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第2話:雪原の一銭

第2話 雪原の一銭

 ――蓮次郎の意識は、すべてを焼き尽くす炎の中から、遠い記憶の雪原へと還っていった。

 燃えさかる業火の轟きは、やがて時を超えて、凍てついた風の唸りへと変わる。

 熱がえ、破壊が静寂へと転じる。そこにあったのは、ただ白い無音の世界だった。


***


 天文の世。

 瓶田蓮次郎は、美濃の山中を独り歩いていた。

 足もとを噛む雪は深く、風は針のように肌を刺す。背に担ぐ行商の荷は重く、懐の和銭は、わずかばかり。

 彼の行く道は、凍った死の街道であった。


 道端に、戦の残滓が転がっている。

 半ば雪に埋もれた骸。凍りついた手を、野犬が貪っていた。

 人の死が風景の一部となり、恐怖も哀れみも、とうに感覚の底で凍えていた。


(……心が、死んでいく)


 彼は思った。

 それでも、記憶の底で父の声が微かに響く。

『銭とは、己のために掴むものではない。人を繋ぎ、世を温める血潮にしてこそ、初めて生きるのだ』

 その言葉を思い出すたび、蓮次郎の胸は痛んだ。

 現実はあまりにも醜い。銭は血を呼び、血は欲を呼ぶ。

 銭とは、人を獣に堕とす呪具ではないか――。


「父上……あんたの理想は、夢だったのかもしれない」


 彼は呟いた。

 懐に忍ばせた天秤の紋の和銭を握ると、指先に氷のような冷たさが走った。

 見上げれば、雲は鉛のように重く垂れこめ、空の色まで死んでいた。


 そのとき――雪の陰に、かすかな人影が見えた。

 古びた荷駄の傍らに、五つほどの少女がうずくまり、雪に埋もれている。

 その瞳は、光を失った硝子玉のようだった。

 蓮次郎は一瞬、目を逸らした。

 あの目を知っている。

 あれは、飢えで死んだ妹の目だった。


(……関わるな。助けたところで、また明日、別の誰かが死ぬだけだ)


 そう思い、背を向けた。

 雪を踏みしめ、遠ざかる音が、やけに重く響いた。

 ――だが、足が動かない。

 妹が最期に見せた、助けを乞う瞳が、氷のように彼の足を縫いとめた。


「……ちくしょうっ!」


 叫びは、吹雪に呑まれた。

 それでも彼は、己の迷いを断ち切るように駆け出した。

 懐の銭を握りしめ、村へ走る。

 粥一杯の代価として、全てを差し出した。

 再び少女のもとへ戻ると、蓮次郎は自らの羽織を脱ぎ、冷たい体を包み込んだ。

 粥をすくい、木匙を少女の唇へ――。


「食え。生きるんだ」


 少女は首を振り、唇を固く閉ざした。

「食えと言っている!」

 蓮次郎は声を荒げ、匙を押し込んだ。


 ――その瞬間、少女の身体が震えた。

 温かさが、凍りついた体を貫く。

 それは――“生きている味”だった。

 少女は、涙と粥とを一緒に飲み込みながら、獣のように椀に食らいついた。

 涙の塩気と、米の甘さ。

 それは、“生”の味。


 蓮次郎は、ただその光景を見つめていた。

 一匙の粥が、一つの命を呼び戻す奇跡。

 彼の掌から少女の身体へ、温もりが確かに伝わっていく。

 その温もりは、少女の身体だけでなく、凍てついていた蓮次郎自身の心をも、ゆっくりと溶かしていくようだった。


(……これだ)


 父の言葉が、いま血となり肉となって甦る。

 銭が粥に変わり、人を繋ぎ、命を温める。

 これこそが、本当の「富」だ。


 粥を食べ終えた少女は、安らかな寝息を立てた。

 蓮次郎は懐から天秤銭を一枚取り出し、その手に握らせた。

「銭は、命を奪う刃にもなる。だが、使いようによっては、命を繋ぐ匙にもなる。俺は――この国の銭のことわりを変えてみせる」

 彼は静かに微笑んだ。

「お前の名は、蓮だ。泥の中でも、清らかに咲く花の名だ」


***


 翌朝。

 蓮次郎は、蓮を寺の門前に抱いて立っていた。

 老僧が現れ、少女の手の天秤銭を見て、すべてを悟ったように言った。

「お主、その子のためにすべてを差し出したな。その銭は、お主の命そのものではないか」

「俺一人の命など、安いものです。この子が生きれば、それでいい」


 僧は微かに笑んだ。

「いや――お主は、一人を救って終える男ではあるまい」

 蓮次郎は答えず、ただ一礼して吹雪の中へ消えた。

 足跡はすぐに雪に埋もれたが、その胸の炎だけは、決して消えなかった。

 個の情が、理念へと変わる瞬間。

 それは、この国の「倫理の貨幣史」の、最初の一頁であった。

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