シュレディンガーには、もう質問しない。
暑い、暑すぎる。
蝉の声がする。
目を閉じていても、眩しい。
日が高い。
日が高い?
どうして?
どうして昼間なのに寝ているんだろう?
目を開けると、そこは公園だった。
住宅街の合間の静かな公園。
でかい文字盤の時計が13時を指している。
俺はベンチの上で寝ている。
ベンチに成人男性が寝ているからか、遊ぶ子供はいない。
上体を起こして、あたりを見回すと軽くめまいがした。
状況を確認しないと。
俺は午前中の仕事を終え、昼ご飯を食べに定食屋に向かった。
定食代800円は家計にとって痛手だが、飯を作る才能も元気もない。
牛丼だって最近高いし、つい割高の新商品を食べてしまうから、結局定食屋に行くのが1番いいんだ。
そんな事は、どうでもよくて、
どうして?
気を失っていたんだろう。
俺は公園のトイレに飛び込むと、鏡を見た。
俺だ。
だが、何か様子おかしくないか?
シャツに違和感がある。
こんなに暑いのに、シャツはサラサラだ。
汗はかいているのにベタベタしていない。
安いシャツなのに。
スーツのズボンも何かおかしい。
やたら動きやすいというか、ギッチギチで締め付けてくるあの圧迫感はどこへ?
ちょっと待て。
俺も何かおかしいな?
俺なんだけど、何かイケメンじゃない?
なんか、顔のパーツ整ってる気がする?
まれに、ものすごく写真うつり良い時があるけど、奇跡の1枚ってやつ?
あの状態。
…が、永遠と続いている。
どの角度を向けても、なんかイケメンだ。
顔のパーツ的には俺なんだけど、なんかいつもより整ってる気がする。
というか、今、何時だよ。
俺は、ポケットに手を突っ込む。
布をつかんだ。何も入っていない。
スマホなくした?
俺はごそごそとポケットをまさぐり続けた。
まずいって、スマホがないのは。
なくしたら大変だって。
誰とも連絡取れないし、探さないと。
カツン。
俺の爪の先がスマホを叩いた。
ポケットの中からスマホを取り出した。
は?
さっき、あれほど探したのに。
急にスマホがポケットの中に現れた。
なんで?
絶対おかしいって、
は?
このズボン、こんなにポケット深かったっけ?
そんなはずないだろ。
なんだこれ、おかしいって。
「ごめんなさい。入れ忘れました」
そうか入れ忘れたんなら仕方ないな。
は?
誰?
誰だよ。
「すいません、完璧に元に戻したと思ったんですけど」
誰だってお前は。
「地球外生命体です」
は?
地球外生命体?
「そうですね、あなたは、妖怪と怪異と宇宙人、どれが好きですか?」
宇宙人。
「じゃあ宇宙人です、私は。よろしくお願いします」
じゃあじゃないんだよな。
俺は会社に電話して
体調が悪いので、本日早退させてくださいと連絡した。
どうにもおかしい。
こいつが俺に何かしたのかもしれない。
話し合わなければ。
公園のトイレの片隅に真っ黒なモヤが漂っている。
強烈な不快感。
臭いものを見かければ、顔を背けるだろう。
あれに近い。
生理的な嫌悪感を植え付ける近寄ってはいけない存在。
違和感。
人間にもたまにいるよな、明らかにやばいやつ。
延々と1人で独り言を呟きながらぶち切れてたり、
明らかに関わってちゃいけない職業の人間。
そんな感じの威圧感。
「お体のお加減、いかがですか?」
それが丁寧に優しく話しかけてくる。
明らかに関わっちゃいけない職業の人が、丁寧に優しく話しかけてきたらどう思う?
いいやつなのかなって思っちゃうわけだ。
いや、大丈夫、心配してくれてありがとう。
俺はお礼を言ってしまった。
「よかったです」
声にはうれしそうな弾むトーンが感じられる。
人間味がある。視認できる容姿は黒いモヤだ。
だけど、この存在は声だけを聞いていれば、親しげな人間だ。
人間みたいだ。
どうして俺のスマホを、お前が持ってたんだ?
そしてなぜ、それを返した。
俺のポケットに黙って戻したんだ。
「持ってたんじゃないんですよ、今、あなたのスマートフォンを作ったんです」
なに?
「すいません、難しいですよね。丁寧に説明しますね。あなたのスマートフォンは破壊されてしまったので、私が作り直したんです。本当だったら、あなたが目を覚ます前に作り直して入れておけばよかったんですけど、忘れていました。私のミスです、ごめんなさい」
どうして俺のスマートフォンは壊れたんだよ。
「あなたがトラックに轢かれた時、一緒に壊れたんですよ」
なんだって?
「あなたはトラックに轢かれたんです、即死でした。だから私はあなたを作り直したんです。元の姿に」
俺はトラックに轢かれたのか?
「そうですよ、でも覚えていないでしょう、痛くもないでしょう。あなたの頭にはトラックに轢かれたときの記憶は存在しない。なぜなら、私がトラックに轢かれる前のあなたを復元したからです」
… …。
思ったより、やばいことになってしまった。
普通なら笑い飛ばすだろう。
何を馬鹿なことをと、信じないだろう。
でも辻褄が合うんだよな。
俺の抱えている違和感と。
俺の悩みだったニキビも、油っこい肌質もなくなっている。
顔が微妙に整っている。
変な位置のほくろも、ささくれだった指先もきれいになっている。
服装もそうだ。
安物を身にまとっていたはずなのに、やたら着心地が良い。
「お加減いかがですか?」
黒いモヤが俺を気遣う。
大丈夫、大丈夫だよ。
そう口には出すものの、
一度死んで甦った。
ショックだ。
この場合、俺は俺と呼べるのだろうか?
俺は人間なんだろうか?
本物の俺は死んでしまった。
俺は2番目だ。
俺は0歳だ。
俺は元の名前を名乗っていいのだろうか?
俺は25歳、有瀬知博、会社員。
そう名乗っていいのだろうか?
「お加減すぐれないようですが」
黒いモヤが再び俺を気遣う。
まぁ、全く問題ない!大丈夫!と言うわけではないが、
お前には全く責任は無いから。
むしろ助けてくれたんだろう、ありがとう。
「お力になれて、よかったです」
まぁ、俺が死んで甦ったとして
それで世界の何が変わるのかと言えば
何も変わらないのだ。
こいつには、とんでもない力があるみたいだが、
こいつは、人間に友好的だ。
放っておいても問題ないだろう。
もし問題があったとて、
俺に何ができる?
何もできないのだ。
「どこへ行くんですか?」
フラフラとトイレを後にした俺は質問に答えた。
会社。
それから、俺の日常の何が変わったかと言えば
何も変わらないのだった。
成績の悪い俺を雇ってくれた会社のために一生懸命働く。
一生懸命働いてクタクタになって家に帰る。
その繰り返し。
その繰り返しを脱却したくて、仕事中は、あれこれと考えるのだ。
今日は家に帰ったら勉強しよう。
家に帰ったら、部屋をきれいにしよう。
料理をして美味しく食べよう。
動画を制作して、SNSにアップロードしよう。
長く連絡を取っていなかった、あの人に連絡しよう。
その全てが家に帰ると吹き飛んでしまう。
疲れて家に帰ると上着だけ脱いで、ベッドに倒れ込む。
そのままSNSをタップ。
短い文章やショート動画を目で追う。
それだけで、6時間が経過。
慌てて胃に何か詰め込み、着替えて歯を磨いて寝る。
それだけ。
何にもできないんだ、毎日。
何かをやろうとしても、それに手をつける気力がないんだ。
帰宅。
今日も、俺はいつものように…。
「おかえりなさい」
ただいま?
なんでいるんだよ。
それはあの、黒いモヤだった。
俺がトラックに轢かれたとき、
俺をゼロから復元したと語った、あの黒いモヤだ。
そういや、礼を言ってなかったっけ?
言ったっけ?
そもそも、礼を言うだけじゃ済まないんじゃないか?
金を払わなくてはいけない?
いいや、こいつは、とんでもない力を持った宇宙人だ。
金なんかいらないだろう。
こんな安月給の人間の財布なんていらないだろう。
じゃあなんだろう?
命か?
命を取りに来たのか?
「お加減いかがですか?」
黒いモヤが俺に尋ねる。
あぁ調子いいよ。
あの後、同僚がさ、なんか有瀬、顔きれいじゃない?って言って
あっ、有瀬って俺の名前なんだけど。
「知ってますよ」
ふーん?
じゃあ、その、とにかくさ、顔きれいじゃないって言われたんだよ。
化粧品とか使い始めたのって、何使ってるのって聞かれたんだよね。
だから調子いいよ。
俺が言い淀んでいたら、そいつ、すぐに俺に興味を失ったけどね。
俺、もともと、他人とあんまり話せないから
それも全然普通。
問題ないよ。
「そうですか」
うん。
黒いモヤと、俺の間に気まずい沈黙が流れる。
こいつ何しに来たんだろう?
そんなことを聞きに来たのか?
俺の命いらないのかな?
やっぱり返してって言われるのかな?
作ってやったんだから、奪うのも自由だって言われるのかな?
嫌だなぁ。
生きるのは面倒だけど、死にたいわけじゃないんだ。
俺の人生にも、まだ輝ける余地があるって信じてるんだ。
まだ輝く瞬間があるはずなんだ。
まだあの漫画の最終回読んでないんだ。
読もう読もうと思って後回しにしていたんだ。
今からすぐ読むから、
見逃してくれないか。
「あの」
黒いモヤが口火を切った。
くち、無いけど。
「お腹空いてませんか?」
?
空いてるけど。
「じゃあご飯をどうぞ」
一瞬で、汚いテーブルが片付けられ
美味しそうな定食が並んだ。
鮭焼いたやつ、
味噌汁
ご飯
小さい豆腐
豆とひじき煮たやつ
デザートのアイス
俺が定食屋で好んで頼むメニューだ。
あぁ、ありがとう。
俺はテーブルの前に座ると、箸を手に取った。
温かい炊き立ての米の香りがする。
茶碗を手に取って、味噌汁をすする。
おいしい。
鮭をひと切れ、箸でつまんで口に入れる。
おいしい。
たまらず、白飯をかきこむ。
おいしい。
俺は美味しく定食を食べ終えて、空の食器の前に座っていた。
ごちそうさま
「いい食べっぷりでしたね」
黒いモヤからは嬉しそうな声がする。
何かあれだな、
ご飯を出してくれるの、嬉しいんだけどさ。
もっと何か?
実体?
もっとこう、生き物っぽい?
外見をしてもらえると助かるんだけど。
「それは気がつきませんでした、申し訳ありません」
黒いモヤから声が響くと、目の前に黒猫が現れた。
「猫です。よろしくお願いします」
愛くるしい黒猫が可愛らしい声で言う。
「猫は、お嫌いですか?」
俺の反応が芳しくなかったからだろうか、黒猫は不安そうだ。
いや、好きだよ、猫。
かわいいな。
その姿すごくいい。
黒猫は、にっこりと、本当ににっこりと笑った。
笑う猫の写真を見たことがあるけど、あれはとても良かった。
目の前で
自分の言葉で
猫が笑顔になる
それはこんなにも、心が温まるのか。
黒猫は、そっと俺に近づくと、俺の足に体を擦りつけた。
「にゃん」
甘えた声でゴロゴロ言う。
かわいいじゃないか。
俺は黒猫の喉を撫でた。
柔らかな暖かい毛皮。
柔軟な体。
とても良い。
とても幸せだなぁ。
他の生き物の体温を感じたのは久しぶりだな。
パソコンの操作を教わっているときに、
マウスを触ろうとして、うっかり手を触ったことがあったな
あれ以来かな
あれ何年前だっけ?
俺は、黒猫と遊んだ。
好きなだけ撫でた。
気がつくと、もう寝る時間だ。
「寝るんですか?」
俺が眠そうに目を擦ったのに気がついたのだろう
黒猫は俺に尋ねる。
そうだよ、寝るよ。
今日はありがとう、ご飯をご馳走になって
たくさん触らせてくれて楽しかった。
その前に、この黒猫には
命を助けられているが。
正確には助けられたというか、
俺は一度死んだらしいが。
今の日常がこのまま続くのであれば、それは些細なことだった。
この黒猫と
お別れするのが寂しく感じた。
今日と言う日を糧に明日から頑張るか。
休みの日は寝ているだけで、特に何もしないから
本当に思い出らしい思い出がない。
今日のこの思い出を超えるものは今後現れるんだろうか。
「おやすみなさい」
黒猫は、就寝を宣言すると、そのまま部屋の隅っこで丸くなった。
俺の部屋で寝るのか?
「いけませんか?どこで眠ったらいいですか?」
同じ、布団で寝ようか?
「いいんですか?うれしいです」
黒猫は、トテトテと布団に歩み寄るとコロンと寝転んだ。
猫だけに。
そして、目をつむった。
「おやすみなさい、明日は何をしましょうか?」
それから俺と黒猫はいろんなことを話した。
やりたいことがあること
食べたいものがあること
行きたいところがあること
黒猫は、うんうんと聞いてくれた。
「全部やりましょう」
黒猫は勉強に付き合ってくれた。
勉強がはかどるように、参考書を調べてくれて
俺に合ったものを見つけてくれた。
勉強の合間に食べるための軽食を作ってくれて
俺のそばで俺の勉強を見守った。
部屋をきれいにしたいと言えば
「わかりました」
黒猫が一声にゃんと鳴くと、部屋は一瞬で片付いた。
食べたいものがあると言えば、
「わかりました」
きれいに片付いた、テーブルの上に俺の好物が並んでいた。
動画を制作するための勉強は終わった。
俺はSNSに動画をアップロードした。
「どれくらいの再生数がいいですか?」
黒猫は俺に尋ねる。
ありがとう、黒猫に頼めば再生数を上げる位、簡単なんだろうな
でも俺は、自分の力を試したいんだ。
「わかりました」
動画は、いつまで眺めていても、一向に再生されず
業を煮やした俺は何回もクリックしてしまった。
俺が再生した、再生数5回だけが虚しくカウントされている。
「1億回ぐらい再生しましょうか?」
黒猫が俺を覗き込む。
ありがとう、いいんだよ。
これが俺の実力なんだ。
これが俺のはじまりなんだよ。
ここからどれくらい頑張れるか、試してみたいんだ。
次の動画を制作した。
それもやはり、全く再生されなかったけど
その次の動画を作っているうちに、再生されていた。
再生回数が1増えているのを確認して、
俺と黒猫は喜びあった。
次の動画、その次の動画。
再生数が10桁いくようになった。
はじめて評価された。
誰かが俺の動画を面白いと言ってくれた。
それは初めての経験だった。
誰かに面と向かって面白いと言われたことなんてない。
俺と喋るやつは、いつだって退屈そうだった。
俺も面白い奴になれたんだ。
うれしかった。
それから俺と黒猫は頑張った。
再生数が100桁いくようになって
初めてコメントをもらった
コメント返信、どうしようかって黒猫と会議をした。
考えに考えた返信を入力している間に
またコメントがついた。
うれしかった。
よくコメントをくれる人も動画を作っていて
その人とよくやりとりするようになった。
誘われて通話もした。
何日の何時に、通話しようねって言ってくれた。
他人と約束するなんて、何年ぶりだろう。
とても楽しかった。
それからは、とても忙しくて
ただただ楽しかった。
いつしか、俺の動画はバズり
動画はコメントで溢れ
それに、片っ端から返信してるうちに
友達ができた。
マーケット?と言う都会での集まりに行った。
初めて飲み会と言うものをやった。
初めて家族以外とカラオケに行った。
忙しい毎日の中で
ふと思い出すことがある。
俺、一度死んでるんだよな。
俺の相棒のシュレディンガーは
猫じゃなくて、宇宙人なんだよな。
「お体の具合はどうですか?」
俺が1人の時だけ話しかけてくる
黒猫のシュレディンガー。
俺は答えた、
大丈夫だよ、いつもありがとう。
俺は一度、死んだ。
シュレディンガーは、宇宙人だ。
しかしそれを確認するすべは無いのだ。
確認する必要もない。
俺は毎日楽しくて
シュレディンガーは隣にいてくれる。
それでいいじゃないか。
シュレディンガーの猫の実験では
蓋を開けるまで猫が死んでいるか生きているかはわからない。
俺が蓋を開けるまで
俺は一度死んだとも言えるし、死んでないとも言える。
シュレディンガーは、宇宙人だとも言えるし、そうでないとも言える。
俺は蓋を開けないことに決めた。
俺はシュレディンガーに、俺が死んだ日のことを聞かなかった。
俺はシュレディンガーに、お前は何者だと聞かなかった。
シュレディンガーは俺の相棒の可愛い黒猫で
シュレディンガーのおかげで俺は毎日が楽しいんだ。