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第5話:支配か、連環か

第5話:支配か、連環か


 ――織田信長。

 その名はもはや、一人の武将のものではなかった。

 それは、古き秩序を焼き払い、日の本を己の理想で塗り替えんとする「時代そのものの意志」であった。


 安土城大広間。金箔の襖に描かれた虎が、燭の炎に揺れ、まるで生き物のように蓮次郎たちを睨みつけていた。

 瓶田蓮次郎は、堺の会合衆と並んで静かに膝を折る。だが、背筋の奥では冷ややかな痛みが走っていた。

 ――これが、覇の座にある者の空気か。


 玉座に座す男――織田信長。

 その姿は絵画のように静かでありながら、瞳の奥には炎が宿っていた。

 傲慢ではない。だがその静謐こそが恐ろしい。誰の言葉も届かぬ、孤高の天の眼差しだ。


「銭神、瓶田蓮次郎とやら」

 信長の声は低く、深く、そして妙に澄んでいた。

 それは剣の刃先のように、言葉そのものが空気を切り裂く。

「『和市』――よくやった。見事な仕組みよ。気に入った。日の本のために、その力を使え。我が天下のたていとを編む糸となれ」


 提案――などではなかった。

 それは、天が人に下す命のように、抗いようのない「宿命の宣告」だった。

 周囲の商人たちの顔が、羨望と恐怖で染まる。

 蓮次郎は、ただ一人、真っすぐに信長を見返した。

 その奥底で、何かが確かに共鳴していた。

 ――この男もまた、理想に殉ずる者だ。だがその理想は、民のためではなく、秩序と征服のための理だ。


「お言葉、痛み入りまする。なれど――」

 蓮次郎は、深く息を吸い込み、己の声で、己の理念を告げた。

「『和市』は、誰かの道具にあらず。民が自らの手で銭を廻し、互いに生かし合うための場。天下のためとて、自由の理を縛ることはできませぬ」


 一瞬、金襖の虎が息を止めたかのように、広間が静まり返った。

 信長の唇から、笑みが消える。

 炎のような瞳が、氷の刃へと変わった。

「――面白い。ならば見せてもらおう。その青臭き理想が、我が刃にどれほど耐えうるかを」


 その声は、天が雷鳴を放つ前の静電気のようだった。

 蓮次郎は黙って一礼し、立ち上がった。

 背後で、会合衆たちの羨望と侮蔑が混じった視線が、肌を刺すように突き刺さる。

 城を出るとき、安土の空は鉛のように重く、琵琶湖の波は黒い風を孕んでいた。嵐の前の海――まさしく、その光景はこれから訪れる時代の象徴だった。


***


「瓶田殿! あなたは夢を見すぎている!」

 堺へ戻った幹部会。

 蓮次郎が信長の要求を拒んだ報せに、場の空気は一瞬で燃え上がった。

「我らがここまでこれたのは、時流に乗ったからだ! 信長様という“新しい時代”に逆らえば、和市も潰れるぞ!」

「そうだ! 銭神と崇められて、己を神と誤解なさっているのではないか!」


 かつての同志たちの怒号が飛ぶ。

 蓮次郎は、ただ静かに聞いていた。

 ――夢を共に語った夜があった。

 だが今、彼らの目には恐怖と欲だけが映っている。

 彼らは「自由」を求めて集ったはずだった。だが今は、「安定」という名の檻を求めている。

 理想が「秩序」へと転じ、秩序が「服従」へと堕ちる。

 それが組織の自然の成れの果て――彼の理想の中に潜む、避けられぬ毒だった。


***


 堺の港に、夕暮れの風が吹いていた。

 西の空を焼く陽が、海面に滲み、血のような色をしていた。


「私は、この国を去る」

 フェルナンの声は、潮風に溶けた。

 南蛮船の白い帆が、金色の風をはらんで揺れている。

「この国は、間もなく一つの意思に飲み込まれる。神も、商も、自由も、入る余地はない」

 そう言って、彼は蓮次郎に問うた。

「君の銭は、確かに多くの人を繋いだ。だが――それは、本当に自由か?」


 蓮次郎は、答えられなかった。

 風が頬を切る。フェルナンは、港を見やりながら呟いた。

「――鎖で繋がれた奴隷に、救いはあったのかね?」


 その言葉は、鋼のように重く、深く沈んだ。

 蓮次郎の胸の奥に、何かが崩れ落ちる音がした。

 そうだ。

 救済の名のもとに、人々を『和市』という檻に閉じ込めたのは、自分だ。


***


 夜。

 私室に戻った蓮次郎は、黒檀の天秤を見つめていた。

 蓮が置いた、一枚の冷たい銭が、燭の光を鈍く弾く。

 その光はもはや富の象徴ではない。罪の証のように見えた。


(救うための銭が、人を縛る鎖となった……)


 雪原の誓いが、脳裏に蘇る。

 あの日、凍える少女に渡した銭の温もり。

 ――あれこそが始まりであり、終わりだった。


 蓮次郎は、帳簿の山に手を伸ばした。

 指先に伝わる紙のざらつきが、まるで自らの罪の肌のようだった。

(この鎖を、俺の手で断ち切る)


 静かに立ち上がる。

 それは、敗北ではない。

 理念を浄化するための、最後のいくさであった。


 外では、地鳴りのような太鼓の音が響く。

 織田軍の旗が、堺の町を包み込もうとしていた。

 夜風に混じる火薬の匂いの中で、蓮次郎の瞳は不思議なほど静かだった。

 まるで、自らの魂を天秤にかける者のように――。

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