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極道天使  作者: natsuki
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喰う者、喰われる者②

 五章


 午前3時。坂本は枕元に置いた目覚まし時計のベルが鳴るより前に瞼を開いた。隣に寝ているハルナの安らかな横顔を見て微笑み、そっと布団から起き上がる。そして、スタンドの明かりだけの薄暗い部屋で、できるだけ音を立てないように着替え始めた。

 日本ランキング10位に入っているプロボクサーとは言え、ファイトマネーだけで食べてはいけない。そこで生活費を稼ぐため、24時間営業の弁当屋で明け方から午後まで働いていた。嫌がる者の多いこの時間帯を志願したのは、他の時間帯より時給がいいからだった。

 プロボクサーがボクシングだけで生活できるのは、防衛を重ねた日本チャンピオンぐらいから。大多数のボクサーは食べていくための副業を持っている。毎日血の滲むような練習をして、試合が近づけば食べたいものも食べられず、晴れの舞台では殴り倒されることもある。それでこの収入なのだ。プロスポーツの中でボクシングほど割に合わない競技はない。

 しかし、それでも坂本や多くの若者がボクシングにのめり込んでいくのは、勝った時の爽快感と、そこから広がる輝かしい未来を夢見ることができるからだ。

 部屋を出る直前、坂本は台所に置いてある、ラップに包まれたおにぎりを見た。昨夜、意味不明の言葉をつぶやき続けるハルナを何とかなだめ、寝かしつけた後で作った彼女の朝食だ。作っている途中でたまらなく惨めな気持ちになり、涙がこぼれそうになった。

 ―もうすぐ施設に入れてやる。だから、それまで何とか薬は我慢してくれ・・・・・―

 坂本は眠っているハルナに振り向いて、声に出さずに「行ってきます」と語りかけて部屋を出た。

 坂本が出勤して10分後、寝ていたはずのハルナは薄っすらと目を開けた。しばらくじっとして、周囲に人の気配がないことを確かめて布団から起き上がった。そして、明かりをつけて外出の用意を始めた。化粧をするため向かい合った鏡の中の自分が、なぜだか一瞬、坂本の顔に見えた。ハルナは目を潤ませた。鏡に向かってつぶやく。

「・・・・コウジ、ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・・あたしだってやめたいの。でも、何度そう思ってもやめられない・・・・本当にごめんなさい・・・・」

 支度を終えたハルナは立ち上がって部屋の明かりを消し、玄関で派手な柄のハイヒールを履いた。その時、台所に置いてある坂本が作ったおにぎりが目の端に映る。ハルナは、おにぎりを見ることができなかった。


 夜明けにはまだ幾分の時を残す時間帯の新宿・歌舞伎町は、真っ当な人間の姿がほとんど消え、家出少女と彼女たちを食い物にする、怪しげな連中ぐらいしかいない危ない街と化していた。

 時折、パトロールの警察官が通るものの、その時は悪党たちも危険を察知して物陰に隠れる。そして、警察官が通り過ぎると再び夜の街を我が物顔で跋扈していた。

 家出少女たちが寄り付かない奥の路地に、1台の目立たないセダンが停まっていた。中にいるのはチンピラ風の男が1人。運転席から道行くロクでなしたちをじっと見ている。

 チンピラは向こうから歩いてくる女に目を留めた。女が近づいてくるのを待つ。そして、車の横に来ると半分ほど窓ガラスを開けた。

「よお。あの時は“これで最後”とか言ってたけど、結局、また来たんだ」

 男は新宿を拠点にする稲吉会系暴力団、城島組の息がかかった覚醒剤の売人だった。城島組は坂本が以前所属していた組で、この男は一休が地獄に送った坂本の昔の仲間の後任にあたる。近くに寄ったハルナの顔は夜の街の明かりに青白く照らされていた。唇がかすかに震えている。窓ガラスの縁をつかんだ。

「・・・・お願い。ちょうだい・・・・」

 チンピラは勿体つけてタバコを口にくわえた。

「金はあるのか? それとも、また“あれ”で金作るのか? やるんなら少し待ち時間が必要だぜ。なんせ、お前でもクレームを言わない客を捕まえなきゃならないからな」

 窓ガラスの縁を持つハルナの指に力が入る。

「・・・・お客とるよ。金はホテルを出たらすぐ払う。玄関前で待っててもいい。でも、薬は今欲しいの。今日はなんだか、すごく気分が悪くて・・・・」

 チンピラはハルナの顔にタバコの煙を吹きかけた。ハルナは咳き込む。

「バーカ。金のねえ奴にやれるか。稼いでから来い。そしたら売ってやる」

 そして、蔑みの目で言った。

「吉原の人気ソープ嬢並みに稼げるツラしてんのに、今じゃヤク漬けでお客も逃げちまってよ。お客だって、脱いだら骸骨みてえな体してる上に妙な体臭のするシャブ中なんか、抱きたくねえだろうしな。人生真っ逆さまの見本だ。人間、ここまで落ちたくないね」

 だが、ハルナはあきらめない。ガラス窓をつかんで食い下がった。

「お願い。後で必ず払うから」

 突然、ハルナは後ろから羽交い絞めにされた。首を後ろに捻じ曲げると、そこには仕事に行ったはずの坂本の顔があった。目を潤ませて唇をかみ締めている。ハルナを車から引き剥がし、坂本は驚愕の表情を浮かべるハルナを抱きしめながら、その場に屈み込んだ。車のチンピラに向かって言う。

「こいつは買わない。向こうへ行ってくれ」

 チンピラは坂本に向かって吸いかけのタバコを弾き飛ばした。

「何だおめえ、このシャブ中の男か? もしかしてシャブやめさせようとしてるわけ? 泣かせるねえ」

 そして、粘っこい声で凄む。

「ここは俺の商売の場所だ。どくんだったらお前らの方だろうが。買わねえのならシャブ中連れて、さっさと消えやがれ」

 男は1年前から城島組に出入りするようになったチンピラで、数年前にやめた坂本の顔は知らなかった。完全に堅気をいたぶるヤクザの顔になっている。

 その時だった。横から出てきた人影がいきなりチンピラの髪をつかんだ。太い腕でハンドルに何度か顔を叩きつける。鼻血を噴き出したチンピラは鼻声で叫んだ。

「何しやがる! ただじゃおかねえぞ!」

 大道寺はつかんだ髪に力を込め、チンピラの顔をグイと目の前に引き寄せた。絡みつくような嫌悪感のある声を出す。

「ただじゃおかなきゃどうするんだ? あっ?」

 そう言うと、半開きになった窓ガラスに力任せにチンピラの顔を激突させた。グシャリと嫌な音が聞こえる。鼻の骨が折れたようだ。鼻から下が真っ赤になったチンピラの髪を離し、大道寺はにらみつけた。

「今日のお前の商売は終わりだ。消えろ」

 威圧感たっぷりの大道寺の目にチンピラは自分との明らかな格の違いを感じて、鼻を押さえたまま慌てて車を出した。一連の出来事を夜の街の住人たちは近くで見ていたはずだが、関わり合いになることを恐れて人通りは完全になくなっていた。

 大道寺はハルナを抱いたまま、地面に座り込んでいる坂本の前に屈む。ハルナはチンピラの車を追おうとでもするように、懸命に両手を伸ばしていた。チンピラが去るということは、覚醒剤が遠ざかることを意味する。薬が手に入らない絶望感で、精神的に混乱しかけているようだ。

 いきなり大道寺はハルナの頬に強烈な平手打ちを見舞った。そして、ぐったりとした彼女を抱える坂本に言う。

「早く病院に連れて行け。のんびりしてる時間はねえぞ」

 そこに、今まで姿の見えなかった一休も現れた。

「わしが付き添って行こう。ハルナは見とくから、早うタクシーを捕まえてこい」

 だが、坂本は頑なな表情で首を横に振る。

「病院はいいです。このままアパートに連れて帰ります。しばらく抱きしめてたら、そのうち眠るから」

「バカ野郎!」

 大道寺の一喝は夜の街に響いた。もはや、首を出して何事か覗こうとする者もいない。坂本の目を大道寺は脅すように覗き込んだ。

「この女はもう、そんな段階じゃない。今にも泡吹いて暴れ狂った挙句、廃人になっちまうかもしれねえんだ。それがわからないのか!?」

「でも、病院に行ったら警察に通報されちまう・・・・」

 大道寺は大きく息を吐いた。そして突然、今度は坂本の頬に平手打ちを食らわした。ボクシングで殴られることに慣れているはずの顔面が、一瞬、横を向いた。

「お前も元は極道だろ。まだ、この仕掛けに気づかねえのか? お前をこんなひでえ目に遭わせてるのは、お前が恩義を感じてる城島組の若頭や組長なんだぞ」

 坂本はハッと顔を上げる。

「あの人たちは関係ねえ。売人が誰に薬を売ってるのかまで、オヤジやカシラは関わっちゃいねえんだ」

 屈みこんだ大道寺は、下から見上げるように坂本をにらんだ。

「お前はアホか。極道が組を抜ける時、何のお咎めもナシなんてことがあると本気で思ってるのか? 極道なんて群れていないと生きちゃいけない。そのために組がある。自分の都合で抜ける奴を温かく送り出すなんて、絶対にねえ。恐怖のタガが外れたら、組はあっという間に消えちまうからだ。それなのに、お前は何のケジメもつけずにやめられた。なぜだかわかるか? お前の代わりに、この女が食いものになってくれたからだよ」

 坂本は訳がわからないというように大道寺と、殴られて腕の中で朦朧としているハルナを交互に見た。隣で一休が悲しそうな顔をしている。

「城島組の若頭、安西は前からお前の女に目をつけていた。見た目の良いこの女に体を売らせれば、さぞかし、いいシノギになるだろうってな。そこにお前の“引退話”だ。安西はお前に内緒で女に話を持ちかけた。自分の言うことを聞いて体を売れば、お前の指は飛ばさないとな。プロボクサーになろうって奴にとって、小指がないのは致命的なハンデだ。握力が極端に落ちて強いパンチが打てなくなる。安西は女にそう言ったんだ」

 ハルナを見る大道寺は少しだけ優しい目になった。

「こいつは悩んだだろうな。悩んだ末に、大切な男の夢を体を張って守る決心をした。そして、お前に知られないように客をとった。安西は女が簡単に逃げないよう薬で縛り付け、もともと薬に弱かったこの女は、本格的に泥沼にはまってしまった。これが、今、こうなるまでのいきさつさ」

 坂本の肩はかすかに震えていた。ハルナを抱く腕に力が入る。

「・・・・嘘だ・・・・カシラがそんなことするはずねえ。盃を返した今でも、何かと目をかけてくれてるのに・・・・」

 今度は一休が口を開く。

「じゃあ、何でハルナは覚醒剤を買う金を持ってたんや? 覚醒剤は安うないで」

「それは・・・・まだここまで悪くなる前、こいつはコンビニでバイトしてたから。その時の金でしょう・・・・」

 坂本の声に力はなかった。一休は残念そうな顔で首を振る。

「バイトの給料で、中毒になるまでの覚醒剤を買うことはできんやろ」

 大道寺は一休に“何を言っても無駄だ”と言うように、小さく首を振った。そして、懐から折りたたんだ紙を出す。広げて坂本の目の前にかざした。

「ちょいと昔のツテを頼って、この女の携帯の通話記録を調べた。頻繁にかかってきてる番号は安西の弟分で、高級デリヘルをやってる鶴田って男のものだ。鶴田のことは知ってるな? 女専門のシノギをやってる野郎だ」

 鶴田は坂本もよく知っている。借金で首の回らなくなった女をソープに沈めたり、不幸な境遇の女を言葉巧みに騙して客をとらせているクズだ。坂本は嫌いだが安西はかわいがっている。

 大道寺は紙の上にずらりと並んだ通話日時を指差した。

「この電話の回数だけ、女は体を売ってシャブ食ってたんだ。これだけやれば、もう錯乱状態になるのは時間の問題だぞ」

 坂本は紙に並んでいる電話番号と日付を何度も見た。見ているうちに体が震え、目から涙が溢れてくる。そして、しゃくりあげるとハルナを抱きしめて号泣した。

「悪かった・・・・俺のせいだ・・・・俺が仁義通してエンコ飛ばしてりゃ、お前がこうなることはなかったんだ。許してくれ・・・・」

 一休はやりきれないといった表情で、坂本の肩に手をかける。大道寺は吐き捨てるように言った。

「仁義なんか関係ねえな。お前のエンコなんか犬の餌にもなりゃしない。極道は金になることが大好きなんだよ。金のためなら、お前には物分りのいい優しい親分ヅラしといて、裏で女を地獄に落とす。それが極道だ。堅気が長くてもう忘れたか? 極道ってえのは、とことん汚えんだよ」

 しばらくハルナの胸に顔をうずめて嗚咽を漏らしていた坂本は、ようやく涙まみれの顔を上げた。目には怒りの炎が燃えたぎっていた。傍らにいた一休の腕にハルナを抱かせると、ゆっくり立ち上がった。

「・・・・安西の野郎をぶっ殺す・・・・俺たちの苦しさを思い知らせてやる・・・・」

 そして、一歩踏み出そうとした。しかし、その前に大道寺が立ちふさがる。

「お前はもう堅気だ。極道みてえな落とし前のつけ方はやめるんだ」

 だが、坂本の憤怒の表情は変わらなかった。

「どけ。あんたには関係ねえ」

 言い終わると坂本は拳を固め、いつでも大道寺に殴りかかれる前傾姿勢になった。大道寺は隙を見せないまま唇を歪めた。

「今のお前は堅気なんだ。病院に行って警察を呼んでもらい、すべてを話せ。それが堅気の落とし前のつけ方だ。どうしてもお前が極道のやり方を忘れられないんなら・・・・」

「忘れられないんなら・・・・・?」

 そうつぶやくと、坂本は挑むような目で大道寺を見る。前傾姿勢なので攻撃的な目で見上げる形になった。しかし、大道寺はニヤリと笑った。

「俺も汚ねえ手を使うさ。プロボクシングを統括してるのは、日本ボクシングコミッションだ。そこに匿名の電話をする。坂本コウジは暴力団と付き合いがあって、覚醒剤の密売にも関わっているってな。ついでに、その女の髪を2、3本抜いて送ってやるよ。あんなところにはドーピング検査の専門家がいるはずだ。覚醒剤なんてすぐわかる。そうなりゃ警察に捕まって、お前はボクサーとしても人間としてもおしまいになる」

「うるせえ! そんなことは、もう、どうでもいい! 安西をこのまま生かしちゃおけねえんだ!」

 坂本は大道寺に突進すると強烈な左フックを放った。だが、攻撃を予期していた大道寺は紙一重でかわす。そして、ステップインして右足を蹴り出した。それを避けるため、坂本はステップアウトして距離をとった。

 大道寺は自分から間合いを詰め、恐ろしい目で坂本をにらみつけた。

「『どうでもいい』とはどういうことだ? 女はボクサーとして成功するお前の姿を夢見て、自分の命を削ってたんだぞ。そんな気持ちを放り投げて、『どうでもいい』とはどういうことだ。言ってみろ!」

 坂本は思わず言葉に詰まった。心の動揺はファイティングポーズにも現れていた。拳から徐々に力が抜けていく。それを見て大道寺は冷たく言い放つ。

「自分じゃ一生懸命やってたつもりだろうが、俺に言わせりゃ、お前はただの腰抜けだ。今、起きてることはお前の弱さが招いたんだ。安西は本物の極道だ。お前の弱さを見抜き、骨までしゃぶろうとしている。お前のバカさ加減にはあきれるぜ。エンコ飛ばす決意も見せず、惚れた女がシャブ漬けにされてるのに、そうさせた張本人にシッポ振っていやがる。俺だったら自分の女にシャブ売りつけるような奴は、とうの昔にミンチにしてるよ」

 そして、重く、低い声を出した。

「そろそろ、てめえのやったことにケジメつけろや」

 大道寺の言葉は坂本の胸に突き刺さった。瞳が大きく揺れたかと思うと、全身の力がガックリと抜け、そのまま地面に座り込んだ。先ほどの悔し涙とは違う種類の涙がポロポロと流れ出す。

「あんたの言う通りだ。俺が腰抜けだからこうなった・・・・組をやめても俺は安西が怖かった。かわいがってもらってるフリしながら、ホントは安西のご機嫌とってただけだ。ハルナにヤクを売るなと言いたくても、怖くて言えなかった。だから、『エンコを許してくれた恩人だ』なんて、言わない理由を自分で勝手に作って・・・でも、何のことはねえ。俺の指を守っていたのはハルナじゃねえか・・・・ちくしょう! 俺は最低のクソ野郎だ!」

 うつむいた坂本の目から落ちた涙は、次第に路上に小さな水溜りを作っていった。坂本は切れるほど唇をきつく噛み締めて、何度も自分の膝を叩いた。

 一休はその横に屈み、まだ意識のはっきりしないハルナの顔を坂本に見せた。虚ろな瞳に向かって坂本は拝むように頭を下げ、涙を流しながらハルナを受け取り、痩せこけた体を抱いて声を噛み殺して泣いた。

 声にならない坂本の嗚咽は、夜の街に悲しく溶けていった。一休は坂本の背中をいたわるようにさする。

「コウジ、人間とは弱い生き物や。お釈迦様はその弱さを補うため、“素直”という気持ちを教えてくれはった。素直な気持ちで自分の弱さを見つめれば、たとえ時間はかかっても明るい道が見えてくる。ハルナを病院に連れて行って警察にすべてを話そう。それが、今のお前にできるケジメやろ?」

 涙を拭い、坂本は一休の言葉にうなずいた。ハルナを抱いたまま立ち上がる彼に、大道寺は自信ありげな声をかける。その目は不敵に光っていた。

「病院に着いたら、新宿署の槙原って刑事を呼んでもらえ。極道をゴキブリみてえに嫌っていやがるデカだ。嫌な野郎だが信用はできる。そいつと取引きするんだ。安西を確実に逮捕できるネタを提供するから、代わりに女の罪はできる限り軽くしろとな」

 坂本は涙に濡れた目を見開いた。

「デカと取引き? 俺にだって警察の動き方は多少わかる。ハルナの話だけじゃ、安西はまず任意の取調べだ。確実に逮捕できるネタじゃねえ」

 自分の言うことを否定する坂本に、大道寺は凄みのある笑みを見せた。

「ネタはある。夜が明けたら槙原たちに安西の自宅を家宅捜索させろ。すると、車の中からチャカが見つかる。昨日の朝、旭誠会系の組長宅で発砲事件があったが、それに使われたものだ。安西は警察だけでなく、稲吉会と旭誠会の両方に申し開きをしなくちゃならない。稲吉会は旭誠会と再び戦争状態になるのを避けるため、安西を始末することもあり得る話さ。あいつは死に物狂いで、2つの組織と警察を相手にしなくちゃならねえんだよ」

 そして、一休の方を見た。

「極道を懲らしめるには、警察と極道の同時攻撃が一番効く」

 坂本は会話の内容が、よくわからないといった顔をしている。

「大道さん、あんた、一体何者なんだ・・・・・?」

 面倒臭そうに首を振った。

「つまんねえ元極道さ。とにかく、お前は安西をバラすに等しいネタを持ってるんだよ。堅気のやり方で、奴を地獄まで追い詰めてやればいい。わかったな」

 戸惑いながらも坂本は頭を下げた。一休が坂本の肩を叩く。

「もう行こう。病院はすぐそこや」

 坂本は改めてハルナを大切そうに抱き、彼女の額に自分の頬を当てた。そして、まだ目の焦点が合わないハルナに語りかける。

「今度こそだ。今度こそ、一緒に明るい道を歩いていこうな・・・・」

 一休は目に薄っすら涙をためた泣き笑いのような表情になり、タクシーの流れている通りに向かって坂本の背中を押した。



 東京・水道橋の後楽園ホールにある選手控室。試合直前の室内は、ピリピリした緊張感が漂っていた。

 当初、ボクシング関係者から無謀なマッチメイクだと批判された試合だったが、坂本を取材したスポーツ新聞の記者たちは、練習から勝利へのすさまじい執念を感じ取り、徐々に彼らの評価は『闘志溢れる伏兵』と変わり始めた。

 チャンピオンの圧倒的優位は動かないものの、今では奇跡の大逆転をささやく者もいる。

 大道寺と一休が試合直前の控室に入った時、坂本は入念なウォーミングアップを終えてすでに入場用のガウンを羽織り、控室の隅で静かに椅子に座っていた。鍛えられた両の拳にはグローブがつけられている。一休はスタッフの間をすり抜け、真剣な眼差しで坂本の前に立った。

「どや、調子は?」

 坂本は一休の顔を見ると、硬いながらも自信ありげな笑みを浮かべた。

「万全です。プロボクサーになった奴なら、誰でもチャンピオンベルトを狙うもんだけど、この世界はベルトが欲しくても、挑戦さえできない者の方が多い。俺、自分のことを幸運だと思ってるんです。きっかけはともかく、とりあえず挑戦までは来ることができたんだから。せっかくのチャンスなんだ、絶対にモノにします」

 一休は穏やかな顔でうなずいた。

「ところで、ハルナは良うなっているようやな」

 ハルナの名前が出ると、坂本は少し安らかな顔になった。

「はい。ゆっくりだけど回復に向かってます。来月には裁判が始まるけど、弁護士さんは起訴状の内容なら、執行猶予が付くだろうって言ってました。新宿署の槙原さんの調書が効いたみたいで。本当に宗純さんと大道さんには、お世話になりっぱなしだ」

 一休の後ろに立った大道寺は、控室の緊張感を楽しんでいるような表情をしている。

「そんなことは気にするな。安西は今、拘置所だ。稲吉会と旭誠会には何とか言い分を通せたようだが、一時にせよ本家同士がにらみ合った。城島の組長は監督不行き届きを厳しく問われて、稲吉の本家預かりになったようだぜ。安西は2つの組織への申し開きで余裕のないところを警察から締め上げられて、覚醒剤や管理売春だけでなく、余罪を山ほど引きずり出された。ナガムショは間違いねえ。もう、お前らを苦しめる奴らは消えたんだ」

 そして、ニヤリと笑った。

「安心して試合に集中しろ」

 大道寺に返すように、坂本は不敵な笑みを浮かべた。

「俺、スピードとテクニックじゃチャンピオンに敵わないけど、パンチ力だけは自分の方が上だと思ってるんです。ハルナが守ってくれた小指のおかげでね」

 その時、控室のドアをノックする音が聞こえ、開いたドアから後楽園ホールの係員が緊張した顔を出した。

「時間です! 入場お願いします!」

 坂本は引き締まった顔になり、椅子から立ち上がった。その瞬間、全身から青白い炎が立ちのぼったように見えた。


 坂本が入場時間を調整している間に大道寺と一休は会場内をすり抜け、与えられた招待席に座った。一休は真っ直ぐに、まだ誰もいないリングを見る。

「コウジは勝てるかのぉ。あいつとハルナの笑顔が見たいが」

 だが、大道寺は素っ気なかった。

「勝てるかよ。漫画じゃねえんだ。チャンピオンの力を冷静に考えれば、坂本は良くて判定負け。下手すりゃ病院送りってところだろう」

 一休はムッとした顔になる。

「お前、近頃“ええ奴”になってきたかと思うたが、やっぱり性根の曲がったヤクザやの。ちょっとは他人の幸せな未来に声援を送ったれや」

「はいはい。俺は閻魔大王が『もういい』と言うまで、悪から砂上の楼閣を守る“砂盛り”ですからね」

 舌打ちしながら、ふて腐れた大道寺を見ていた一休は、良いことを思いついたように膝を叩いた。

「そや。今までずっと延期になってた慰労会、コウジが勝ったら祝勝会を兼ねて今夜やろか。祝勝会兼用なら、銀座でも吉原でも、どこでも連れてったるわ」

 突然、大道寺の目が光った。慌てて席を立とうとする。一休は服の裾を引っ張って何とか再び椅子に座らせた。

「どこに行く。もうすぐ試合が始まろうちゅうのに」

「だからだよ」

 そして、間もなくチャンピオンが通過するはずのリングまで続く花道を見た。

「もうすぐあそこをチャンピオンが通る。その時、足を引っ掛けて転ばせてやるのさ。うまくやれば捻挫させられるかもしれねえ。そしたら坂本にも勝ち目がでてくる」

「バカもんが!」

 一休の一喝に隣の席の男が何事かとこちらを向いた。一休は「すんまへん」と詫びている。男が渋い顔でリングに視線を戻すと、一休は大道寺をにらみつけた。

「そんな性根やから、お前は死ぬこともできへんのや。コウジにさんざんヤクザは汚いと言うておきながら、お前も充分汚いやんけ」

「俺は極道だ。俺には自分が汚い人間だという自覚がある」

 あきれたように一休は額に手を当てた。

「お前はもう旭誠会三代目やない。閻魔様の使者なんやで。そこんとこわかってるか?」

「俺はあんたが妙な術を使うから、仕方なく言うことを聞いてるだけだ。心まで入れ替えるつもりはない」

「その言い草はなんや! ここでもういっぺん、術かけたろか!?」

 つい大声になってしまった一休に周囲の客から非難の目が飛んだ。一休は慌てて客たちに頭を下げる。そこで急に場内が暗くなり、いつの間にかリングに上がっていたリングアナウンサーが張りのある声を上げる。

「ただ今より、日本スーパーフェザー級タイトルマッチを行います! 赤コーナーより、チャンピオン、中沢智樹選手の入場です!」

 テーマ曲とともにチャンピオンの入場が始まった。チャンピオンへの声援が飛び交う中、大道寺はよく通る迫力満点の声で叫んだ。

「おいチャンピオン! 頼むから負けてくれ! あんたの負けに、俺の“極楽”がかかってるんだ!」

「ほんまに、お前は俗物やなぁ」

 一休は呆れ顔になっていた。


今回の投稿をもって、作品を完結させていただきます。

この作品は『小説家になろう』には向かないと思いながらも、今後の創作活動の勉強のために実験的に投稿してみたものです。

皆さまからいただいた反応次第で再開も視野に入れておりましたが、自分で設定したラインに届かず、完結することとしました。

ともかく、ここまで読んでいただいた方には、心より御礼申し上げます。

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