第1話:篝火と業火
第1話:篝火と業火
旅に出て、三年になる。
瀬戸内の穏やかな海を見下ろす丘の上で、私は薬草を煎じていた。夕暮れの光が、仲間たちの顔を柔らかく照らしている。潮の香りに、微かに薬草の苦い匂いが混じった。
「お蝶さん。さっき麓の村で会った塩商人、備後から来たと言っていたけれど、荷駄の轍の跡は妙に浅かった。きっと、この辺りで塩のほとんどを売り捌いた後ね。次の港町では、塩が値上がりするかもしれない」
「へぇ、相変わらず銭の匂いには鼻が利くこと。さすがは“銭神”の弟子ってわけだ。……で、その賢い頭で煎じた極上の薬湯は、まだなのかい?」
艶のある声でそう言ったのは、姉代わりのお蝶さん。豊満な身体を旅着に包んでもなお隠しきれない色香を放つ彼女は、元は堺の情報屋だ。その隣では、岩のように寡黙な用心棒の石動惣兵衛さんが、黙々と己の身の丈ほどもある槍を手入れしている。その静かな佇まいは、まるで鞘に収められた名刀のように、底知れぬ凄みを秘めていた。
私、蓮。齢十六。この尋常ならざる二人と、過去から逃れるように西へ向かう旅の身だ。
薬草をかき混ぜるたび、汗で湿った襟足が夕風に撫でられる。垢じみた旅着の下で、少女から大人へと変わりゆく身体が、じっとりと熱を持っていた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
私が差し出した椀を、お蝶さんは妖艶な笑みで受け取り、惣兵衛さんは無言のまま頷いた。
焚き火がぱちぱちと音を立て、穏やかな時間が流れていく。
懐に忍ばせた、師匠の形見の一枚銭をそっと握りしめる。
(師匠の夢を叶えるだけじゃない。あなたの死は、ただ時代の奔流に呑まれただけではなかったはず。豊臣の世の光が強くなるほど、その下にできる闇も深くなる……。必ず、真相を掴んでみせる)
不意に、惣兵衛さんが燃えさしを崩した。ぱちん、と一際大きな火の粉が舞い上がり、闇夜に吸い込まれて消える。
――その闇に浮かんだ、一瞬の赤い光。
途端に、私の喉がひゅっ、と鳴った。
潮の香りではない。煙と、肉の焼ける、あの匂い。
穏やかな焚き火の音が、遠ざかっていく。代わりに耳の奥で鳴り響くのは、人々の絶叫と、建物が崩れ落ちる轟音。
「…お嬢?」
惣兵衛さんの、地の底から響くような静かな声が、聞こえない。
だめだ。思い出しては、だめだ。前に、進むと決めたのに。
私の記憶は、意思に反して、あの炎の夜へと引きずり戻されていく。
三年前、堺であの地獄を見るまでは、夢に燃え、師匠の商売を手伝う日常が、私の全てだったのだ。
***
ごう、という轟音。
帳場の入口が、内側から吹き飛んだ。
武装した役人たちに混じり、どう見てもごろつきにしか見えない連中が、獣のような雄叫びを上げてなだれ込んでくる。
「命惜しさに魂を売るな! 帳簿を燃やせ! 全て灰にして、仲間を守れ!」
師、瓶田蓮次郎様の怒声が飛ぶ。彼は刀を抜き、迫る役人の一人を斬り伏せた。
炎と煙が渦巻く中、天井裏からしなやかに一体の影が舞い降りた。お蝶さんだった。彼女は『和市』に旧知の情報屋として出入りしていたが、その裏ではライバル商人に雇われ、この混乱に乗じて蓮次郎の「裏帳簿」を盗み出す密命も帯びていた。
「…あんた、本当に馬鹿な男だねぇ」お蝶さんは呆れたように蓮次郎に言った。「さあ、さっさと帳簿を渡して逃げればいいものを。あんた一人が死んで、何になるっていうのさ」
「…現実しか見ぬお前には、分からんだろうな」蓮次郎は答えた。「これは、俺の意地だ。銭で人を救おうとした…一人の商人の、最後の意地だよ」
その時、初めてお蝶さんの視線が、物陰に隠れる私を捉えた。
恐怖に震えながらも、師を案じて必死に叫ぶ、十三歳の少女の顔。
その瞬間、お蝶さんの脳裏に、かつて里で守れずに死なせてしまった妹分の最後の泣き顔が、鮮烈に蘇った。
直後、崩れ落ちてきた梁から、師が私を庇うように突き飛ばした。
燃えさしが師の背中に降り注ぐ。その、己の命を懸けて少女を守る姿に、お蝶さんの何かが、ぷつりと切れた。
「…ちっ、割に合わないね、全く!」
お蝶さんは悪態をつくと、懐剣を抜き放った。「こうなったらヤケクソさ! どいつもこいつもまとめて地獄に落ちな!」
彼女は、金で受けた命令を破り捨て、同じく裏帳簿を狙う「ごろつき」の一団に向かって舞うように斬りかかった!
その隙に、私たちは炎の中を駆けた。だが、巨大な炎上した柱が行く手を阻み、もうどこにも逃げ場はなくなった。
背後からは、役人たちがじりじりと包囲を狭めてくる。絶体絶命。
その時だった。
突如、背後の炎の中から、人のものとは思えぬ咆哮が轟いた。次の瞬間、役人たちの壁がまるで紙細工のように吹き飛び、血飛沫の雨の中を、背に槍を負った鬼神が姿を現した。
「――そこを、退けぇっ!!」
石動惣兵衛だった。彼は槍を振るうまでもなく、その岩のような拳で敵の顎を砕き、巨木のような腕で敵の首をへし折り、突進するだけで人の壁をこじ開けていく。それはもはや武術ではなく、天災だった。彼は、私たちへの道を、力ずくで切り拓いたのだ。
惣兵衛さんとお蝶さんが、師の隣に駆けつける。だが、師は力なくその場に膝をついた。
「瓶田殿!」
「…もう、遅い」
師は、血に濡れた自らの腹を押さえた着物を、ゆっくりと開いて見せた。そこには、素人目にも分かるほどの、深く、抉られたような致命傷があった。
「腹を…やられた。臓腑までいっている…。もう、長くはない」
「……申し訳ない」
惣兵衛さんは、拳を握りしめたまま、悔恨に顔を歪ませた。幾百の戦場を生き抜き、鬼神と恐れられた男が、初めて見せる弱さだった。
「間に合わなかった…!」
「いや…お前が来てくれたからこそ、間に合ったのだ」
師は、震える手で、まず惣兵衛さんの巨大な腕を掴んだ。その瞳は、もはや商人ではなく、友として、一人の男として、目の前の武人を見据えていた。
「石動殿…。お主の義の篤さ、この一年、そばで見てきた。お主が背負う業の深さも…お察しする。だからこそ、頼みたい」
蓮次郎は、言葉を区切りながら、最後の願いを絞り出す。
「…俺のようには、なるな。守りたいものを、守り抜け。…蓮を…あの子の未来を、頼む」
「……御意」
惣兵衛さんは、深く、深く頭を下げた。それは、主君への忠誠とは違う。友との魂の契約。己の残りの生涯を、この約束に捧げるという、血の誓いだった。
次に、師はお蝶さんへと視線を移した。彼女は唇を噛み締め、燃え盛る炎を睨みつけている。
「お蝶殿…。お前が何者で、ここに何をしに来たかなど、もうどうでもいい。だがな、お前の瞳の奥にある哀しみは、俺の知る誰よりも深い」
師は、お蝶さんの震える肩に、そっと血塗れの手を置いた。
「あの子は、まだ何も知らぬ。世の汚さも、人の醜さも…。どうか、お前が教えてやってくれ。この地獄のような世を、それでも笑って生き抜く術を。…あの子の、姉になってやってはくれまいか」
「……っ」
お蝶さんの肩が、大きく震えた。彼女の脳裏に、守れなかった妹分の最後の笑顔が蘇る。
「…ああ、もう! 分かったよ! 分かったから!」
お蝶さんは、溢れ出しそうになる涙を隠すように、顔を背けて悪態をついた。
「こんな馬鹿げた意地に付き合わされるなんて、最悪じゃないか! あんたのせいで、あたしの人生、めちゃくちゃだよ!」
それは、彼女が初めて見せた、素直な感情の爆発だった。金でも、仕事でもない。ただ、目の前の男の願いを、受け入れてしまった自分への、どうしようもない苛立ちと、温かい何かが混じった、魂の叫びだった。
師は、満足そうに、穏やかに笑った。
そして、傍らで嗚咽する私に、最後の力を振り絞って言った。
「行けと言っている!」
彼は、まだ傍を離れようとしない私を、脇にあった小さな窓から外へと突き飛ばした。燃え盛る商館の裏手、暗い路地へ。私は泥水の中に叩きつけられるように転がり落ち、薄い小袖が肌に張り付き、少女の華奢な肩の線が露わになる。
窓の向こう、炎の中に、師のシルエットが浮かび上がる。
彼は満足そうに頷くと、私の方へ向き直り、最後の力を振り絞って叫んだ。
「――俺の理想は、ここで燃え尽きる。だがな、銭の環は、決して絶えん…!」
次の瞬間、天井が、巨大な炎の塊となって崩落した。
ごおおおおおん、という地響きと共に、師の姿も、残った敵も、全てが業火と瓦礫の中に飲み込まれていった。
「…………」
声が、出なかった。
時間が、止まった。
やがて、私の喉から、人間のものではないような、引き攣った音が漏れた。
「―――いやあああああああああああああああああっ!!!!」
魂が引き裂かれるような絶叫だった。
その炎と瓦礫の中から、鬼神の如き形相の惣兵衛さんと、彼の腕に抱かれて守られたお蝶さんが飛び出してきた。二人は師匠との約束を果たすため、地獄の底から戻ってきたのだ。
「離して! 師匠が! 師匠があの中に!」
私は暴れた。だが、惣兵衛さんの腕の力は、友との最後の約束をその双肩に背負った男の、抗いようのない力だった。
私は惣兵衛さんに担がれたまま、遠ざかっていく炎の海を見つめることしかできなかった。隣では、お蝶さんが「…馬鹿な男さ」と呟き、その瞳に宿る炎を、決して忘れまいとするかのように、燃え盛る商館を睨みつけていた。
***
――薄れゆく蓮次郎の意識の最後に映ったのは、遠ざかっていく愛弟子の泣き顔と、彼女を支える二人の頼もしい仲間の姿だった。
(行け、蓮。お前は、一人じゃない…)
熱も、痛みも、もはやない。
ただ、懐かしい雪の匂いがした。
全てを焼き尽くす業火は、いつしか、全ての始まりとなったあの日の、静かな雪景色へと変わっていく。
そうだ。
あの時、俺は本気で信じていたのだ。
この掌にある一枚の銭で、世界は救えると。
一体どこで、何を間違えたのだろうか。
蓮次郎の意識は、その答えを探すように、遠い過去へと深く、深く沈んでいった。




