変容
少女は死のうと考えていた。
戦争は彼女から家族も住まいも全てを奪い去り、最後の拠りどころとなった国家すら数日内にこの世界から消滅させようとしていた。
ぽっかりと心に開いた空虚に注ぎ込まれたのは、数え切れないほどの死の光景だった。完膚なきまでに破壊されつくした街の随所に見られる死が、次第に彼女自身のそれに対する恐れを鈍磨させた。
最後の時は大好きだった街の真中で過ごそうと、彼女はかつて自宅だった廃墟を後にした。
歩き始めてすぐのところに転がっていた兵士の骸から彼女は短銃を抜き取った。銃の扱いは学校で習っていたから、壊れていない限りはそれが確実に彼女の世界を終わらせてくれるはずだった。
途中の景色には目を留める何物も残されていなかったから、市街地に着くのに対して時間もかからなかった。中央広場まで来て周りの光景を眺め渡す。かつてあったにぎわいはもちろん消え失せ、瀟洒な建物は毀たれ、焼け焦げた灰色だけが瞳に映った。そこに何らの美しさもなかったのは寂しかったが、決心を後押しする役には立った。
もうここにいる必要はない。瓦礫のひとつに腰かけると、彼女は銃口を額に押し当てた。
「まあ少し待ってみてはいかがでしょう」
気がつくと変に黒いような衣装に身を包んだ男が立っていた。ような、というのは後になっていくら努力しても男の印象をはっきりと思い出せなかったからで、衣服の黒さも単に彼女の目から男が逆光の中にいたからかもしれないし、よく考えてみれば本当に男の姿だったのかどうかもわからない。
「止めないでよ。もう決めたんだから」
彼女は不愉快な気分になって言った。家を出てからここまで、心の中で丹念に断ち切ってようやく解き放たれたと思ったこの世界とのつながりが、それでまたよみがえってしまったから。
「結果としては止めます。あなたが完全に己の死を定めていたのだとしたら、私の言うことになど耳を貸さなかったでしょうから」
男の言葉は彼女をいらつかせた。
「うるさい! たとえ今やめさせたって、あんたはこれからの私の生きかたに責任なんて持てないでしょ。もう嫌なの、私は惨めに生きていくのは嫌」
心に閃くものがあって、彼女は銃口を男に向けた。
「そうだ、ここであんたを殺すのがいいわ。そうすれば私を引き止めるものは消えるし、殺人者になった私はますます死ぬしかない」
「短絡的な思考ですな」
皮肉めいた口調が怒りに火をつけた。ものも言わず、その勢いを彼女は引き金に掛けた指に向けた。
ばんと途轍もなく大きな音がして、体が引っ繰り返った。
「……痛たあ」
指が折れるかと思った、反動ってやつがこんなに大きいとは。それに、硝煙くさいというのか、この臭い。死体にこんな臭いが残るのは嫌だな。
「確実に死にたいなら銃身を口にくわえなさい。やり損なうと悲惨ですよ」
さっきと変わらない落ち着いた声が聞こえて、彼女は飛び起きた。
「な、なんで――」
弾は。
「発射されていますよ。しかもへっぴり腰のわりに狙いは正確でしたね。きちんと胸に当たっています。ああ、申し遅れました。私は神か悪魔か妖怪変化みたいなもので、ですから人間の武器は効きません」
そう言うと男は1歩近付いた。
「ひっ」
わけのわからない恐怖で、彼女は身を固くした。
「死を覚悟しているのなら恐くないと思いますが。未知への恐怖とは死への恐怖の派生です」
男の手が伸びて、彼女に触れた。
「しかし、私としては未練があるほうが好都合ですね。何せあなたの寿命はまだある。私はあなたを死なせないために来たんですから」
「――何をするつもりなの」
辛うじてそれだけが言葉になった。
「未来を見せてあげましょう。あなたが死ななかった場合のね」
にわかに体が浮き上がった気がした。魂が現実から離れたみたいにどんどん高く昇って、山頂から見晴らすように、様々な出来事が一望の下に入った。その中のひとつに彼女は近付いていく。
私に穏やかな眼差しを向ける、ああ、これは私の夫だ。何か言いたそうに口が開きかける、その言葉は聞く前から私にはわかっていた。わかっていたけれども、そのひと言とて漏らしたくなくて、私は彼を抱きしめる。
場面が変わった。私は産着の中の赤ん坊を眺めている。私の子供。これまで子供がこんなに愛らしいと思ったことはなかった。腕に伝わる確かな熱と重さ。
「いかがですか」
涙がこぼれているのに、彼女は気づいた。今の光景だけじゃない。それを見ている間感じ続けていたこの上ない温かさ、これが幸福?
「もし死ななければ、本当に私は今のを体験できるの」
「はい。いつとは言えませんが、これはあなたの未来の記憶です」
男は自信ありげに答えた。
「やめる」
彼女は男に銃を押しつけて立ち上がり、後ろも見ないで歩き始めた。ちょっと慌てたような声が背中に届いた。
「万一お気が変わるようでしたら、そうですね、10年後にまたここでお会いしましょう」
10年は意外に早く流れた。その間、男と会った日付を彼女は胸に刻み込んで忘れなかった。
約束の日の同じ時間に彼女は中央広場へ向かった。ベンチに座り、あの時と同じように辺りを見回す。復興相成った広場は昔とは見違えて、原色の飾りで装った商店が軒を連ね、せわしない人通りでごった返していた。
「いらっしゃいましたか」
見逃すまいと意識していたはずなのに、今回も気がついた時には男は目の前に立っていた。
「あんたに文句が言いたくてね」
彼女は挑発的な口調で切り出した。
「おや、心外な」
薄い笑いを浮かべる男に、彼女は続けた。
「何が心外よ、あんた私をだましたでしょ。あんたの見せたとおり、確かに夫はできた、子供も生まれた。でもあんな風に幸せだなんて感じたこと、1度だってなかったわ。夫は周りから無理やりくっつけられたみたいなもので、しかも意志薄弱の飲んだくれ。子供だって手ばっかりかかって、可愛いなんて思う暇もなかったわ」
「それはおかしい」
男は納得のいかない表情になった。
「私は記憶の捏造などしたつもりはない。確かにあなたの記憶を引き出したつもりですが」
「誰か他人のと間違ったんじゃないの? ま、もうどうでもいいわ。さよなら」
さっさとベンチを立った彼女を男が呼び止める。
「それだけですか。もしお望みなら、前にしそびれたことを今行っても」
男の手にある銃を、彼女は冷ややかに見つめた。
「馬鹿。10年前ならまだしも、今はもう駄目よ。いくら夫が好きじゃない、子供が可愛くないって言ったって、放り出して私だけいなくなるわけにはいかないわ。よくわからないけど、これが私を死なせないための策略か何かだったなら、見事にあんたの勝ちってわけね。おめでとう」
言い捨てて彼女は歩き出す。その後ろ姿に、前回と同じように男の声が響いた。
「私にも責任というものがあります。これから10年ごとに、私はここであなたをお待ちしましょう。何かあればいらしてください」
次の10年目、彼女は広場に行かなかった。行く必要を感じなかったから。その次も、そのまた次も。次第に男に会ったこと自体が幻だったのではないかと感じるようになり、それなら行って確かめれば良いのだが、もしそれで男がいたらと思うとそれはそれで恐いような気がして、結局その後1度も広場を訪れなかった。
何度目なのかよくわからない、でもその日が約束の日だという、それだけはよく覚えていた。そろそろ行ってあげてもいいんじゃないかと思って、そうして、これも人生の皮肉ってものかと笑った。
今年は行かないのではなく、行けなかった。彼女は病に伏していたのである。
夫には数年前に先立たれていた。もう少しお酒を減らすように言ったほうがよかったかな、と彼女は思う。でも、朗らかに酔っている時の夫は、ちょっとお酒に嫉妬するほど幸せそうだったし、最期もあまり苦しみはなかった。あれはあれでいいんだ。
息子はもうずっと前に独立して、別の町で商売を営んでいたが、仕事を店の者に預けて、数日前から家族を連れて戻ってきていた。お見舞いと称してはいたものの、実のところ自分を看取りに来たのだと、彼女は知っていた。
「そろそろみたいね」
彼女は呟いた。あの男と会った時間を思い出して独りごちたのだが、それまで当り障りのない話題で談笑していた息子夫婦がはたと黙った。何を思ったか、言うまでもない。誰に似たか妙に勝気なところのある息子は、目の端に溜まった涙を流すまいと彼女をにらむようにしている。
ふと異質な気配を感じて目を動かすと、いつの間にかあの黒い男が部屋の隅に立っていた。
「失礼します。いつまで待ってもおいで頂けないので、本日はこちらから伺いました」
「商売熱心なことね。結構だわ」
安寧が彼女を包んだ。どうやらこの男だけが心残りだったらしい。
「宜しければ、参りましょうか」
「それで私を撃つのかしら」
かつて渡した古めかしい銃が、男の手に握られていた。
「いえ、そんな野暮ったい手続きはいりません。私が案内しますから、あなたにはついて来て頂く、それだけです」
男は音もなく近付き、手を差し出した。彼女はベッドに起き直る。身体が驚くほど軽い。
手を取った瞬間、彼女はあの日、男に触れられた時のことを思い出す。それをきっかけに、過去の記憶が次々とよみがえった。どうしてか、辛さや苦しさまでもが冒しがたく美しいきらめきに結晶するようだった。
やがて記憶は遥かな光の風景となって広がった。彼女は、その中でもひと際まばゆい輝きに歩み寄る。
男が得意げに言った。
「どうです。私の仕事に誤りはなかったでしょう」
彼女は吹き出したくなる気持ちを押さえて答えた。
「ええ、そうね。でもちょっと反則じゃないかしら。最期の瞬間に見た想い出を映してみせるなんて」