いくつになっても、わからない奴はわからない
三章
大道寺と一休はちょうど昼過ぎ、大田区内のとある公園にいた。一休が急に「空港を見回ろう」と言い出したため、羽田に行った帰り道だった。
空港にはいろんな人間が集まり、当然、その中には悪人もいる。大道寺はまた一休に厄介なことを命じられるのではないかと全然乗り気ではなかったが、とりあえず羽田では何も起きなかった。
蒲田の繁華街から少し離れたこの公園は、きれいに整備されていた。穏やかな日差しが降り注ぐ中、いくつか設置されているベンチで、近隣にある工場の従業員たちが弁当を食べたり新聞や雑誌を読んだりと、のんびり昼休みを過ごしていた。
公園の一番隅のベンチに腰を下ろしている大道寺と一休も、他の人々と同じように昼食をとっている。
大道寺は渋谷にいた時と同じ服装だが、一休はTシャツと短パンが大道寺に「若いモンの服を拾ったホームレス」と言われたことに気分を害し、薄汚い法衣に戻っている。心地よい風が吹き、ボロボロの法衣を揺らす。
不満たっぷりの顔で、大道寺は安っぽいビニール袋に入ったアンパンをかじりながら、責めるような目で一休を見た。
「よう、一休さん。あんた閻魔大王から、ちゃんと活動資金もらってるんだろ? ケチったってしょうがねえ。たまには楽しく使おうや。いつもサウナやネットカフェに寝泊りして、メシと言ってもアンパンやおにぎりばっかりじゃ気が滅入っちまう。今夜はどこかに繰り出して、うまいものでも食いながら、今後の活動計画を練ろうじゃねーの」
だが、一休は大道寺の言葉が聞こえていないようなそぶりで、うまそうにアンパンを頬張っていた。本当に満足そうな顔を見ていると大道寺は腹が立った。にらみつけるが一休は微笑む。
「アンパンというのは日本人が発明したモンの中で、間違いなく最高の部類に入るな。わしはアンパンが食えるだけでも贅沢やと思うわ。わしの生まれた時代には、こんなうまいモン、いくら金があっても食えんかった」
「けっ。室町時代と比べられちゃ困るんだよ。俺は昭和、平成、令和を生きてきたんだ。第一、78歳の体ならともかく、今の俺は20代なんだぜ。たまにはうまいメシと酒、それに女を楽しまなきゃ心が腐っちまう」
一休はアンパンの最後の一片を飲み込むと、ベンチに置いていたパックの牛乳をつかみ、喉を鳴らせて飲んだ。口髭についた牛乳を手の甲で拭い取る。
「そこまで言うなら、そのうち慰労会を考えてやってもええ。ただし、わしは息抜きにはまだ早いと思うけどな」
「息抜きじゃねえ。健康な体と心を守るための必要な措置だ」
吐き捨てるように言った。そのとき、公園の入り口付近を何気なく眺めていた一休の視線が、けたたましい音とともに起きたある出来事に止まった。
キキッー!
公園の入り口前にある、信号のない横断歩道を渡ろうとしていた老婆が、脇道から横断歩道に突っ込んできたワゴン車に轢かれそうになったのだ。老婆はとっさに尻餅をつき危うく難を逃れたが、その拍子に腰を打ったようだ。座り込んだまま動けない。
ワゴン車はかなりのスピードを出しており、どう見ても車の方が悪かった。しかし、気の荒そうな男性運転手は窓から身を乗り出すと大声で怒鳴った。
「ババア! もたもたしてっと轢き殺すぞ!」
ガラの悪い運転手に眉をひそめた一休は、男から目をそらさないまま大道寺にあごをしゃくる。
「ありゃ車が悪い。わしが運転手に注意したるから、お前はその間にお婆さんを起こしてやれ」
そして、返事も待たずに立ち上がりスタスタ歩き出した。大道寺は不機嫌そうな顔で一休の後を追う。
「何だよ、大事な慰労会の相談をしてるときによぉ・・・・」
横断歩道の端に来ると、一休は真っ直ぐ運転手に向かおうとした。だが、老婆は腰を押さえながら無理に立ち上がろうとしたため、再び転びそうになる。一休は慌ててよろけた体を支えた。後ろの大道寺に向かって声をかける。
「わしゃお婆さんの様子を見る。注意はお前がせえ」
「けっ、クソ坊主め。最初から俺に言わせるつもりだったんだろ」
ますます機嫌の悪くなった大道寺は、まだ窓から身を乗り出している運転手をにらみつけながら近づいた。運転手もケンカっ早い男らしく車から降りてくる。間近に迫った大道寺に向かって凄んだ。
「何だ、てめえは。俺に文句でもあんのか? あっ?」
目をむいている男を面倒臭そうに見ると大道寺は軽く首を振り、いきなり男の股間を蹴り上げた。にらみつけていた男の目が、今度は飛び出しそうになる。腰を折ろうとする男の髪をつかんで顔を上げさせ、間髪入れずに2、3発の張り手を食らわせた。公園で休憩していた他の者たちは、白昼、突然始まった暴力に唖然としていた。
大道寺は鼻血を流している男に、怒りを押し殺した声で言った。
「アホウめ。今のは、てめえが悪いんだよ。あの婆さんに謝りな。さっさとやらねえと、今度はタマ蹴り潰すぞ」
殺気立った大道寺の目に恐れをなした男は、鼻血で不明瞭になった言葉を出す。
「・・・・しゅいましぇん。ほれが悪かったでしゅ・・・・」
手を離すと男は這うようにして車に駆け戻り、急発進でその場を逃げ出した。その様子を見ながら、大道寺は一休の傍らに座り込む。
「これでいいだろ。もう、面倒なことはご免だぜ」
一休は大道寺の言葉を一向に気にしていない。
「お婆さんは腰を打って、よう立てんそうじゃ。お前、お婆さんをおぶって家まで送ってやれ」
「慰労会の話ししてたのに、何でこうなるんだよ」
抗議の声を上げるが、大道寺の目と老婆の懇願する目とが合ってしまった。その申し訳なさそうにすがる目に逆らうことができず、大道寺は渋々老婆を背負い、彼女の指示する方向へ歩き出す。
公園にいた者たちは凄惨な場面を見なくて済んだ安堵と、その光景が見られなかったという少しだけ残念な気持ちを胸にしまって、昼休みのひと時に戻った。
老婆を背負ってしばらく歩いていると、老婆は少し先にある茶色いマンションを指差した。
「家はあれです。ご親切に、どうもありがとうございました。もう大丈夫ですから・・・・・」
大きくはないが、瀟洒なマンションだった。大道寺はかすかに期待を込めた声で言う。
「婆さん、まさか、あんたあれのオーナーなんて言うじゃねえだろうな。家に着いたら美人の孫娘が出てきて、謝礼金を渡しながら「お礼に夕食でもいかがですか」って言ったりしてよ」
「いえ。私は1室を借りてる1人暮らしの年金生活者です。死んだ夫が少しばかりお金を残してくれたんで、住む所ぐらいは良いところにしようと思って」
並んで歩いていた一休が大笑いする。
「相変わらずアホやのう。何を夢みたいなことぬかしとる」
大道寺はムッとしながらマンションの玄関に入った。入る間際、背後で大きなエンジン音が聞こえた。
ブォーン! ブォーン! ブォーン!
振り返ろうとする大道寺に背中の老婆が言った。
「オートバイが好きな人が近くに住んでるらしくて、よく大きな音が聞こえるんです。少しぐらいならいいんですけど、夜中までやってる時もありましてねえ」
「夜中にあれをやられたら、たまりまへんなあ」
気の毒そうに言う一休を無視して、大道寺はエレベーターホールに進んだ。
―つまんねえことに首突っ込むんじゃねえぞ、このお節介坊主・・・・―
トラブルのかすかな匂いを感じた大道寺は、一休の思いつきが心配になった。
老婆をマンションの5階にある自宅まで送り届けた2人は、老婆が差し出す謝礼を丁重に断り、5階のエレベーターホールで、1階に降りていたエレベーターが上がってくるのを待っていた。大道寺は不機嫌な顔でブツブツ文句を言っている。
「人の好意は素直に受けるもんだ。向こうが受け取ってくれって言ってんだぞ。ありがたくもらってこそ、お互いに気持ちがいいってもんじゃねえか」
「金をもらうためにやったわけやない。小さいことにこだわるな。お前、案外、器の小さな奴っちゃなあ」
さらりとかわす一休に大道寺が反論しようとした時、待っていたエレベーターの扉が開いた。タイミングを外した大道寺は開きかけた口を恨みがましく閉じる。
エレベーターから出てきたのは、陰気な目をした若い男だった。片手にコンビニの袋をぶら下げている。中には弁当とペットボトルの飲み物が入っているようだった。
彼は目の前にいる大道寺と一休に視線も合わせず、2人の間をすり抜けていった。男とすれ違うとき、わずかに大道寺の目が細くなった。
エレベーターに乗り込んだ一休は鼻をひくひくと動かし始める。
「ほんのりとやけど、何や妙な臭いせんか? ペンキというか接着剤というか・・・・」
だが、大道寺は無関心そうに言った。
「そうか? 俺は何も感じねえな。あんたの鼻、鼻クソでも詰まって、おかしくなってんじゃねえの?」
何を思ったのか、急に一休は大道寺の顔をじっと見た。疑い深そうな顔をしているのに黙っているのが不気味だ。
「何だよ、何か文句あんのかよ」
しかし、それに応えない。眉間に次第にしわが寄ってきた。エレベーターが1階につくと一休は先に降り、広いエレベーターホールでくるりと振り向いた。眉間には先ほどより、もっと深いしわが刻まれている。
「お前が嘘をついたり隠し事をしたりしても、わしにはお見通しなんやで。何を感じた。早う言うてみい」
エレベーターから降りた大道寺は不服そうにポケットに両手を突っ込んだ。一休から視線をそらすが、そらした方向に一休も動く。再びそらすが、一休はまたもや動いて大道寺の目の前に立つ。
何度かそうやっているうちにバカバカしくなって、大道寺は恨めし気に一休を見た。
「・・・・あの臭いはトルエンっていうシンナーの一種だ。本来は塗料の溶解剤として使うんだが、吸うとぶっ飛べるから、昔はあれを欲しがるガキが大勢いたもんよ。俺も卸で結構稼がせてもらった。でも、今はいろんな薬が簡単に手に入るから、もうシンナーなんかやるガキはいない。たぶん、さっきの小僧はペンキでも塗ってたんだろうよ」
だが、一休の疑惑の目は変わらない。
「お前、ほんまにあの坊やがペンキ塗りしてたと思うとるんか?」
「俺が知るかよ・・・・あんたこそ、何でペンキじゃないと思うんだ・・・・?」
一休の目は、大道寺の弁解がましい言葉を咎めるようだった。
アキトはコンビニで買ってきた照り焼きチキン弁当をリビングで食べながら、液体の配合比率に間違いがないか、頭の中でおさらいしていた。午前中のうちに輸入品のオレンジジュースの瓶で、ガソリンとトルエンの調合は済ませた。
最初はガソリンだけにするつもりだったが、インターネットにトルエンを混ぜると、燃焼温度がジェット燃料並みの高温になると書いてあったので、ネットで配合の比率を調べて混ぜてみた。
ガソリンもトルエンも手に入れるのは簡単だったが、意外と苦労したのがイメージ通りの大きさのガラス瓶だ。近頃の飲み物はほとんどがペットボトルに入っていて、大型の瓶を探し出すのに少し時間がかかった。でも、この計画には粉々に割れるガラス瓶がどうしても必要だから、ある程度の苦労はしょうがない。
後は灯油を染み込ませた布を蓋代わりに瓶の口に詰めて、夜が来るのを待つだけだ。ガラス瓶には自分の指紋が付いているかもしれないけど、トルエンを混ぜた特製火炎瓶なら、高温の炎でガラスも燃やし尽くしてくれるだろう。
今日こんな作業が自宅でできたのは、駅の裏でスナックを経営している母が常連客にゴルフに誘われて、朝から出かけているためだ。母はゴルフが終わったらそのまま客を連れて店に出るから、夜中まで帰らない。
ガソリンとトルエンを混ぜるときは強烈な臭いがした。もし母が家にいたら、知られずにこんなことをするのは不可能だったはずだ。母の店の客はみんな嫌いだが、今日だけは感謝したい気分だった。
そもそも、火炎瓶作りなどをすることになったのは、自分に無理な道を押し付けた母と、近所に住むあのゴミ野郎のせいだとアキトは思っている。
本当は彼は高校を卒業したらデザインの専門学校に行きたかった。幼い頃に母と離婚した父は、そこそこ名の通ったグラフィックデザイナーだったらしいから、これは血なのだ。でも、母はアキトの希望を無視して有名大学の受験を押し付けた。
おかげで自分の成績では無謀といえる挑戦をやらされて、今年でもう2浪目だ。来年こそ合格しなければならない。母の期待に応えるというよりも、これ以上の浪人は自分のプライドが許さない。
それなのに、近所のゴミ野郎が、うるさい音を立てやがる。もう40代ぐらいに見えるのに、いい歳して『旧車會』とかいうオヤジ暴走族を作って、週末の夜走り回るため、平日は古いポンコツバイクを夜中まで整備している。その音のうるさいことといったら。あれじゃ勉強なんかできやしない。
あんな奴、どうせまともな生き方なんか、してやしない街のゴミだ。ゴミは掃除してやる。特製火炎瓶で完全に燃やしてやろう。雑音がなくなれば、来年は合格できるはずだ。
アキトはゴミ野郎に火炎瓶を投げたら、あいつはどんな燃え方をするのだろうかと想像して、胸がワクワクしてきた。
時計の針がそろそろ深夜に指しかかろうとする頃。アキトは予備校に行くときに使っているリュックに特製火炎瓶を忍ばせて、持ち主の倒産で閉鎖されている4階建ての古いビルの階段を昇っていた。
鍵がかかっているから建物の中には入れないが、外に露出したコンクリート製の非常階段は昇ることができる。ここは4階まで上がると、ちょうどゴミ野郎の家が見下ろせるのだ。ゴミ野郎は質素な木造平屋の借家に住んでいる。ジェット燃料並みに燃焼温度を高めた特製火炎瓶ならば、あんなボロ屋など、あっという間に灰にできるだろう。
高鳴る胸を押さえて、アキトはリュックから火炎瓶を取り出した。ラップで巻いていた火種用の灯油を染み込ませた布をむき出しにすると、ポケットの中のライターを握り締めた。
『旧車會』のリーダー、宇川は玄関の比較的広い土間で、オイルまみれの両手をタオルで拭いながら、30年来の相棒であるシゲと顔を見合わせた。どちらからともなく2人の顔に笑みが広がる。宇川は愛車のカワサキZ400FXを見ながら自慢げに言った。
「これで取り付けは完璧。明日から街中に“本物”のFXの音を聞かせてやるぜ。近頃の若いモンは族に興味も示さねえ腰抜けだらけだが、“本物”を見れば奴らにもちったあ気合いが入るだろう」
シゲは下駄箱の上に置いてあったタバコを1本抜き取り、100円ライターで火をつけた。
「消音材は全部抜いたから直管だ。4発のいい音が出るぜ。少しエンジンかけといた方がいい。適当にマフラー焼いといた方が音の出がいいからな」
「そうだな」
宇川はもう1度きれいに手を拭うと愛車にまたがり、エンジンキーに指をかけた。顔は興奮でうっすらと紅潮している。その顔を見てシゲは笑った。
「あんたも好きだねえ。もう四捨五入すりゃ50ってえのに。それにしても、この辺の連中は気の毒だ。あんたや俺みたいなのが、夜中だろうが明け方だろうが、お構いなしで騒音を撒き散らしてるんだからさ」
「気にすんな。この辺りの住民は優しいんだ。俺が何をやろうと、1度も注意されたことがねえ。もっとも、注意されても聞かねえけどな」
そして、嬉々とした顔でエンジンキーを回した。
アキトの眼下の家から、突如、凄まじい爆音が轟いた。
クォーン! クォーン! クォーン!
―また始まった! なんてうるさい音なんだ。すぐに黙らせてやる!―
指がライターの発火石にかかった。その時だった。階下の暗がりから声が聞こえてくる。アキトは飛び上がりそうなくらい驚いた。
「どや。わしの予感は当たったやろ。やっぱり悪いことするとこやった。見張っといてよかったわ」
「偉そうな言い方するんじゃねえ。俺がトルエンに気づいたからじゃねえか」
階段を上がってきたのは目つきの鋭い大柄な男と、ボロボロの法衣を着た小柄な僧侶だった。4階はこのビルの最上階だ。アキトの背後には開かない扉と壁しかない。彼に逃げ場はなかった。
完全に暗がりから姿を現した大道寺はアキトをにらみつけ、ヤクザ特有の、人に威圧感と嫌悪感を与える巻き舌で言った。
「小僧、なに持ってんだ? それをどうするつもりだ? あっ?」
大道寺は大股で瞬く間に距離を詰めて、アキトの手から火炎瓶を奪い取った。しげしげと眺めている隙に、アキトは2人の間をすり抜けて逃げようとした。しかし、いきなり飛んできた大きな手で背後の壁に突き飛ばされる。その間にも宇川の家からはバイクの爆音が聞こえていた。
大道寺は火炎瓶を一休に手渡して、爆音に負けないよう声を張り上げた。
「これは火炎瓶だな? しかも、ガソリンにトルエンを混ぜて威力を爆弾並みに上げてる。これで何をしようとしてた?」
一休が一歩前に出た。こちらも声を張り上げる。
「心配せんでもええ。わしらは警察でも下のうるさい奴の仲間でもない。正義の味方や。悪いようにはせんから、正直に話せ」
壁に突き飛ばされた時、アキトは恐怖の表情を浮かべていた。しかし、一休が『警察でも下のうるさい奴の仲間でもない』と言った途端、急に反抗的な目になる。自分を捕まえる権限もない、何の関係もない奴に卑屈になる必要はないと思ったからだ。
座り込んでうつむくと、アキトは口を固く閉ざした。一休が言葉をかけても一切返事をしない。完全に黙秘を決め込んだ。
―こいつら一体何なんだ。急に現れて僕の計画を邪魔しやがって。いい加減にしないと、ただじゃ済まさないぞ・・・・―
そんな心の中をあからさまに表しているアキトの顔を見て、大道寺は見る見るうちに怒りの表情に変わっていく。吐き捨てるように一休に言った。
「よお、こいつはダメだぜ。反省なんかしやしねえよ。悪から救うどころか、完全に壊れてやがる」
そして、アキトを見下ろした。
「おおかた、ゲームやネットのやり過ぎで、リアルとバーチャルの世界の区別がつかなくなったんだろうよ。火炎瓶だって、ネットで作り方を見たってところだ。これを投げたらどんな地獄が広がるか、知りもしないくせに」
黙ったまま顔を背けるアキトに、一休は少し悲しそうな顔になった。
「しかし、それでも何とかせなあかん。このまま放っとく訳にはいかん」
大道寺はアキトをにらみつけた。その鋭い目が光った。一休が持っていた火炎瓶を取り上げて、アキトを見下ろしながら冷たく言う。
「お前みてえな野郎は、自分がうまくやれないのを何でもかんでも人のせいにする。気に入らねえことがあると、親が悪い、学校が悪い、下のバイク野郎が悪いってな。違うね。全部お前が悪いんだ。お前がクソみてえな性根しか持ってねえからさ。それを誤魔化すために、ゲームやネットに逃げ込んでるだけだ」
言いながら大道寺は火炎瓶の栓になっている、灯油を染み込ませた布をねじり始めた。
「お前のバカさ加減はどんどん加速して、そのうち『ムシャクシャしたから』なんて訳のわからねえ理由で、繁華街で人を刺しまくるだろうよ。そんなクズはこの世にいらねえ。今のうちに消えちまえ」
そこまで言うと大道寺は瓶の栓を抜いた。そして、
バシャバシャバシャッ!
なんと足元に座り込んでいるアキトの頭から、中の液体をぶちまけた。瞬時に引火性の極めて強い、咳き込むほどの刺激臭が広がる。
大道寺は手で鼻と口を覆った。
「そのまんま家に帰れ。お前は知らねえだろうが、街には火花や火の粉が溢れてるんだ。いろんな所に溜まって放電を待ってる静電気、車やバイクが撒き散らすスパーク、送電線から滲み出るごくわずかな漏電・・・・その中を歩いて帰るんだ。普通ならその程度の火花や火の粉じゃ何も起きないが、今のお前ならあっという間に引火する。一瞬で火だるまさ。自信作の威力を身をもって試してみるんだな」
そして、背中を向けるとさっさと非常階段を降り始めた。降り際に、低い、感情のない声をかけた。
「てめえのやったことにケジメつけろや」
一休はアキトに何か言いたげな顔を見せたが、結局、何も言わずに大道寺の後を追った。
頭からガソリンとトルエンの混合液をかぶったアキトは1人残された。
気化ガスが陽炎のように立ちのぼり、呼吸するたびに強烈な刺激臭が鼻や喉を突き刺す。吸い込んだガスのために体に痺れを感じながら、アキトはインターネットを見て面白半分で作った火炎瓶が、世にも恐ろしい殺戮兵器だったことを初めて実感した。たまらない恐怖が胸を突き破りそうだった。
「ま、待ってくれ! 助けてくれ! 置いていかないでくれーっ!」
喉が張り裂けんばかりに絶叫した。しかし、
クォーン! クォーン! クォーン!
相変わらず下から響いてくる宇川のバイクの爆音が、アキトの悲鳴をかき消す。気化ガスと絶望とで涙が出てきた。
「お願いです! 助けてください! 誰か助けてください! もうしませんからっ!」
フォン! フォン! フォン!
今にも自分の体が燃え出してしまうのではないかという恐怖心のため、アキトはほとんど錯乱状態になっていた。だが、助けを求める声は爆音のために誰にも聞こえなかった。
深夜過ぎ。大道寺と一休は街灯に照らされた、誰もいないドブ川沿いの道を歩いていた。一休は不安げに後ろを振り返る。
「・・・・なあ、街の火花や火の粉、ほんまにあいつの体に燃え移らんやろな・・・・?」
大道寺は面白くもないといった顔になった。
「心配ねえよ。あの話がもし本当なら、空港やガソリンスタンドは毎日火の海になってら。だが、ああいった奴らは普段、直接自分に関係のある話以外はまったく興味を持たない。自分に災難が降りかかった時に聞けば、それが嘘だろうとホントだろうと勝手に信じて怯えるもんさ。まあ、バーチャルでない、本当の死の恐怖を味わえば、命のありがたみが少しはわかるんじゃねえか?」
そして不満げな声を出した。
「俺は生活指導の先生じゃないんだ。悪ガキのお仕置きは、もういい加減にしてくれ」
一休は安心した顔になり、大きなあくびをした。急に眠そうな目になる。
「子供相手はたまたまや。お前の仕事は少年少女専門やないで。その証拠に、まだやることが残ってるやんか」
「残ってる?」
「あのオヤジ暴走族や。あんな住宅街で夜中にバイクの爆音立てられたら、近所の人は大迷惑じゃ。あれかて許せん。やめさせなあかん」
そう言って再びあくびをした。大道寺はその仕草に腹が立ってきた。
「てめえ、俺だけに仕事させやがって。自分は眠っちまいそうな顔してるじゃねえか。坊主のクセに小ずるい野郎だ」
一休は腹をボリボリ掻いた。
「勘違いすんな。仕事するんはお前じゃ。わしはお前がサボらんように見張る監視役だと最初に言うたやんけ。だいたいわしは、あんまり夜更かしせんのじゃ。お前と一緒におると夜中の行動が多い。眠うなってもしょうがない」
「クソ坊主めっ」
苦々しく言って大道寺は夜空を見上げた。空には満天の星が輝いていた。一つひとつが絶妙のタイミングで瞬き、目を奪われるほどの美しさだった。
自分の苛立ちを無視するような星たちの美しさに、大道寺はさらに腹が立ってきた。星を見ていた目が、急に何かを思いついたように光る。
「そうだ。あのオヤジ暴走族に近所迷惑をやめさせるから、たまには俺にも安らぎを与えてくれ。明日の夜は慰労会にしようや。赤坂にうまい寿司屋がある。そこで食ったら次は銀座のクラブだ。クラブで盛り上がったあとは吉原のソープ。これで手を打とう」
一休は苦笑いする。
「赤坂? 銀座? 吉原? いきなり吹っかけるのぉ」
大道寺はうれしそうな、少し切なそうな顔になった。
「体が若返って元気になったら、下の方もうずいてきやがる。俺はこれでも若い男なんだ。たまには抜いとかないと、心と体のバランスが壊れる。わかってくれよ。な、頼む」
「そうは言うても、わしは慰労会をしてやると約束した覚えはないで。だいたい、閻魔様から預かってる軍資金は、お前が思うてるほど豊富やない。まあ、お前の働き次第で考えんでもないが、今の段階ではせいぜい、その辺の居酒屋とピンサロっちゅうとこかの」
「冗談じゃねえ。大道寺剛三が、そんなケチくさい遊びできるか」
しかし、一休は跳ねつけた。
「アホ。銀座やら吉原やら、そんなバカ高いとこ行けるか。文句があんのなら明日のメシもアンパンや」
最初は強気だった大道寺だが、一休の譲らない態度に迷い始めた。これ以上抵抗を続けると、居酒屋やピンサロすら行けないかもしれない。渋々だが大道寺はとうとう折れた。
「・・・・わかった。それでもいい・・・・その代わり、ちゃんと仕事したら連れて行けよ。こっちは溜まってんだ」
一休は満足げにニヤリと笑ってうなずく。大道寺は苦々しい表情で腕を組んで、しばらく考え込むようにうつむいた。そして、不機嫌な表情で顔を上げる。
「オヤジ暴走族のいい退治法が浮かんだ。一休さん、今からちょっと俺んちまで行って、チャカ持って来てくれや。仏壇の引き出しの奥に入ってるからよ」
「今からか?」
「今からだ。面倒なことは早く片付けてしまいてえ」
今度は一休が不満げな顔になったが、不承不承うなずく。
「ところで、チャカとはなんやねん?」
大道寺はじれったそうな顔になる。
「拳銃だよ。俺と付き合うなら、いいかげんに極道専門用語覚えてくれって言ってるじゃねえか」
眠気が吹き飛んだように一休は目を丸くした。
「拳銃!? まさかお前、オヤジ暴走族を殺して仕事を終わらせようとしとるんじゃ・・・・」
「殺しみてえな面倒くせえことするか。花火代わりに使うのさ。チャカは殺しより嫌がらせに使うもんだ」
それでも一休は疑い深そうな顔だった。
「ほんまやな。絶対、誰も傷つけたらあかんぞ。もしやったら、慰労会の代わりに術かけたるからな。今度は肝臓やったる。肝臓は足にくるで」
大道寺はあの苦しさを思い出し一瞬ひるんだ顔になる。上目づかいにひとにらみすると、不信そうな面持ちの一休を尻目に、ドブ川沿いの薄暗い道をさっさと歩き始めた。
明け方。宇川は新品のマフラーに取り替えた愛車を見ているうちに、自宅でエンジンを吹かすだけでは飽き足りなくなって、シゲを誘って試運転に出かけていた。音の方は絶好調だった。これなら『旧車會』の集会に行って大いに自慢できる。
試運転を終えてシゲと別れた宇川は、タバコが切れかけていることに気づいた。自宅近くのコンビニで買うため、コンビニの駐車場にバイクを乗り入れた。その時だった。店の陰から見知らぬ男が上半身だけを出し、宇川のバイクに石を投げてきた。
カンッ
子供の拳ほどの大きさの石はバイクのタンクに当たり、真っ赤な塗装が少し剥げた。
「てめえ、何しやがる!」
愛車を傷つけられた宇川は逆上し、バイクを停めるとコンビニの陰に隠れた男を追いかけた。建物の陰に飛び込んだ途端、宇川の首筋に角材が振り下ろされた。宇川は前のめりに倒れて、そのまま意識を失った。
完全に夜が明け、雲ひとつない青空からは暖かな日差しが降り注いでいた。暑くもなく寒くもない、さわやかな朝だ。
大田区内にある旭誠会の下部組織、松枝組の組長宅では、住み込みのチンピラ、トオルが鉄製の物々しい門扉の脇に設けられた小さな通用口から出てくるところだった。1回大きく背伸びして、手に持ったホウキで丁寧に玄関前の掃除を始める。
玄関前の道は子供たちの通学路になっているから、子供たちが登校を始める前に掃除を終わらせて、姿を見せないようにしなければならない。ヤクザといえども近頃は住民運動で立ち退きを迫られないよう、近所に気を使っている。
突如、トオルの背後からすさまじい爆音が聞こえた。慌てて振り向くと、路地からセパレートハンドルに集合マフラー、クッションを抜いた薄いシートという、昔の暴走族が乗っていたスタイルのバイクが飛び出してくる。運転しているのは、革ジャンにジーンズ姿のガッチリした男だった。顔はフルフェイスヘルメットのために見えない。
バイクはトオルの近くで止まった。トオルは目をむいて凄んだ。
「うるせえぞ、この野郎! ここをどこだと思ってんだ!!」
しかし、男はいきり立つトオルを無視して、革ジャンの懐に手を差し入れる。その手が抜かれた時、トオルは腰が抜けるほど驚いた。男の手にはロシア製の自動拳銃、トカレフが握られていた。男は銃口を鉄の門扉ではなく木製の通用口に向け、ためらうことなく4回引き金を絞った。
パンパンパンパンッ!
銃弾は4発とも、通用口に深々と食い込んだ。男はトカレフを再び懐に入れて、ニュートラルの状態でバイクのアクセルを全開にした。
クォーン! フォンフォンフォン! クォーン! フォンフォンフォン!
充分に音を響かせてギアを叩き込み、バイクは矢のように走り去った。後には爆音の反響と濃いオイルの臭い、そして、門の前に座り込んで震えているトオルだけが残った。
海沿いのひと気のない倉庫街に着き、大道寺はバイクのエンジンを切って無人の倉庫の扉を開ける。中には猿轡をかませられ、下着姿で縛り上げられた宇川が転がっていた。宇川は体を縛っているロープを懸命に解こうとしていたが、大道寺の姿を見ると硬直する。
だが、大道寺は宇川を一瞥しただけで緩んだロープを気にすることもなく、今まで着ていた宇川の服を脱いで、自分が着ていた服に素早く着替えた。
そして、硬直したままの宇川に近づいて猿轡を外してやり、ベルトに挟んだトカレフを引き抜いた。宇川の顔が引きつる。大道寺は何の表情も浮かべていなかった。
「ついさっき、この近くにある旭誠会系の組の組長宅で発砲事件があった。これはそれに使われたチャカだ。犯人は4発撃って逃走。音の大きな暴走族風の単車に乗った男で、服装は革ジャンにジーンズだった。目撃者もいる。これはお前の犯行だ」
宇川は驚きのあまり目が飛び出しそうになった。
「じょ、冗談じゃねえ! 俺は何もやっちゃいねえ!」
大道寺は薄笑いを浮かべながら、宇川の頬をトカレフの銃口でなでた。鋼鉄の冷たい感触は、宇川の全身を粟立たせた。
「そうだな。警察に捕まれば一時は留置所に入っても、すぐに釈放されるだろう。だが、先に極道に捕まったらどうなる? 奴らは今、お前のことを血眼で捜してるぞ」
平然としている大道寺とは対照的に、宇川の顔は硬直していた。
「極道はお前の人権なんか完全無視だ。捕まったら拷問にかけられて、バックが誰なのかをしゃべるまで生き地獄が続く。指から爪が何枚か剥がされた頃、お前は苦痛と恐怖に耐え切れなくなって、やってもいねえ“自白”を始めるだろうよ。後は生きたまんま山に埋められるか、コンクリート抱かされて海に沈められるか」
宇川は顔面蒼白になっていた。体が小刻みに震えている。大道寺はトカレフをベルトに差し込んだ。
「俺がお前なら、あんな目立つ単車はさっさと処分して、誰にもわからねえ場所に当分身を隠すね。それしか生き延びる道はねえ」
大道寺は冷たい目で宇川を見つめると、鼻で笑って倉庫から立ち去った。1人になった宇川は、死に物狂いでロープを解き始めた。
昼少し前。大道寺は羽田空港を見回った帰りに休憩した公園で、待機していた一休と合流した。一休はベンチに腰を下ろし、のんびりと新聞を読んでいる。大道寺に気づき顔を上げた。
「どや、終わったか? 誰も傷つけんかったやろな?」
大道寺は一休の隣に腰を下ろす。
「心配すんな。ちょっと昔の子分に迷惑かけちまったけど、松枝は最近モメ事を抱えてる訳じゃねえし、所轄の署長に太いパイプがあるから、大きな問題にはならないだろう」
そして、ため息をつき、一休の読んでいた新聞を横目で見て浮かぬ顔になった。
「新聞には今日もイカレた野郎の記事がたくさん載ってるか? なあ、一休さん。世の中には悪い奴が山ほどいるんだ。街の片隅でこんなことやってたって、俺は無駄なことだと思うんだけどよ」
読んでいた新聞をゆっくりと折りたたんだ。一休はベンチに座ったまま、青空を見上げる。
「そやな。悪い奴はぎょうさんおるな」
それ以上、何も言わなかった。大道寺は拍子抜けする。
「おい、それだけかよ、坊主のクセに。なんか、俺の心を明るくするようなことでも言えよ」
「そうかて、悪党がようけおるのは事実やんか」
次第に一休の顔から表情がなくなっていく。空を見上げたまま静かに言った。
「そろそろ、お前も自分が置かれている立場に気づけ」
そして、空を見ていた視線を大道寺に移した。その目は珍しく暗かった。わずかに哀れみの色がある。
「人間の社会は、善と悪との危ういバランスに乗っかってる砂上の楼閣や。人の心は悪に流されやすい。油断するとあっという間にバランスが崩れて、社会は崩壊してしまう。そうならんよう、砂を盛り、固めて、何とか楼閣を保つ“砂盛り役”が必要なんや。砂盛りが崩れる砂を懸命にかき集め、固めても、すぐに砂はポロポロ崩れていく。盛って崩れて盛って崩れて・・・・・砂盛りの仕事は永遠にその繰り返しや・・・・」
一休の目には厳しさと虚しさがあった。
「お前もわしも、砂盛りの役目を与えられた。わしはもう、540年になる。いいことも見たけど、悪いこともうんざりするほど見た。修行のためとはいえ、いい加減、疲れたわ。しかし何百年経とうと、わしらは閻魔大王が『もうええ』とおっしゃるまで、砂盛りをやめられん。人間の醜い面を見続けるのは、もしかしたら地獄の刑罰よりつらいかもしれんのぉ・・・・」
一休はため息をついた。だが、大道寺は平然としていた。
「砂上の楼閣の砂盛りか・・・・これこそ本当の無期懲役だな」
その口元が不敵な笑みを浮かべているのに一休は驚いた。
「俺は旭誠会三代目を継いだ時から、悪党としてどんな責任も取る覚悟はできてんだ。大道寺剛三をなめんなよ。砂盛りぐらい、1000年でも2000年でも続けてやらあ!」
しかし、口では威勢のいいことを言っていても、大道寺の額にはねっとりとした脂汗が滲んでおり、唇は乾いていた。丸くなった一休の目が徐々に和んできた。
「冷や汗流しながら強がるな。修行を積んだわしかて、きついんじゃ」
「うるせえ! 極道は意地を忘れたらおしまいなんだ。『つらい』なんか、死んでも言うもんか!」
一休の口元に笑みが広がる。2人の上空には真っ直ぐな飛行機雲が伸びていた。空の上には強い風が吹いているはずなのに、白い筋はどこまでも頑固に真っ直ぐだった。一休は声を上げて笑う。
「残念ながら、お前は死にとうても死なんわ。しかし、悪党やけど、お前はおもろいなあ。閻魔大王が選んだ訳がわかる気がする」
そして、さばさばした表情でベンチから立ち上がった。
「さてと。今夜は慰労会じゃ。居酒屋とピンサロは決まりやが、せめて場所だけでもお前に選ばせてやろう」
そして、大道寺の顔の前で尻についた埃を払う。
「何しやがる、このクソ坊主!」
慌てて立ち上がった大道寺に一休は背中を向けた。スタスタと公園の出口に向かう。
「渋谷でわしに同じことをしたやんけ。そのお返しじゃ。さあ、行くぞ」
大道寺は数メートル離れた小柄な後姿に小石を投げつけた。しかし、まるで背中に目があるかのように一休はヒョイとよける。大道寺は舌打ちしているものの、怒ってはいなかった。手の甲で額の脂汗を拭い、気弱な気持ちを振り払うように、足の速い一休を走って追いかける。
「よう。まだ晩メシ食いに行くには早い。どっかでパチンコしようぜ。軍資金を増やしてやるから、いくらか金貸せ。たんまり金ができたら、銀座や吉原がダメだっていう理由はねえだろ」
しかし、一休は首を横に振る。
「パチンコしてる暇はないわ。さっき新聞で読んだが、神田の消費者金融に男が押し入って、店内にガソリンぶちまけて店長や店員を道連れに焼身自殺したそうじゃ。ちょっと現場を見に行ってみたい。そんな悲惨なことが起きる場所には、悪事の気配が漂ってるかもしれんからな。晩メシはその後や」
大道寺は足の速い一休についていきながら猛然と首を振った。
「冗談じゃねえ。神田にはマチ金やヤミ金の事務所が山ほどあるんだ。悪事の気配なんて、そこいらじゅうに散らばってるよ。そんなところに行ったら、“好奇心旺盛な”あんたはまた何かに首を突っ込んで、晩メシどころじゃなくなっちまう。せめて明日にしろよ」
だが、一休の足は止まらない。それどころか、どんどん加速している。
「そんな話を聞いたら、ますますじっとしてられへん。ついてきとうないなら来んでもええ。その代わり術かけたる。どこにしようかな」
「わかったよ、行くよ! ただし、今日は見るだけだぞ。何かあっても行動は明日だ」
「そんなもん、見てみんとわかるかい」
「ほら見ろ、やっぱり何か始める気だ。今日だけは絶対に嫌だからな!」
明るい陽の差す公園でのどかな午後を楽しんでいた人々は、罵り声を上げながら急ぎ足で公園を出て行く人相の悪い大柄な男と、恐ろしいほど速く歩くボロボロの法衣を着た小柄な僧侶のことを不思議そうに眺めていた。