡なる者のみ。コルヴィスも稀代の精霊術師の噂は聞いていたが、まさかここまでとは思っていなかったらしい。
困惑する王子。代わりにアトリは到着した衛兵たちに事情を説明し、この日の事件は幕を下ろした。
大騒動の帰り道。人質の母親に泣いて感謝されたり、ボロボロのアトリにコルヴィスが服を買い与えたりして、帰るころには深い夜。二人の足は、自然と寮の近くの湖へと向かう。テレシア・ユースティティアとの思い出の場所だ。
どちらからでもなくほとりに腰を下ろし、やがてアトリは口を開く。
「すみませんでした」
「なんで謝るんだ」
「せっかくのデートだったのに、コルヴィスさまに、王子をさせてしまって」
アトリの実力であれば、秘密裏に敵を殲滅することは難しくない。コルヴィスが各方面に指示を出さずとも、事件は解決できたはずだ。けれどもアトリは王子として責務を全うするコルヴィスに圧倒され、もっと言えば見惚れていて、だからこそ選択肢に気づけなかった。
「いいよ。王子じゃなきゃ、今日の俺は役に立たなかった」
湖に石を投げるコルヴィス。静かに落ちていく石ころは、重苦しいコルヴィスの責任感をアトリに想起させる。
「大丈夫だ。悪いことばかりじゃない」
「そう、ですか?」
「久しぶりに、テレシアのことを友達だと呼べた」
波紋が消え、湖面に月が映る。黒と金のコントラストは、どこか生前のテレシアの趣味に近い。そこに顔を近づけるのは、ただの気まぐれ悪童王子。
「俺は王子だ。でも、それ以前に、ただのコルヴィス・クロウハートでもあったんだって、気づけた。心の底から、言葉が出せた。だから、今日はいい日なんだ」
「……でも」
「俺の問題についてはさ、少しずつ分かりあっていくよ」
きっと言葉に嘘はない。けれどもそこに笑顔はない。アトリは、コルヴィスの決意を素直に受け止めてよいのか、心を惑わせる。結局、出せる言葉が見つからず、ただコルヴィスの隣で湖をのぞきこむ。泣き出しそうな自分の顔と、いつになく穏やかな王子の顔。有無を言わさず、納得させられてしまう。
「だから――」
コルヴィスは視線を上にあげ、本物の月を見上げる。
「もう少し、見守っていてくれよ」
「嫌です」
今度は、迷うよりも早く口が動いた。遅れて心がその理由をアトリに教える。
「見守るだけは、嫌です。一緒に向き合わせてください」
黒い光が一陣の風をなびかせる。湖が揺れる。アトリは突風に目を閉じ、開き、見開く。
月明かりの下にあったのは、初めてコルヴィスが見せた、ぎこちない、けれども本物の笑顔。
「ありがとう、アトリ」
夜風がもう一度アトリを揺らす。押し出されるように、コルヴィスの胸の内に収まる。
愛おしさ、尊さ、収まらない動悸。わけも分からずひしと体を寄せるアトリを、コルヴィスは優しく受け止めたまま、何も言わなかった。
ああ、もしかして、これは、恋なのかもしれない。
黒い風が満足げに闇へと融ける。
テレシア・ユースティティアはもういない。
だからこれは、悪役令嬢とは関係ない、ただの二人の物語だ。




